2015年04月27日

琉球口貿易と薩摩

豊臣政権や徳川政権は、海外貿易が盛んになるよう日本人の海外渡航を奨励し、外国船の来航を歓迎したようです。こうしたなか、南九州は海外貿易の中継点に位置していました。

『鹿児島県の歴史』によると、徳川家康や秀忠は海外渡航船に対して貿易活動を保護する特権を付与し、特権を与えたことを証明する朱印状を与えていました。この朱印状をもつ貿易船が朱印船である。
慶長9(1604)〜寛永12(1635)までのあいだに356艘もの朱印船が、交趾(ベトナム)・暹羅(シャム)・呂宋(ルソン)・柬埔寨(カンボジア)などへ向かったそうです。
朱印船を派遣したのは、京都の角倉(すみのくら)・茶屋、大阪の末吉、長崎の末次・荒木などの豪商やウィリアム=アダムスなどの外国人や島津、松浦、有馬、亀井、鍋島、加藤など西国の大名たちでした。
大名のなかでは薩摩藩主島津家久が9通ともっとも多く、最大の貿易大名であったようです。

鎖 国
こうした海外交易が盛んであった時代は、キリスト教禁止問題によって徳川幕府の外交方針を転換させ、元和2(1616)になるとヨーロッパ船の寄港地が平戸・長崎に限定しました。
これによって幕府は海外交易の統制を強めていくようになりました。

また元和9年、三代将軍となった徳川家光はヨーロッパ諸国の軍事力を警戒し、キリシタンの手先とみなしていました。キシリタン撲滅のためには海外交易を犠牲にすることもいとわなかったようです。

家光は政を始めて間もない寛永10年、17ヶ条からなる禁令を出しました。
これには奉書船以外の海外渡航禁止、日本人の出入国禁止などがうたわれていました。
第17条では薩摩藩と平戸藩に対して糸割符制(いとわっぷ)を適用すると記されていました。
これは薩摩藩が明国から、平戸藩がオランダから生糸を購入していためで、両藩は長崎で決定した生糸価格での取引を余儀なくされたのでした。

寛永11年には、藩主島津家久に対して領内での中国貿易を断念するよう命じました。ひとつに薩摩藩領への中国船入港が多かったためとおもわれます。
海外交易は薩摩藩にとって重要な財源でしたが、家光の命には逆らえず、中国船の領内寄港を禁止したのでした。
このため薩摩藩は、琉球での進貢貿易に力を注がざるを得なくなりました。

寛永14年の島原の乱を機に将軍家光はキリシタンを嫌悪するようになり、寛永16年にはキリスト教布教をやめようとしないポルトガル船の来航を禁止し、長崎を唯一の開港場として鎖国を行いました。
こうした幕府の海外交易の統制により、鹿児島を始めとする南九州の港は、海外交易の拠点としての機能を失うことになりました。

琉球口貿易
これより先の慶長14年(1609)、薩摩藩は琉球王国に武力侵攻。琉球進攻は領土支配ではなく、交易権を独占することが大きな目的であったと考えられています。
与論島から北は薩摩藩直轄地とし、沖縄本島から南は琉球王府を存続させて統治を委ねていました。
というのも、琉球王国で行われる朝貢貿易は、中国皇帝と琉球国王の主従関係が前提となっており、貿易を維持するには王府の存続は欠かせませんでした。
琉球王国が薩摩藩に従属していることは中国側には隠匿され、琉球王国が独立を保っていることを強調するため、琉球独自の制度・文化は維持されていました。

こうして薩摩藩は藩内に異国である琉球王国が存在するという非常に変わった形態となり、鎖国体制下でも異国である琉球王国では朝貢貿易が幕府公認のもとに行われ続けました。

