2015年04月01日

内城跡にまつわる話

今の大龍小学校の敷地には、明治2年まで大龍寺という臨済宗のお寺があったことを話ししました。
お寺が建てられるまでは、内城(うちじょう)または本御内と呼ばれるお城がありました。
内城という名前には、戦国島津氏の所領の中央に位置する本城という意味が込められているようです。

お城といっても天守閣がそびえる高い建物ではなく、「築城一重の屋敷」と呼ばれる平城で、石垣や堀のない築地塀に囲まれただけの防衛機能の乏しいものであったようです。
内城は鶴丸城へ移るまでの約50年間、島津氏の居城でありました。
その50年間は、三州統一・九州制覇・豊臣秀吉の征討・太閤検地・征韓の役・関ヶ原の戦いなど大きな事件に見舞われました。

■ 島津貴久
内城が築城されるまでは、およそ160年間清水城を島津氏の本拠としていました。
当時世の中は大変乱れ、「戦国時代」と呼ばれていました。島津氏にとっても自分の領地を守ったり、周辺の土地を従えたりするため大変苦労していたようです。
戦は島津氏と周辺の土豪たちとの間で行われただけでなく、島津本流と支流の間でも行われていました。

守護大名として領国を維持できなくなった島津氏は、文明年間(1469〜1487)からの動乱のなかで、分家で伊作家と相州家を合わせた島津忠良とその子、貴久が本家の後継者となりました。島津支流が島津本流を倒すという、下剋上に等しいものでした。

本家を相続した島津貴久は、南九州の中央に位置し、戦略的要衝の地である鹿児島に入ることで戦国大名としての地位を確定することになりました。
貴久は天文19年(1550)12月19日、伊集院城から鹿児島に移り、同年御内を創建したと言われています。
内城の新築当時は、「御内」と呼ぶことが多かったそうです。
また「御内」は、領主の居館という意味であると考えられています。

■ 内 城
城下絵図などによると、大龍寺と武家屋敷の一画が正方形で区画されているように見えます。鹿児島の城下町に関する論文などを読むと、120b角の正方形で区画されているそうです。
また、現在の大龍小学校の敷地そのものが内城跡で、方120bの規模をもつ単純な方形館であったと考えられているようです。

『鹿児島(鶴丸)城下町の計画性・縄文の森から第7号』で、内城について次のように記しています。

「方形館とそれに直行する街区は、典型的な守護所の形態である。直行軸を基本にした守護所の整然とした形態は、古代官衙以来の“政庁の形=方形”という概念に規定されたものではないかと思われる。大内、武田、大友氏等の伝統的な守護系戦国大名が、戦国期という恒常的な軍事的緊張下においても単純な方形館のスタイルにこだわったのは、形骸化したとはいえ、守護が持つ“公権”の意味を強く意識していたためではないかと考えられる。」

「島津氏は有力国人が割拠するなかで成長した戦国大名であるが、自らの権力基盤である国人衆との関係は支配的というよりも契約的なものであった。
この国人衆との関係の脆弱性を補うために、島津氏は伝統的な“守護の公権”を強く意識し、その結果、居所が典型的な守護所の形態をとったのではないかと推察する」

■ 賑わう港湾都市
清水城の時代から、稲荷川右岸には人家が集まるようになっていました。後には滑川以北の海岸にも人家が密集するようになっていたようです。
そうして、稲荷川河口右岸の辺りに恵比須町がつくられ魚市が立っていたようです。
内城が築かれると、廓町(のちに車町)がつくられました。また、海岸の堤防に沿って柳が植えられ柳町が出来たようです。

島津氏が上町に城を構えた理由として、大隅国との国境に位置することと、海外交易の要衝であったことが考えられているようです。
とくに天文12年(1543)、ポルトガル船が種子島に漂着して以来、鹿児島の港にポルトガル船が入港するようになりました。
交易は経済的利益のほかに、さまざまな情報も手にすることができました。

1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しキリスト教を伝えました。
ザビエルはこの年、貴久公と伊集院で謁見。貴久公が内城に移ってくるのが、翌年のことになります。
ザビエルが鹿児島に滞在したのは、1549年8月15日(天文18年7月12日)から1550年の8月までの約1年間であったそうです。
ザビエルは、上町のどこかで暮らしていたのでした。
ザビエルは11月5日に、ゴアのイエズス会員に手紙を書き送っているそうです。
「この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。」
「私たちはすでに日本語が好きになりはじめ、40日間で神の十戒を説明できるくらいは覚えました。」

