昭和の遺物がまた消える。建物が島津氏や明治維新と関連すると、官もメディアも上へ下への大騒ぎをする。近代史的なものになると、ほとんど関心を示さない。
建物の解体にたいして、あっさりした対応である。
筆者の手元に、『鹿児島県教育会館落成記念号』と題する1冊がある。同書に沿って、教育会館について触れてみる。
■御大典記念として建築を決定
同書の「御大典記念 鹿児島縣教育會館設立趣意書」は、こう記す。
伏して帷(おもい)みるに今上陛下には允文允部(いんぶんいんぶ)大統(たいとう)を承けて神州に君臨し給ひ 昭和三年秋涼の候 御即位御大典を擧げさせらるる事となりました。
大正十五年は専ら準備調査を進めしに其時先帝の御崩御に逢ひ、昭和二年の新春を迎へて、愈々(いよいよ)昭和三年擧けさせらるる御大典記念として建築する事に腹を定め 昭和二年十月二十二日の代議員會に於て會館建築の議を決定せり
七千萬の臣子斉(ひと)しく 皇祚(こうそ)の無窮(むきゅう) 國家の隆昌を祝福してやまない次第であります。此の御盛事を永久に記念する為(た)め一大教育会館を建設し以て本縣教育振興の中心としたいのであります。
今や國家の現状と社會の實状とは吾々教育者に向つて一大奮起を促して居るのであります。
教育会館は、昭和天皇の即位を祝いつつ、永久に記念するために建てられた。
それから100年近くも経つと、設立の趣旨を忘れ、あっさりと解体が決まったようである。
建築費用は約13万円。資金をどうしたのか? 同書は述べる。
此の教育會館は教育者が主となって建設致し度(た)い豫定でありますが、公私団体若しくは教育に理解と同情を有せらるる人々の御援助は喜んで受け度(た)いと存じます。
小学校補習学校在校職者の会員は毎月俸給額の百分の一宛二ヶ年
2年間、給料の1%を差し引かれたらしい。天引きだったかもしれない。
建物は本館のほかに、3棟の木造建築も完成している。
本館 ― 鉄筋コンクリート3階建て 建築面積205坪
別館(宿泊所)― 木造2階建て 約98坪
印刷部―木造一部2階建 建築面積135坪25
宿直使丁室―木造平屋12坪5
『鹿児島県教育会館落成記念号』は、建物完成を興奮しつつ記す。
本縣教育に燐として輝く
教育の大殿堂竣工
館の馬場に巍然(ぎぜん)たる雄姿 「我等が教育会館」の落成式
地は翠緑(すいりょく)の城山々下に位し秀麗其のものの島芙蓉を一眸(いちぼう)の裡に眺むる自然に恵まれしかも位置や旧藩時代、聖堂等を置かれし薩藩文化の中心であった由緒深き處誠に本縣教育振興の根元地として相應(ふさ)はしく光輝ある歴史に富める處である。
藩政時代に思いを寄せるところは、現代もなんら変わりはない。同書はつづける。
會館はセセッション式の宏壮な三階鐵筋コンクリートで構造は近代建築の粋を蒐め、総てが合理的でしかも堅牢に出来上がってゐる。外塗りはフヂムラサキで自ら人の心を柔げる近代色を選んで、かくして「我等の教育會館」は輝かしい自然と歴史とに恵まれ更に人工の美を尽せる建築とを以て館の馬場に巍然たる雄姿を現はすに至った。乃ち本縣教育會は此の希望を籠めた殿堂によって今後一層の勇を振ひ縣教育の振興を目標に邁進せんとするのである。
教育会館の外壁は、「フヂムラサキ」色をしていたようだ。外壁は、薄いピンク色か薄い紫色だったろうと想像していた。じつは、「フヂムラキ」だった。筆者は建築物に関してあまり関心がない。詳しく知りたい方は、鹿児島県内の建築を扱った図書をご覧あれ。
■教育会館と空襲
2025年8月15日付南日本新聞「語り継ぐ爪痕鹿児島空襲」で、教育会館を取り上げ、「45年6月17日の大空襲で内部が焼失」と、報じた。
この事実は、教育会館で何らかの記録を持っていたのであろうか。どういった資料をもとにしているのか、それを報じてほしいところである。
戦争体験談に、昭和20年4月8日の空襲と教育会館について書き残している方がある。
『鹿児島県の空襲戦災の記録第一集 鹿児島の部』に、「つらい体験の記憶」と題する一文である。
書き手は当時、照国神社近く城山の麓にお住まいだったらしい。
近くに教育会館があり、その地下が救護所になっていました。そこには呻くもの、呻く力もなく生きる屍となった人たちがいっぱいで、地獄がこの世にあるとしたらこのような状態を云うのではないでしょうか。
昭和20年4月8日の空襲体験談に目を通していると、悲惨な状況を想像できる。この日の空襲について、鹿児島市が記録を残していないようである。警防団が記録を取っていたと思うのだが、見当たらない。おかげで、被害の実相に迫れない。
メディアは、6月17日鹿児島大空襲ばかり報じる。4月8日は、ほとんど報じられない。
鹿児島市民が初めて受けた空襲にも関わらず・・・。
米軍の資料に、昭和20年4月21日の鹿児島市空襲をとらえた写真が残る。
写真を拡大すると、鹿児島県立病院の傍に爆炎が4つほどあがっている。これは、体験談や病院史の記述と合う。
この日の空襲は、西本願寺の傍にあった鹿児島貯金支局の建物が被災している。
県立病院から西本願寺まで直線で結ぶと、教育会館の傍を通る。爆撃にあっていないようだから、運が良かったとしか言いようがない。
今月、同館は解体される。同時に、戦争にまつわる記憶も無くなるかもしれない。
■ことばの意味
「允文允部」の読みは、「いんぶんいんぶ」。意味は学問と武芸ともに優れていること。
■参考文献
「鹿児島県教育会館落成記念号」鹿児島教育抜刷 昭和4年〜昭和7年
「語り継ぐ爪痕鹿児島空襲」2025年8月15日付南日本新聞
『鹿児島県の空襲戦災の記録第一集 鹿児島の部』鹿児島県の空襲を記録する会1985年