薩摩藩は琉球王府を支配下に治めると、那覇に琉球仮屋を置いて在番奉行と呼ばれる役人を派遣していました。
また、琉球王府に対しては、鹿児島城下に琉球証人屋敷(のちの琉球館)を設置させました。
毎年春には年頭使を、島津家の吉凶時には特使を鹿児島に派遣するよう求めました。
これを「上国(じょうこく)」「大和上り(やまとのぼり)」と呼んでいました。
幕府も将軍の代替わりには慶賀使を、琉球国王の即位時には謝恩使を江戸に派遣させていました。これを「江戸上り」と呼んでいました。

幕府や薩摩藩は、琉球の使者に中国風の呼称・装束の使用を義務付けていました。
異国を支配していることを誇示して、自らの権威を高めるためであったようです。
また、琉球の使者を乗せた船団は、海外の物資・情報・文化をもたらし続けたのでした。

温暖な琉球王国では、芭蕉布やウコンなど日本では産出しない特産品に恵まれていました。
17世紀にはサトウキビの栽培も始まり、黒糖が薩摩藩に大きな利益をもたらすようになりました。
薩摩藩では奄美大島・喜界島・徳之島でサトウキビ増産を図るとともに、鹿児島城下に三島方(さんとうほう)と呼ばれる役所を設置して専売体制を強化しています。
このことが奄美大島や喜界島、徳之島では“黒糖地獄”と呼ばれる過酷な支配を被ることになってしまいました。

蘭癖大名
薩摩藩領は、江戸初期ころまで海外交易で栄え、鎖国体制にあっても琉球王国を介して海外の物資・情報・文化が入りつづけていました。琉球口貿易は藩の重要な財源のひとつで、海外情勢にも敏感にならざるを得ませんでした。
こうして藩主をはじめ政をつかさどる人たちは、他藩にくらべ海外の情報や文化に接する機会に恵まれていました。
海外からの情報の早さ・量ともに、優位に立っていました。
政を行うに際して、国内のみでなくもっと大きな視点を持っていたとおもわれます。

とくに島津重豪公は、蘭癖大名と呼ばれるほど海外の情報・文化に興味を示した殿様はありませんでした。
日常会話程度の中国語、簡単なオランダ語を話せたと言われています。
また歴代オランダ商館長と親交をもち、時計やオルゴール、オランウータンやイグアナなどの剥製といったものまで収集していたそうです。
重豪の息子や孫たちは、海外の情報・文化に関心を抱くのは自然なことであったかもしれません。
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2015年04月20日

島津氏と明国

島津氏の領国、南九州は海外交易が盛んなところで、明国との結びつきとても強いものがあったようです。
島津氏の居城がある上町には、明人はじめポルトガル人など多くの外国人が訪れていました。また、外国人居留地もつくられていたそうです。
外国人のなかには、島津家の家臣として取り立てられた者もいました。

島津家に仕えた明人
医者の許三官(きょさんがん)、郭国安(かくこくあん)、易学者の黄友賢(こうゆうけん)など。
〇許三官
江西省の出身、倭寇に捕えられ薩摩に連れて来られた人物であったそうです。
医学の知識があったことから、第16代島津義久公に見出され侍医となりました。
『島津国史』によれば、三官橋は許三官の屋敷があったことに因むとありますが、これには異説あり。
一官橋・二官橋・三官橋は、沈一貫という中国人医師の屋敷に因むというものもあります。

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〇郭国安(汾陽理心・かわみなみりしん)
山西省汾陽出身で、中国の官吏登用試験であった科挙に失敗。新天地を求めて薩摩にやってきました。のちに、許三官の弟子となって義久公に仕えました。

〇黄友賢(江夏友賢)
福建省江夏の出身で、兵学・儒学・風水に通じていました。
慶長6年(1601)、第18代島津家久公は鶴丸城築城に着手する際、黄に占わせたといわれています。占いの結果、四神相応の地であるが、火難の相ありと出ました。
そのため、中国から火難除けの札を取り寄せ、霊符堂に祀ったそうです。

