2015年05月27日

江戸時代の上町

武家屋敷と町屋敷
『鹿児島県の地名』によると、城下の海浜は、北から“市の浜”、前之浜(城の前)、大門口浜とつづいていたそうです。上町の浜は、市の浜から前之浜にかけてで、古くから船溜でありました。
正保2年(1645)、二代藩主島津光久はこの海浜の崩壊石堤修復願いを幕府に提出し、許可を得ました。新たな係船場となる石堤は高さ3間半・長さ500間もの大きなものでした。
と同時に浚渫も認められ、船の往来ができるようになったのでした。

また元禄14年(1701)3月、埋め立て計画を幕府に申請。『島津国史』によれば、「城下士庶宅迫溢、屡々有火災、延及城郭之故」とあり町屋敷を新たな築地に移して武家屋敷を確保し、武家屋敷と町屋敷の混在を避けるという目的があったようです。
この時代、身分制が確立。武士と町人の居住地は、ハッキリと区別されるようになったようです。武士の居住地を上方限(上・上方)と呼び、町人たちのものを上町と呼ぶようになりました。

江戸期の上町は、内城時代の上町と下町を合わせたエリアを呼ぶようになりました。
鶴丸城築城とともに始められた甲突川の付け替えにより、広い土地の造成が可能となりました。武士の住む下方限と町人の住む下町がつくられていきました。

『薩藩天保度以後財政改革顛末書』によれば、甲突川は新上橋から平之町、千石馬場、加治屋町を蛇行して俊寛堀から海に注いでいたそうです。
河口一帯は萩原または窪田瀬あるいは清滝川と呼ばれ、白砂青松の絶景地にして奥の松原と呼ばれていたそうです。
山之口馬場や地蔵角周辺の土地は少し高く、西千石町にあった旧伊勢屋敷は葭草の渚であったそうです。松原町や南林寺周辺は、まだまだ海の中でありました。

上町都合六町
天保城下絵図に、上町都合六町と書かれていますが、柳町・地蔵町・浜町・和泉屋町、4つの町名しか書かれていません。
『通昭録』には、地蔵町・柳町・車町・和泉屋町・戎町・浜町の名が挙げられています。


@恵比須町(えびすまち)
六町のうち、もっとも古い町は恵美須町(えびすまち)。
『倭文麻環』に「鹿児島市中の元始は、恵比寿町なり」とあります。この町には恵比寿神の祠が建てられ、魚市が賑わっていたようです。
なかには武具等を販売する者も現れ、2月2日を初市と呼ぶほどに賑わっていたようです。
恵比須町には上町発祥地として、恵比寿踊りが伝えられていました。
「笑子の面を戴き、鯛を釣るの状をなし、踊り歌は目出度い、目出度い、千年の鶴は万歳楽とうたうふたり、また万年の池の亀は甲に三国を備え足り」というものであったそうです。

A車町(くるままち)
恵比須町に続いた古い町は車町で、古くは廓町と呼んでいたそうです。
倭文麻環によれば、本御内の城(内城)が築かれたとき、恵比須町のみでは市町が狭いとして、廓町を立てたそうです。
名前の由来として、本御内の廓内にかかわることにあるそうです。
天保城下絵図によると、上町会所・火見櫓は車町に設けられていたようです。

B地蔵町(じぞうまち)
地蔵町のいわれについて、次のような話が伝えられていました。
元和(1615〜1624)の頃、町人彦右衛門の土地にひとりの遁世者がやってきました。
その者は縁故ある人の菩提を修するため、一宇の堂を建て、持仏地蔵菩薩を祭り、両脇に千体像を安置したそうです。
元和元年は大阪夏の陣で、豊臣氏が滅亡した年でありました。
そうしたことから、豊臣秀頼ゆかりの者が千体もの地蔵を祭り、豊臣家の冥福を祈ったものだと言われるようになったそうです。
そうして、千地蔵(せんのじぞう)と呼ばれたことから町名になったそうです。

地蔵町に面する小坂通は、弘化2年(1845)に発生した大火事を受けて、火災対策として道路の拡幅がなされたそうです。(『海老原清煕家記抄』)。
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時代は下って明治4年(1871)、地蔵町は繁栄を願って“栄町”と町名を変えたそうです。

C柳町(やなぎまち)
柳町は、恵比須町・車町についで古い町で、ここを流れていた行屋堀には蛭子下橋、苙口小路下橋と呼ばれる二つの橋が架かっていました。『三州御治世要覧』によれば、安永5年(1776)に蛭子橋・汐見橋の木橋が架かっていました。
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このふたつの木橋、『天保城下絵図』によれば岩永三五郎によって石橋に架け替えられたようです。