当時、ザビエルは鹿児島以外の所に行っておらず、鹿児島以外の日本の状況を知らない。
ザビエルが「日本、日本人」と書いているのは、「鹿児島、鹿児島の人」ということになりそうです。

ザビエルはマラッカから鹿児島まで、アバンという名の中国商人の船に乗って来ました。
アバンのあだ名は、「海賊(ラドロン)」、海上の道をいく倭寇であったようです。
当時、中国では明が海禁政策をとっていたことから、ヨーロッパ人たちは活動ができないでいました。
そのため、倭寇と手を組み貿易活動を行うようになっていました。
16世紀の倭寇は多国籍化しており、鹿児島は日本への入り口と考えられていたようです。
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2015年03月25日

大龍寺馬場

南洲神社参道から竪馬場を横断して、大龍小学校のほうへ歩いてみます。竪馬場から大龍小学校へつづく道を「南洲門前通り」と呼んでいるようです。
江戸時代の城下絵図をみると、「大龍寺馬場」とありますので、当ブログでは昔の名前で話を進めていきます。

大龍小学校周辺は、標高が10mほどの台地の上にあるそうです。
小坂通りのほうから歩いてみると、通りの名前どおり緩やかな坂になっています。

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坂を上り終わり、振り返ると国道を見下ろすような感じがします。
古地図や絵図などをみると、現大龍小学校周辺には、「〇〇坂」と呼ばれる通りがあります。
左衛門坂、小坂、小坂通り、フジ坂など。
坂の名前から考えてみても、大龍小学校の辺りは標高が高いようです。

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今は道路整備が進み、あまり傾斜を感じることはないようですが、むかしの左衛門坂は急な坂道であったようです。
『古地図に見る鹿児島の町』では、「左衛門坂」について次のように記しています。
「一説に浜田民部左衛門の名からサエモン坂、それがなまって“セモン坂”または“サヨン坂”となったという。(途中略)ここは昔は急な坂道で“こん坂で転っと、大怪我をして治らん”という言い伝えがあった。」

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今回から上町周辺を取り上げてみます。
絵図や古地図などを見てみると、大龍寺馬場・竪馬場・上の町馬場、清水馬場など山手側の通りは殆ど同じといって良いようです。
反対に大龍寺馬場から海側の地域は、終戦後の区画整理で大きく変わっているようです。
今回は大龍寺馬場を取り上げてみました。

大龍寺
現在、大龍小学校のところには、「瑞雲山大龍寺」という臨済宗のお寺が明治初頭のころまで建っていました。
大龍寺馬場の名前は、お寺の名前から付けられたようです。
お寺となるまでは、内城(本御内)と呼ばれる屋形づくりのお城でありました。
鶴丸城ができると、内城のところには大龍寺が建てられました。
お寺の創建は1611年(慶長16)のこと、名僧文之和尚が最初の住職となりました。

大龍の名は、15代島津貴久の法号「大中」の“大”と第16代島津義久公の法号「龍伯」の“龍”から名付けられたそうです。

文之和尚
文之和尚は、弘治元年、飫肥の南郷(旧宮崎県南郷町)に生まれで、有名な朱子学者であったそうです。
幼い頃から非常に賢く、「文殊堂」と呼ばれるほどでした。
5歳のときに、延命寺の天澤に預けられましたが、11歳のとき竜源寺の一翁玄心の弟子となりました。そこで僧としての修業が始まりました。
一翁は犬迫(鹿児島市)出身で、桂庵玄樹の弟子であった月渚永乗(げっしょえいじょう)に学んで、朱子学に精通している人でした

14歳のとき京都に出て、東福寺で5年間修業。
その後、ふるさとに帰ると竜源寺、高山の昌林寺、財部の正寿寺にいましたが、島津氏に重んじられるようになり、加治木の安国寺や国分の正興寺の住職となりました。
朱子学は江戸幕府でも正式な学問とされ、武士であればだれでも学ばなくてはならないほど重要な教えでした。島津氏にとってはとても大切な人であったようです。
文之和尚は島津義久・義弘・家久、三代の藩主に仕えるほど大切にされていました。
この間、薩摩藩の政治や外交、学問などに大きな影響を与えました。