秀吉の朝鮮出兵と薩摩の明人
天正19年(1591)、豊臣秀吉は朝鮮出兵を発令。島津氏に兵1万5千の動員を命じました。
翌文禄元年4月、義弘公は軍勢を率いて渡海することになっていましたが、兵・船ともにあつまらず、わずかな供侍と小舟一艘を借りだしたに過ぎませんでした。
島津氏の失態はこれにとどまらず、朝鮮出兵直前に義久の中国人許三官が出兵計画を明に伝えていたことが発覚、秀吉を激怒させてしまいました。

さらに同年6月、島津氏の家臣梅北国兼(うめきたくにかね)が朝鮮出兵に反対し、肥後国佐敷(熊本県芦北町)で反乱を起こしました。氾濫は短期間で鎮圧されましたが、義久・義弘の弟である歳久が陰で操っていたと疑われました。
同年7月、歳久は秀吉から自刃を命じられたのでした。
そこには、秀吉が薩摩に下向した際、歳久の居城であった虎居城(旧宮之城町)に宿を求めました。
歳久は、「迷惑」と追い返したことがあり、反豊臣勢力の中心人物とみなされていました。
秀吉は歳久を自刃させることによって、朝鮮出兵をしぶる家臣団への見せしめとしたようです。

歳久公の名前は島津金吾歳久、号を「心岳」といいました。
武勇・知略ともに優れていたことから、心岳詣りは妙円寺詣りとともに鹿児島の年中行事になっていました。
また旧宮之城や薩摩町周辺には、歳久公にまつわる話が伝えられています。

薩摩と明、合力計画
文禄の役の最中、薩摩と明が力をあわせ豊臣秀吉を討つという計画が明の方にあったそうです。
明の福建軍門は、商人に変装した明の工作員を何度も薩摩にもぐりこませ、許三官ら薩摩在住の明人と接触。そして工作員は、許らの案内で名護屋城の偵察なども行っているようです。
日本側にこの計画に関する史料は残されていないようです。

しかし、島津義久や家臣たちは出兵に消極的でした。
地頭であった梅北国兼は出兵に反対して反乱をおこし、義久の弟歳久はこれに関与した疑いをかけられ自刃に追い込まれています。
こうした情報は明の工作員もつかんでおり、「義久は弟を殺され、内心は秀吉を憎んでいる」と本国に報告しているそうです。

許三官たちが明と接触し続けていたのは、確かなことでした。
それでも義久公は、秀吉の逆鱗に触れた許三官を重用しつづけました。
このとき、薩摩に潜入していた工作員は次のように本国へ報告していました。

「薩摩州は、いつもいろんな国の船が停泊している所。自分たちがいた時も呂宋(ルソン)に向かう船が三隻、交趾(ベトナム)船三隻、柬埔寨(カンボジア)船一隻、暹羅(タイ)船一隻、仏郎機(ヨーロッパ船)二隻がいた」

このほか、数多くの中国船も停泊していたと思われます。
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2015年04月13日

海上交易と島津氏

古代から中世にかけては中国と朝鮮・琉球、戦国末期には南蛮諸国との貿易において、島津氏の領土は地理的に恵まれていたようです。
南九州は「海の道」「海上の道」などと呼ばれる海上交易路によって、奄美諸島や琉球・中国と密接に結ばれていたようです。

■ 逆さ地図
富山県が出版している「環日本海諸国図」(通称:逆さ地図)という地図があります。
これなどを見ると、鹿児島の先端から島伝いに沖縄・台湾へと続いています。道の島とはよく言ったものです。
日本海や東シナ海は、大きな湖といって良いかもしれませんし、樺太と北海道は本当に近く
氷河期の頃は氷でつながっていたかもしれません。
朝鮮半島と九州北部、山陰地方もかなり近い位置にあり、これらの地域の交易・交流は古代から密接なものがあったと想像されます。
逆さ地図は、富山県町のホームページや『日本とは何か 日本の歴史〈00〉』(講談社)に掲載されていますので、ご覧になってください。

