
空襲を受ける前の鹿児島飛行場 国会図書館デジタルコレクションより
鹿児島県の空襲を調べている者として、鹿児島飛行場への攻撃に注目した。南日本新聞に掲載された同飛行場の写真は貴重である。飛行場の護岸や鴨池川河口、新川などを確認できる。同川両岸の鹿児島航空基地の施設と鹿児島海軍航空隊の建物なども見られる。
5月17日付毎日新聞にも同じ写真が掲載されている。説明文は次のように記す。
1945年3月18日午後3時45分ごろ、鹿児島市内の旧海軍鹿児島飛行場周辺の軍施設に米空母艦載機のロケット弾が発射される様子
攻撃の日付と時刻は、「AIRCRAFT ACTION REORT(艦載機戦闘報告書)」に目を通さなければ知りえぬ情報である。おそらく、豊の国宇佐市塾の方から情報を得たのであろう。
この日、鹿児島飛行場は午前7時前後に第1波の攻撃に始まり、午前9時台まで断続的に攻撃を受けている。午後は14時45分から16時頃までの2波で、最終は21時10分〜22時10分に最後の攻撃があった。いずれも、米軍の艦載機戦闘報告書に拠っている。
■空母BATAAN
5月14日付南日本新聞も、攻撃を受ける鹿児島飛行場の写真を掲載している。毎日新聞と同じ写真である。南日本新聞は、同飛行場攻撃について次のように記す。
同日午後4時前に海軍鹿児島飛行場(鹿児島市)に対し行われた攻撃も「バターン」の戦闘機隊が担い、出撃回数は5次に及んだ。
この記事から受ける印象として、バターンだけが攻撃したと理解しそうである。空母バターンの艦載機戦闘報告書は、こう記している。
Sixteen Hellcat fighters of VF-47(BATAAN) and VF-45(SAN JACINTO) and six Corsairs of VF-5(FRANKLIN) and one photo Hellcat combined to make a sweep of Kagoshima and Izumi Airfields and facilieies.
抄訳する。
空母バターンと空母サンジャシントのヘルキャット16機、空母フランクリンのコルセア6機、撮影任務のヘルキャット1機は共同して鹿児島・出水両飛行場と施設を掃討した。
3隻の空母から発進した戦闘機隊が、共同で攻撃している。戦闘機隊の発艦と着艦、目標上空到達などの時刻を記す。
@バターン
発艦14:15
目標上空到達 記述ナシ
帰還17:45
Aサンジャシント
発艦14:15
目標上空到達15:45(鹿児島飛行場)、16:15(出水飛行場)
帰還17:50〜55
Bフランクリン
発艦14:30
目標上空到達16:00
帰還17:45
毎日新聞に「午後3時45分ごろ」と記したのは、サンジャシントの報告書からと思われる。これらの米軍機は対してロケット弾を同じ施設を狙って発射している。
The Aircraft factory (saw toothed building on the west side of the field)
機体組立工場(飛行場西側にある鋸歯状屋根の建物)
以前、「鹿児島市真砂本町の不発弾について」と「鹿児島市真砂本町の不発弾」で触れた建物である。
ちなみに、迎撃機について同報告書は次のように記している。
「No enemy A/C encountered.」(敵機との遭遇なし)
艦載機戦闘報告書を時系列に並べると、日本海軍機が相当数撃墜されている。このことが関係しているかもしれない。
今回、この記事を書いたのには理由がある。『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』に昭和20年3月18日の空襲に関する記述について、再考してもらうためである。
両書は、こう記す。
昭和20(1945)年3月18日午前5時42分、鹿児島市役所屋上のサイレンが空襲警報を報じた。
市防空課に入った情報第1号は「敵の機動部隊は大隅半島の南方300キロの洋上に出現、南九州空襲の公算大なり」というものだった。
午前7時50分頃、米グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃した。
以前から疑問を抱いているこの記述、どういった記録を基にしているだろうか。おそらく、『あれから十年』(本田斉著)と『勝目清回顧録』がベースになっていると思われる。両書ともに、終戦から十年以上経って書かれた個人の回想録である。
この日の鹿児島飛行場に対する攻撃は、1回で終わったことになっている。
南日本新聞と毎日新聞の報道で、午後3時45分にも米軍の攻撃があったことがわかる。
「午前7時50分頃」を米軍の艦載機戦闘報告に記された目標上空到達時刻と照らし合わせてみる。「7時30分」「8時10分」に目標上空に到達しているから、これらのことを述べているかもしれない。
また、「艦載機40機」とあるが、艦載機戦闘報告書で積もっていくと「201機」となった。
これらのことから、昭和20年3月18日に起こった空襲に関する従来の記述は、見直す必要がある。
■参考記事
『鹿児島市真砂本町の不発弾について』
http://burakago.seesaa.net/article/502692949.html
『鹿児島市真砂本町の不発弾』
http://burakago.seesaa.net/article/502589768.html
『昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市』
http://burakago.seesaa.net/article/489108677.html
■参考文献
南日本新聞 2024年5月14日付「都城、鹿児島市の飛行場空襲」
朝日新聞西部本社版 2024年5月14日付「海軍飛行場空襲映像も 鹿児島」
毎日新聞西部本社版 2024年5月17日付「空襲受ける飛行場の姿」