柳町の由来について、『倭文麻環』は「今の蛭子社の辺を築島と称ふ、是より浜つづきに堤ありて、柳を植えられぬる程に、そが町となりしをば柳町と名け、後又魚屋立て小魚屋(こなや)と呼べり。蛭子祠の後の小路を苙口といふ、是も本は卸口にて海に下るの卸門(おりと)なり」とあります。
柳町は、魚屋(納屋)町として、魚湊として賑わっていたようです。

D浜町(はままち)
浜町にも行屋堀がながれ、孝行橋が地蔵町との往来に使われていました。
当初、孝行橋は木橋でありましたが、岩永三五郎によって石橋に架け替えられたようです。
元禄9年の大火事対策として造成された埋立地は、町屋敷が規定の40ヶ所に満たなかったため、新規の一町取り立てはなりませんでした。
そのため、浜町に編入されて大きな町となったそうです。

E和泉屋町(いずみやまち)
和泉屋町は行屋通に面していました。行屋通にあった千手観音は、真言宗の僧日秀が沖縄島から帰って来た日、行法を修して国家の安全を祈祷するために勧請したと言われていました。そうして行法を修したことから、通りの名前を行屋通と呼ぶようになったそうです。
『倭文麻環』によれば、古くは行屋通りの辺りまで海辺であったようです。

元禄9年(1696)4月23日夜、行屋から出た火は、町屋敷213ヶ所、焼失家数550軒の被害を出してしまいました。
火元は上町の助右衛門借屋伊地知休右衛門の下人、清右衛門のところでした。
火は鹿児島城まで達し、城内の角之蔵など7つの蔵を焼失。豊臣秀吉から拝領の小泉の甲や加藤清正の鑓(やり)などを焼失したそうです。
火元の清右衛門は牢獄とされましたが、詮議により崎山八兵衛の下人、万七の放火と分かりました。
万七と共犯2名は、元禄11年9月、市中引き回しのうえ、竹鋸引の刑に処せられたそうです。

清水城や内城時代の上町は、唐人が住みつくなど商売も賑わっていたようです。
井原西鶴の「西鶴織留・五日帰りにおふくろの異見」に取り上げられるほどの町でした。
しかし鶴丸城築城とともに、下町が形成されると商業の中心が上町から移っていったようです。

『海老原清煕家記抄』によれば、天保期(1830〜44)の上町の疲弊はひどかったようです。
そこで、「東風除け波戸を築き堀内を築き、堀内の土砂を揚げ、船の出入りを便にし、上荷馬を助け魚屋疲れたるを救い、専ら海岸に船入の道を開く」ことが上町振興として提言され、
稲荷川の浚渫による祇園洲の造成が行われたそうです。
その後祇園洲は、砲台となり薩英戦争で使われることになります。
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2015年05月17日

上町(かんまち)

鹿児島駅の周辺には、昭和42年まで恵美須町・栄町・車町・和泉屋町という町名があったそうです。古地図などをみると、戦前まで近世の面影を残していたようです。戦災や戦後の区画整理によって変わってしまい、近世の面影を探すことは難しいようです。

それでも上町周辺には、虎屋小路や卸口小路など古い通りが残っており、石碑も建てられています。
この石碑、58基あるそうですから探してみるのもいいかもしれません。

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鹿児島城下の町屋にあっては、上町(かんまち)が始まりであるようです。
多賀山に東福寺城があった頃には、小規模な市や店があったかもしれません。
清水城が築かれた頃には、士をはじめとして人々が集まるようになっていたようです。

■ 清水城時代
『倭文麻環巻五』は、清水城時代の様子を次のように記しています。
「江門(えど)にて諸大名などの第宅を構ふる近辺には必ず市店の屋を作り立ちぬるがごとし。さればむかし東福寺城の麓なんどは必ず市店ありしならん。
况して恕翁公(元久)、至徳中清水城を修築し給ひてよりは、いよいよ町家も広まり軒を連ね甍を並べて朝夜共に賑わひ立ちしほどに・・・」

清水城が築かれた以降は、人々が集まり町がつくられていったようです。『倭文麻環巻五』は、町屋について次のように記します。

■ 恵美須町(えびすまち)
「鹿児島市中(いちちゅう)の元始は、今の上恵美須町なり。恵美須は事代主命(ことしろぬしのみこと)の顔の笑給へるを称せし社号なり。この命はむかし出雲の三穂崎にて釣するをもて楽(わざ)としたまひしをもて、その像は必ず鯛魚を釣したる形なり。
恵美須町にこの神の祠を立て魚市をなす。当時は魚屋一へん商人ありともいへり。其後は繁昌して武具の属をも販売せしにや、今も二月二日の初市と云ひて土偶(つちにんぎょう)、紙冑(かみかぶと)、木刀(きがたな)の類を持出し鬻衒(ひさぎうる)。
さてむかしは今の行屋通までは、波うち涯の海辺にて、この恵美須町に諸所の浦々より店卸の売物を運漕す。海より恵美須町に通船の川筋を鬼神堀と唱えて、今も恵美須町西村某が宅地に其堀跡の形計りを存しぬ」