■ 唐人町
鹿児島をはじめ、山川・坊津・加世田・京泊(薩摩川内市)・根占・志布志などの港には、中国や東南アジアからの船が入港していました。
領内には唐人の居留も多くなり、各地に「唐人町」が起こり、帰化の子孫も多かったようです。
旧国分市や東串良町・旧市来町の唐人町、唐湊(鹿児島市)、唐仁原(南さつま市)、唐浜(薩摩川内市)などの地名は、中国との交易にちなむ地名であるそうです。

島津氏は海外交易に熱心で、文中3年(1374)第6代氏久が明との交易を求めて太祖に使者を派遣しましたが、進貢とは認められず退けられています。
氏久の使者派遣は、足利将軍義満が国交開始の国書を正式に送った応永8年(1401)に先立つこと27年も前のことでした。
また、朝鮮に対しても応永13年から毎年のように使送船を派遣して、盛んに交易をおこなっていました。
島津氏が海外との交易で、いかに莫大な利益を得ていたかを示すエピソードが残されています。

応永17年のこと。上洛した第7代元久は、将軍足利義持らにじゃ香や虎皮・砂糖・南蛮酒・毛氈(もうせん)など数多くの舶来品を献上して、都の人々は舌をまくほどであったそうです。

■ 明の海禁
1368年に成立した中国の明王朝は、皇帝を頂点とした世界秩序を築くため、周辺諸国の王に従属を促し、爵位・称号をさずけていました。これを冊封(さくほう)といいます。
そして主従関係を確認するため、皇帝は冊封を与えた王から貢物を受け取り(進貢・朝貢)、返礼として貢物を上回る下賜品(かしひん)を王に与えていました(回賜・かいし)。

また、冊封を受け入れない国の船舶の国内入港や中国人の海外渡航・私貿易を一切禁止し(海禁)、進貢船に対しては渡航許可証である勘合符(かんごうふ)を与え、所持を義務付けていました。
進貢と回賜は明と周辺諸国にあって、唯一の合法的な貿易形態(進貢貿易・勘合貿易)とされていました。

室町幕府は応永8年(1401)、足利義満が貿易の利を得るため臣下の礼をとり、「日本国王」の称号を授けられ、明と貿易を行うようになりました(勘合貿易)。
以後、天文16年(1547)までの間に19回の遣明船が派遣されていますが、その多くに島津氏が関わっているそうです。
明への主要出品のひとつに島津領内で産出する“硫黄”があったことから、島津氏は勘合貿易に深く関わっていくことになりました。

遣明船は瀬戸内海から博多に入り、平戸・五島を経由して明に向かっていましたが、応仁の乱後、貿易の主導権をめぐって大名同士の対立が発生しました。
博多商人と結んだ大内氏と堺商人と結んだ細川氏が対立。細川氏の商船は大内氏が支配する瀬戸内海を避け、土佐沖から南九州を通って明を目指すようになっていました。
島津氏は細川氏から商船の警護を依頼され、より深く勘合貿易に関わるようになりました。

■ 琉球交易
明は進貢回数を国ごとに定めており、日本の場合概ね10年1貢でした。この進貢回数では国内の需要を満たすことは、とうていできるはずありません。
これに対して琉球王国は、1年1貢または2年1貢でした。
琉球王国が明の冊封体制下に入ったのは洪武5年(応安5・1372年)のこと。明は琉球を南海産品の入手窓口として優遇しました。
琉球王国は明・東南アジア・日本・朝鮮をむすぶ中継貿易で大きく栄えたのでした。

琉球王国の船は南九州、さらには博多や堺にも来航し、中国・東南アジアの品々をもたらしました。博多や堺の商船も、琉球王国のもたらす品々を求めて琉球を目指すようになりました。
島津氏と琉球王国の関係は対等なもので、両者は善隣友好関係にあり、頻繁に使者を行き来させていたようです。
そうして、琉球王府は島津氏の代替わりなどの慶事には、紋船(あやぶね)という儀礼船を鹿児島に派遣していました。

