司馬遼太郎著『昭和という国家』である。くり返し読むこと幾たびか。

「昭和」という国家 - 司馬 遼太郎
ひとつの要因として、同書の記述と同じことを他の作家が述べているところにある。
鶴見俊輔や永井荷風、清澤洌などの論考や日記が、司馬さんの記述と繋がる。
驚いたのは、『昭和という国家』の「第3章帝国主義とソロバン勘定」である。
清澤洌『混迷時代の生活態度』と同様の内容が記されている。
■帝国主義とソロバン勘定
少佐ぐらいまでは日本人は優秀であります。ところが、それより上にいくと、非常にグローバルにものを見なければなりません。
そして、ひとつのアクションには、リアクションが返ってくる。そのリアクションは、世界の規模で考えなければいけない。世界の規模、つまり外交感覚だけではなくて、経済とか人の心とか、いろいろなことを統合しなければいけない。
将軍のことをゼネラルといいますが、総合者のいみです。諸価値の総合者という意味ですね。
同書第10章「青写真に落ちた影」で、こうも述べる。
日本人のドイツ傾斜というものは、ひょっとすると日本人の不幸の原因のひとつになったのではないか、そんな気もしています。
『昭和という国家』から引用した内容と、ほぼ同じ論考がある。清澤洌が昭和10年(1935)に書き下ろした『混迷時代の生活態度』である。
■混迷時代の生活態度
清澤は日本の欠点をこう指摘する。
部分的であって、総合的なことが不得手でありはしないかと考える。不必要に専門的になるという癖は総ゆる方面で見られる。
一つの専門しか知らないでいなくちゃいけないという傾向があります。
ところが国政というものはそうじゃない。近頃は経済もんだいは世界の動きが分からなければ判断できない。政治は経済を知らずして解されぬ。
総理大臣には一つの専門家じゃなれない。各方面の知識を総合して―それは人間一人の力でありますからそう詳細に一々知ることはできないが、少なくともプリンシプルを知って、それ等の知識を総合して、その上に政策を編むということが政治家の役目である。
こういう政治家が日本には非常に少ないのであります。
殊に英国人などは比較的に総合的です。
ドイツ式の教育を受けた日本人には、視野が狭いという欠点があると思う。部分的には深いが総合的な才がないことが、現在のような一つの社会的な行詰まりを来した原因じゃないかと私は考える。
清澤は同書で、セクショナリズムにも言及する。
セクショナリズムとは区画主義とでもいうべきもので、自己の部門のことばかり主張し、頑守することだ。そのセクショナリズムの弊をマザマザと見せつけられるのが、予算編成期であります。
昭和初期から終戦まで、日本陸海軍の政治的な動きを見る。「セクショナリズム」は、至当な言葉と思う。海軍は軍令部と海軍省とが、陸軍は参謀本部と陸軍省がそれである。
自己の部門のことばかり主張している。そこに総合的な視点は感じられない。
『混迷時代の生活態度』は、今から90年前に書かれた論考である。
司馬さんの『昭和という国家』とも繋がる記述が目につく。また、清澤の論考はアメリカ戦略爆撃調査団の概要報告書とも相性が良い。
■作用と反作用
日中間の報道に接していて、司馬さんの指摘を思った。
ひとつのアクションには、リアクションが返ってくる。そのリアクションは、世界の規模で考えなければいけない。世界の規模、つまり外交感覚だけではなくて、経済とか人の心とか、いろいろなことを統合しなければいけない。
清澤洌が90年前に記した論考も参考になるかもしれない。
ひとつの思想を絶対にいいと信じて、それ以外には何といっても耳を傾けない。
隣の国が憎い。彼は敵だと決めてしまって、この対手にもそれぞれの立場があることが解らないのです。窓を占め切っているから新しい知識も這入らない。
日中間の報道に目を通していて、米国は梯子を外すのではと危惧する次第である。
何せかの国のリーダーは、何をしでかすか読めぬお人である。
■参考文献
『昭和という国家』(司馬遼太郎・NHKブックス・2000年)
『混迷時代の生活態度』(清澤洌・千倉書房・昭和10年)

