いくつかの論文のうち、「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡)の一文に目がとまった。
知覧に初めて偵察機が飛来したのは1944年12月26日である。
同論文に、偵察機が飛来した一覧表もある。1944年12月26日は、「作戦番号4MR50」とある。
これは、1945年5月15日作成の米軍文書に、同じ作戦番号の偵察写真が掲載されている。
「Sortie 444BG/4MR50/XXBC ,26 Dec 1944」。
第20爆撃機集団第444軍団、作戦番号4MR50 1944年12月26日。
同文書に掲載された写真は、宮崎県と鹿児島県にあった飛行場と軍需工場をとらえている。
@KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
AKANOYA EAST AIRFIELD(笠之原飛行場)
BKORIMOTO AIRFIELD(都城東飛行場)
CMIYAKONOJO AIRFIELD(都城西飛行場)
DNITTAGAHARA AIRFIELD(新田原飛行場)
EUnidentified Plant, MIYAZAKI(川崎航空都城工場)
FUnidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
GKAGOSHIMA CITY
HMIYAZAKI CITY
IMIYAKONOJO CITY
ここでいう南九州は、米軍の設定地域である。現在の南九州と若干異なるかもしれない。
同文書に知覧飛行場の写真が掲載されているが、1945年3月18日撮影である。
八巻さんの研究で、1944(昭和19)年12月26日、米軍偵察機が知覧に飛来した事実があった。上に記した飛行場や軍需工場、市街地の写真は同日に撮影されたのであろう。
第20爆撃機集団の偵察に関する文書を、収集する必要がある。
鹿児島市の空襲について考える。『鹿児島市史第2巻』で、昭和20(1945)1月1日に関する記述がある。
鹿児島市に初めて敵機が飛んで来たのは、昭和20年(1945)1月1日である。勝目清回顧録によると・・・。
同書は、昭和20(1945)年1月1日と断定している。
これは、『勝目清回顧録』(1964年刊)の記述をもとにしている。終戦から19年後に刊行され、個人の回想録を根拠にしている。
米軍文書に掲載された写真と矛盾してくる。
KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION

Unidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)

KAGOSHIMA CITY

終戦から80年が経つ。
これまで常識とされてきた空襲の記述を、今年は見直す機会になればと思う。
■関連記事
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「昭和20年1月1日 鹿児島日報の記事から」
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■参考文献
「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡・知覧特攻平和会館HP・2025年1月20日閲覧)