琉球と島津氏との間では、善隣友好関係に基づく交流がつづく一方で、貿易の利権をめぐる駆け引きも盛んに行われていたようです。
永生5(1508)年、第12代島津忠治は島津氏の印判(朱印状)を持たない商船の取り締まりを琉球に要求。島津氏が琉球貿易の独占を計り出しましたが、それは琉球の利害に反するものでした。

16世紀半ば、隆慶元年(永禄10・1564年)、明が海禁を緩和。そしてポルトガル・スペイン、日本の船がそれぞれお地域を行き来して直接物資を運搬するようになりました。
おかげで琉球の中継貿易は大きな打撃を受けてしまいました。
一方、島津氏は着々と勢力を拡大し、その力を背景に琉球王国への圧力を強めることになりました。
薩摩と琉球の関係は大きく変化、琉球は島津氏の要求を受け入れることになりました。

■ 倭寇と西洋人
明の海禁政策に反発する者も大勢現れました。後期倭寇と呼ばれる人たちです。
後期倭寇は明の海禁政策に反発し、私貿易をおこなう武装商人たちが主体であったようです。
中国で著された倭寇対策の本によると、「倭は十の三に居るも、中国の反逆は十の七に居るなり」とあり、多くの中国人が倭寇となっていたようです。
また、鄭若僧の著作には「入寇者、薩摩・肥後・長門三州の人多く居る。その次則大隅・筑前・博多・日向・摂津・津州・紀伊・種島」とあるそうです。
筆頭に薩摩が挙げられており、南九州の主要な町として「康国什麼(鹿児島)」が記されているそうです。

16世紀頃、ヨーロッパ人たちがアジアへと進出してきました。彼らは中国貿易への参入を望んでいましたが、明の海禁政策によって合法的な活動を行うことができませんでした。
このため倭寇たちと手を組み、貿易活動を行うようになりました。
1543年、3人のポルトガル人を乗せた中国人倭寇、王直の船が種子島に漂着しました。
これが鉄砲伝来・西欧人の日本発見となったのでした。
3人のポルトガル人は、倭寇の仲間でありました。倭寇が多国籍化していたようです。

1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えました。ザビエルはマラッカから鹿児島まで“アバン”という名前の中国商人の船に乗って来ました。
アバンのあだ名は「海賊(ラドロン)」、彼もまた「海の道」を行き来する倭寇であったそうです。

こうしてヨーロッパ人たちが「海の道」を北上してきたため、南九州は日本とヨーロッパ出会いの場となっていたようです。
とくに島津氏の城下町として栄えていた鹿児島(いまの上町周辺)は、日本の入り口にある町として認識されていたようです。

『海洋国家薩摩』という本に、モンタヌス「日本誌」の鹿児島図という絵が掲載されています。絵の中央上部に「CANGOXUMA」と記されていなければ、鹿児島を描いたものとは分からないものです。
絵を描いたモンタヌスは、オランダの牧師。彼は日本を一度も訪れたことはなく、来日経験のある宣教師や商館長らの話をもとに1669年『日本誌』を出版したそうです。
想像を交えて書かれているため、誤りも多いようですが、当時のヨーロッパではとても好評であったそうです。
絵を見るに、多賀山を彷彿とされる海に突き出た山や多くの帆船が描かれています。

当時のヨーロッパ人たちが鹿児島を日本の入り口にある、重要な港湾都市と認識していたことは重要なことであると思われます。
中世、鹿児島の貿易港として賑わっていたのは稲荷川河口でありました。
当時の河口は今よりもっと内陸に入り込んでおり、水軍の記念碑が建つ春日神社辺りは海であったかもしれません。

上町周辺は国際色豊かな、賑わっていた町であったようです。
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