広島市に原爆が投下された後、医師1人と看護師5人で応援隊として出動したらしい。
原爆投下から3、4日後に、名古屋市を出発。現地到着日は記されていない。
少なくとも、8月10日以降になると思われる。
彼女は広島市の光景をこう記す。
着くと、地上は原爆ドーム以外ほとんど何もない焼け野原。驚きました。地下道はひどい傷でうめき苦しむ人たちで埋め尽くされ、やけどにウジが湧いた子どもたちに「助けて」と足をつかまれてたじろぎました。
他都市から集まった看護師らと診療所で看護に当たりましたが、薬もも物もほとんどない中で、海水で傷口を洗いました
投稿文を読んだ後、2つの文書に目を通した。
ひとつめは、『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』と題する文書である。同文書は、昭和20年8月20日時点の状況を記している。

同文書に、「医療救護班出動表8月18日現在」と題する一覧表がある。
昭和20年8月6日から同18日まで、出動した医師や歯科医師、薬剤師、看護師など人数が記されている。また、医療スタッフの人数は、広島県内と県外を分けている。
一覧表の最後に「註」として、こう記している。
縣外医療救護班ハ山口、島根、鳥取、岡山、兵庫、各縣ヨリ應援派遣ヲ受ク
■広島原爆戦災誌
もうひとつの文書、『広島原爆戦災誌第1巻』を開く。
「県外医療救護班応援状況表」題する一覧表が掲載されている。8月7日から10月3日までの状況を記している。
岡山、島根、山口、兵庫、鳥取、大阪などの都市名は記されているが、愛知県の名はない。
『広島原爆戦災誌第1巻』に、次のような記述がある。
県外各地の医師会派遣による医療救護班のほかに、軍の命令によって各地の赤十字病院からも多くの救護班が出動した。これは当時、赤十字病院はすべて陸軍病院分院か海軍病院分院となっていたためであって(以下省略)
文中に「医師会」とあるが、当時の言葉を使えば「日本医療団」であろう。
『広島原爆戦災誌第1巻』に掲載された「県外医療救護班応援状況表」の数字を検討する必要があるように思う。
朝日新聞に掲載された投稿文や『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』、『広島原爆戦災誌第1巻』を合わせて考えると、埋もれた事実があるようだ。
投稿された方に聞き取りを同社にお願いしたいところである。公的記録に記載されていない、埋もれた事実が詳らかになるかもしれない。彼女の投稿は、貴重な証言であろう。
■参考資料
「被爆直後の広島 海水で傷洗い」(2024年8月21日付朝日新聞・語りつぐ戦争)
『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』(国会図書館デジタルコレクション)
『広島原爆戦災誌第1巻』(広島市・1971年)