2025年10月02日

終戦直後の発疹チフス

 朝日新聞「写真は語る1946(昭和21年)」に見入った。2025年9月29日付である。
国政選挙投票の様子、日本国憲法公記念祝賀大会、東京裁判の法廷、日本軍機のスクラップが山積みされた傍に立つ露天、引き揚げ孤児など終戦翌年をとらえた写真は、どれも貴重な一次資料である。

 一枚の写真に目がとまる。横浜市の桜木町駅前で殺虫剤DDTを女性に散布する一枚である。「発疹チフスが流行し、患者数は1946年の1月から7月で約3万5000人に及んだ」と、説明されている。
写真と記事を読むうちに、作家の日記を思い出した。内田百閧ニ山田風太郎である。

百鬼園戦後日記I (中公文庫 う 9-12) - 内田 百
百鬼園戦後日記I (中公文庫 う 9-12) - 内田 百

百鬼園戦後日記T 
 内田百閧フ日記、昭和21年4月13日(土)十夜は次のように記す。

 電車は相不変(あいかわらず)こむ。人ごみに揉まれると発疹窒扶斯(チフス)こはし。昨日は近所の土手沿いの市ヶ谷駅へ出る一寸手前のバラックに二人の患者が出たる由。新聞によれば十一日には板橋区の八百人を筆頭に下谷王子世田谷目黒の各区に新患者続出し、累計四千二百六十八人とあり。しかし空襲よりはこはくない。音がしないだけでもいい。

 いつも強きで我儘な百關謳カ。チフスに戦々恐々としていたらしい。先生は、空襲体験をさらりと描いている。空襲と音である。空襲体験談に目を通すと、爆弾が落ちる時と着弾後の音を書き残す人が多い。焼夷弾が落ちる際は、ザーザーと雨が降るような音がしたともある。百關謳カは貴重な記録を残してくださった。
もうひとりの作家は、山田風太郎である。当時、医学生。その視点で描かれる。

戦中派焼け跡日記: 昭和21年 - 山田 風太郎
戦中派焼け跡日記: 昭和21年 - 山田 風太郎

戦中派焼け跡日記
 @昭和21年3月24日(日)晴
 電車の座に横たわれる三十余りの浮浪女を見る。唇の傍に泥色のパン三つ転がれり。傍に坐りてこくりこくり眠れる七、八つの男の子蓬々たる髪に頬かむりに、無意識の中に、股ぐらに手をつっこみては虱(しらみ)を撮み出して、毛の出たる座席に棄つ。都内に猛威をふるう発疹チフスの媒介者の姿歴々たり。

A昭和21年4月4日(木)曇(昨夜大雨)夕晴
 渋谷駅にて臨時種痘を受く。現行の方法は既に時代遅れにて米国にては注射也と。
 高円寺の界隈発疹チフスの猖獗地なれば夜更けて長き筒持ちたる男たち、白き粉を噴出せしめつつ各家々を廻るが見ゆ。これ発疹チフス防遏(ぼうあつ)の特効薬米軍持参のDDTなり。


 ふたりの作家は、東京都内の様子を記したのだが、鹿児島はどうだったろうか。
『鹿児島年鑑昭和23年版』を開いてみる。

鹿児島年鑑 昭和23年
保健と衛生
 終戦後在外縣民の引揚に伴って、従来縣内では殆どその例をみなかった発疹チフスの発生をはじめコレラ、天然痘、赤痢など各種の法定伝染病が二十、二十一両年度にわたって縣下各地に流行、戦災の結果、環境衛生も極めて悪かったためこれらの防遏は相当の困難を伴ったが、予防接種の励行、DDTの撒布などによって次第に減少し、発疹チフスコレラは全く終息、二十二年は前年より疫痢と流行性脳髄炎の若干増発をみただけで総体的には激減して大体十九年程度の平時状態に帰った。戦争病といわれる結核はその死亡者数からみると下向となっているが・・・
 以上何れも伝染系統は海外引揚者と関連し二十年、二十一年は特に各種伝染病の発生を見たが二十二年に至り漸く十九年の状態に帰った。


 Kagoshima military governmentの文書に、鹿児島保健所が昭和23(1948)年11月10日に作成した「統計図表」がある。そのなかに、「鹿児島市昭和17−22年法定伝染病発生死亡数」と題された文書がある。
発疹チフスは、昭和21(1946)年に28人が発症し2人が死亡されている。昭和18(1943)年に1人が発症した以外は、発疹チフスの記録がない。

 チフスの名前を冠している2つの感染症がある。腸チフスとパラチフスである。両感染症は1942年から1947年まで、毎年感染者を出している。
腸チフスは、1943年に90人が発症。1946年に53人が発症。
パラチフスは、1944年に40人が発症。いずれも、感染者数が多いもの記した。
腸チフスとパラチフスは、発疹チフスと異なるらしい。医学知識が必要になると、お手上げである。

 先述の「鹿児島市 昭和17−22年法定伝染病発生死亡数」を眺めていて、感染者数が極端に多い伝染病がある。赤痢とジフテリアである。
@赤痢
 1944年240人発症、34人死亡。
 1945年596人発症、43人死亡。
 1946年166人発症、19人死亡。

Aジフテリア 
 1943年103人発症、死亡3人
 1944年447人発症、死亡15人
 1945年218人発症、死亡8人
 1946年190人発症、死亡7人
 1947年117人発症、死亡12人

 赤痢について、戦争体験談や個人の回想録に書き残されている。戦時中、鹿児島市助役を務めた勝目清氏が、『勝目清回顧録』に記している。赤痢は昭和19年に激増し、昭和20年にピークを迎える。ジフテリアもまた昭和19年に激増している。

原因は何であったろうか。思うと同時に、
戦時中の鹿児島市民は、敵国アメリカだけでなく感染症とも戦わなければならなかったようである。

参考文献
百鬼園戦後日記T(内田百閨E中央公論社・2019)
戦中派焼け跡日記(山田風太郎・小学館文庫・2011年)
「統計図表」(鹿児島保健所 昭和23(1948)年11月10日作成)
posted by 山川かんきつ at 23:14| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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