『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』は記す。断定しているから、当時しるされた記録に拠っているのだろと考えていたが、そうではないらしい。
『勝目清回顧録』と『あれから十年』を基にした記述のようだ。
『勝目清回顧録』(勝目清・昭和38年刊)
『あれから十年』(本田斉・1955年刊)
いずれも、戦後10年以上たって刊行された書物である。勝目さんは戦時中、鹿児島市助役。本田さんは、鹿児島市防空課長。お二方ともに、鹿児島市の要職にあった人物ゆえ両書が採用されたと思われる。
『勝目清回顧録』は、オーラルヒストリーといえる。勝目さんから見た、鹿児島市政をうかがえる。貴重な資料といえる。
鹿児島市にB29が初めて飛来した日は、昭和20年1月1日とする記述はどうだろうか。
米軍資料とつき合わせてみる。
■米軍資料から
1945年5月15日作成の米軍資料をみる。
この文書に、米軍が設定した南九州の地勢や植生、飛行場などの情報が記されている。設定域は、鹿児島県と宮崎県の一部になる。
同文書に鹿児島航空基地を捉えた写真が掲載されている。
文書はこう記す。

KAGOSHIMA AIRFIELD & AUXILIARY SEAPLANE SYATION
Sortie 444BG / 4MR50 / XXBC, 26 Dec 1944
Approx, Scale in Feat
直訳すると、鹿児島飛行場と補助的な水上基地。
第20爆撃機集団第444軍団が、1944年12月26日に撮影。
この日、鹿児島飛行場の撮影だけでなかった。鹿児島郡谷山町にあった、田辺航空工業鰍燻B影している。写真とともに記された文章を記してみる。

UnIdentified Plant, TANIYAMA
Sortie 444BG / 4MR50 /XXBC, 26 Dec 1944
直訳すると、谷山の未確認工場。
この日、笠之原飛行場(鹿屋市)や鹿屋飛行場(鹿屋市)、郡元飛行場(宮崎県都城市)なども撮影している。
これらの写真から考えるに、「昭和20年1月1日に、B29が初めて鹿児島市に姿を見せた」とする記述は、再考する必要がありそうだ。
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「1944年米軍機飛来」
http://burakago.seesaa.net/article/499012410.html
■参考文献
『勝目清回顧録』(勝目清・南日本新聞社・昭和38年刊)
『あれから十年』(本田斉・1955年刊)