文之和尚は「南甫文集」を始めとして様々な書物を著していますが、なかでも「鉄砲記」は鉄砲伝来を知るうえで、非常に貴重な史料になっています。
薩摩に多大な影響を与えた文之和尚、元和元年(1620)に亡くなり、加治木安国寺に葬られているそうです。

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2015年03月12日

竪馬場通

南洲墓地を後にして、参道の階段をおりて南洲門前通りの方へ向かってみます。
その前に、南洲墓地階段について少し。

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■ 浄光明寺燈道
南洲墓地の階段、大正5年刊行の『鹿児島市史』によると、“浄光明寺燈道”と呼ばれていたようです。
この階段は天保年間城下絵図にも描かれており、明治後半頃になると相当傷んでいたようです。
鹿児島市では明治42年11月9日、階段の補修工事を行っています。

「浄光明寺燈道改築工事成ル、燈道ハ第一、第二ノ階段ヨリ成ルモノヲ総称ス。第一ハ三十六階段ヲ設ケ、第二ハ四十五階段造ニシテ里道ニ属ス。此延長二十九間五尺之ニ沿タル土堤ニ花卉ヲ移植シテ更ニ風致ヲ加フ、近来階段踏面凹禿縁石敗壊シテ漸ク荒頽ニ傾ク故ニ市ハ工費ヲ市会に要求シテ十月一日此工ヲ起ス、時偶マ晴天累日作業大ニ進捗シ速成ノ想アル亦宜ナリ此工事費金千五百三十二円ヲ要シタリ」

階段をおりて南洲門前通りの方へ行くと、左右に大きな通り、竪馬場通がでてきます。

■ 竪馬場通
竪馬場通は車の往来が多く、通りの両側には商店が並んでいます。
明治時代の竪馬場通の様子を伝える本に、「改正鹿児島県地誌」というものがあります。
明治24年に出版されたもので、挿絵や地図がふんだんに掲載されており、面白い本になっています。

「改正鹿児島県地誌」は『明治の鹿児島―景観と地理』に掲載されており、明治時代の地図が鹿児島市だけでなく、谷山・喜入・指宿・枕崎・市来・串木野・川内・出水・姶良・国分隼人・鹿屋・垂水・志布志・名瀬・古仁屋・伊仙などの地域も掲載されています。
古い地図を探されている方には、参考になるかもしれません。

さて「改正鹿児島県地誌」では、竪馬場通のことを次のように記しています。
“竪馬場通ハ、易居町ノ正北ニアリ。上方(かみほう)ニ於テ、繁盛ナル街市ニシテ、商家相並ビ往来甚多シ”
明治時代中ごろには、すでに竪馬場通には商家が立ち並び、賑やかな通りであったようです。

時代はくだって、太平洋戦争終了後、竪馬場には吉野方面から野菜など並べたヤミ市が立ったようです。
『鹿児島市戦災復興誌』によると、昭和21年1月、米軍政部・県・市・警察などが協議の結果、鹿児島市の5ヶ所にフリー・マーケットを設置することになったそうです。
上町地区は竪馬場、中央地区は納屋馬場、草牟田地区は新上橋、武地区は宮田通り、荒田地区は騎射場。
竪馬場通は、人の集まる重要な通りでした。
これは明治以後に始まったことではなく、江戸時代には既に見られたようです。

■ 江戸時代の竪馬場通
『城下町鹿児島』(著者;山田尚二)によると、「館馬場に直角に交差するのが竪馬場であった。一般人は館馬場は通れなかったので、迂回して新橋から竪馬場を通る人が多く、竪馬場は上の中心的大通りであった。」とあります。

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竪馬場通の名前の由来やいつ頃整備されたかは分かりませんが、おそらく現大龍小学校の地にあった内城の築城と深い関係があったと思われます。
竪馬場を坂元方面に向かった所に“内の丸”という地名があったことや、旧日向路の通り道になっていたことから考えれば、とても重要な通りであったようです。
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