2025年02月01日

1944年12月26日 米軍機飛来 南九州

 先日、知覧特攻平和会館のホームページを行った折、研究紀要を閲覧した。
いくつかの論文のうち、「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡)の一文に目がとまった。

 知覧に初めて偵察機が飛来したのは1944年12月26日である。

 同論文に、偵察機が飛来した一覧表もある。1944年12月26日は、「作戦番号4MR50」とある。
これは、1945年5月15日作成の米軍文書に、同じ作戦番号の偵察写真が掲載されている。
「Sortie 444BG/4MR50/XXBC ,26 Dec 1944」。
 第20爆撃機集団第444軍団、作戦番号4MR50 1944年12月26日。
同文書に掲載された写真は、宮崎県と鹿児島県にあった飛行場と軍需工場をとらえている。

@KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
AKANOYA EAST AIRFIELD(笠之原飛行場)
BKORIMOTO AIRFIELD(都城東飛行場)
CMIYAKONOJO AIRFIELD(都城西飛行場)
DNITTAGAHARA AIRFIELD(新田原飛行場)
EUnidentified Plant, MIYAZAKI(川崎航空都城工場)
FUnidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
GKAGOSHIMA CITY
HMIYAZAKI CITY
IMIYAKONOJO CITY

 ここでいう南九州は、米軍の設定地域である。現在の南九州と若干異なるかもしれない。
同文書に知覧飛行場の写真が掲載されているが、1945年3月18日撮影である。
八巻さんの研究で、1944(昭和19)年12月26日、米軍偵察機が知覧に飛来した事実があった。上に記した飛行場や軍需工場、市街地の写真は同日に撮影されたのであろう。
第20爆撃機集団の偵察に関する文書を、収集する必要がある。

 鹿児島市の空襲について考える。『鹿児島市史第2巻』で、昭和20(1945)1月1日に関する記述がある。

 鹿児島市に初めて敵機が飛んで来たのは、昭和20年(1945)1月1日である。勝目清回顧録によると・・・。

 同書は、昭和20(1945)年1月1日と断定している。
これは、『勝目清回顧録』(1964年刊)の記述をもとにしている。終戦から19年後に刊行され、個人の回想録を根拠にしている。
米軍文書に掲載された写真と矛盾してくる。

KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
 19450318 kagoshimaAF 1.jpg

Unidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
 tanabe1.jpg

KAGOSHIMA CITY
 kagosimaAF19441226.jpg

 終戦から80年が経つ。
これまで常識とされてきた空襲の記述を、今年は見直す機会になればと思う。

■関連記事
 「1944年米軍機飛来
 burakago.seesaa.net/article/499012410.html

 「昭和20年1月1日 鹿児島日報の記事から
 burakago.seesaa.net/article/502204394.html

 「鹿児島市にB29が初めて姿を見せた日
 burakago.seesaa.net/article/504149507.html

 
■参考文献
「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡・知覧特攻平和会館HP・2025年1月20日閲覧)
posted by 山川かんきつ at 22:44| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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