現在の小坂通り沿いにある樹心寺や柳町福祉館の辺りは、海辺であったかもしれません。
行屋通が現在、どの辺りにあたるのかはっきりしませんが、分かりしだいご報告いたします。
鹿児島市、商業の始まりは恵美須町から始まるようです。

■ 内城時代
現在の大龍小学校のところに、内城ができるころになると、町屋はさらに増え、恵美須・廓・柳町ができたそうです。
これらの町について、『倭文麻環巻五』は次のように記しています。

「本御内の城(現在の大龍小学校)築かれし時、恵美須町のみにては分内狭しとて廓町を立添えられる。本御内の廓裡(くるわうち)に係るとて、かく呼びしを後に今の如く“車町”と改めしとぞ。又今の蛭児社の辺りを築島と称ふ、是より浜つづきに堤ありて柳を植えられぬる程に、そが町となりしをば柳町と名け、後又魚屋を立て小魚屋と呼べり。蛭児社の小路を笠口(おろくち)という、是も本は卸口(おろしくち)にて、海に下る卸門(おりもん)なり。

又行屋の千手観音は真言宗日秀が沖縄島より帰来の時、行法を修し国家の安全を祷りし時勧請するところにして、其海辺を頓て行屋通と号けぬ。
それより海手の方に今の如く土地を広められしは慶長中、上山の地に金城を築かれけるより追々、海洲を埋展(ひろめ)給ひしなり」

『鹿児島のおいたち』によれば、この頃の港は稲荷川河口附近で、周辺には唐人なども住みついていたようです。町屋は滑川周辺まで密集していたようです。
町屋の詳細についてハッキリとわかりませんが、町屋の建物は貧弱なものであったようです。
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2015年05月07日

上町周辺

海岸線
現大龍小学校のところに内城があった頃のこと。
鹿児島の土地は、今とはずいぶん異なっていたようです。
この頃の甲突川は、平之町辺りから城山の麓を流れ、照国神社近くから御着屋を経て俊寛堀附近で海にそそぎ、河口周辺は葦の茂った湿地帯であったそうです。
平安時代末から鎌倉時代にかけて、この甲突川河口が港になっていたようです。

海岸線は今よりもずっと内陸部まで侵入しており、今の天文館周辺は中福良と呼ばれていたそうです。『御家兵法純粋』に、「中福良は吹上浜の小形で、砂の吹上にて地面高く綺麗なり」とあります。
城下絵図をみると、今の天文館通りは中福良通りと記載されています。
また『薩藩天保度以後財政改革顛末書』によると、山之口馬場や地蔵堂(地蔵角)の地勢は少し高く、松原・南林寺辺は海中で、西千石町旧伊勢屋敷は葭草の渚であったという
甲突川が現在のような流れになったのは、鶴丸城ができて以降のことになります。

内城の時代、鹿児島の中心は現在の上町周辺にありました。
国道3号線あたりが、当時の海岸線であったろうと考えられています。
『落穂集』によると、築地が完成するまでは稲荷川河口が海の玄関口であったようです。
琉球や道之島通いの大きな船は、祇園社(現八坂神社)の脇に潮時をみて引き入れ、多賀山の木につないであったそうです。
『鹿児島市史T』に、戦国時代(内城時代)の鹿児島想像図が掲載されていますので、参考にしてください。

上町(かんまち)
『鹿児島のおいたち』によると、内城時代の侍屋敷は概ね清水城時代と大差なかったろうが、南側を始めとして充実していき、殊に貴久の頃に家臣の来住する者もふえ仮屋がましたと思われる。
また慶長4年の夏、主人の許を離れて鹿児島に移る者が多かったので、義弘は主人の心中を考慮して人物を見計らうよう家久に忠告している。
忠告しなければならないほど、鹿児島に移住する武士が多くなっていたようです。
この時代、忠君の意識は江戸時代ほど強くなかったのかもしれません。

『上井覚兼日記』に天正3年(1575)12月21日、鹿児島で火事が発生したことを記しています。
「此の夜子の刻、当所下町焼亡也。加治木下仮屋より火起り候て、光明寺(浄光明寺)にてとりとどめ候也」
『鹿児島のおいたち』によると、「この下町とは後世の下町ではなくて、山の手に対する下町で、加治木地頭の仮屋が下町にあったのであろう」とあります。
この頃は、江戸時代のような身分制度はなく、ゆるやかなものであったようです。
例えば、黒田嘉兵衛は、初め町人であったが召し出され、士分として朝鮮役に従軍するという人物もあったようです。

この時代は、武士小路や武士の居住地、町人の居住地といった明らかな区別はなかったのかもしれません。
身分制が厳しくなるのは、江戸時代に入ってからのようです。
江戸時代の上町は、現在の3号線から海側に位置する狭い地域でありました。
次回は、上町の町屋敷について触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 00:22| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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