2015年02月13日

佐藤小路から般若院小路まで

佐藤小路
今給黎病院前、ファミマから滑川通りを横断。道なりに進むと道路と交差します。
交差した道路が「佐藤小路(さとすっ)」。
戦前には、竪野馬場に市電佐藤小路電停があったそうです。

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『倭文麻環巻四の三 竹内助市天狗の羽を斫る』で、佐藤小路にまつわる話が掲載されています。
「助市は寛陽院様御代の包丁人たり、当時竪野佐藤小路の隅は、樹木森々たる大森にて白昼さえものすごき所なりき・・・」
寛陽院様は19代島津光久公のことで、竹内助市は実在の人物で1695年に亡くなっているそうです。
助市は書を善くし、示現流や禅学を好む人物であったそうです。

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江戸時代初めごろ、この辺りには昼でも淋しいほどの森が残っていたのかもしれません。
竪野馬場は、現南風病院前交差点から竪馬場までの道路のこと。
当時の人々は、「竪野」と聞けば竪野馬場周辺のことを思い浮かべたのかもしれません。

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般若院小路
佐藤小路から竪野馬場に出ると、交差点になっています。
横断歩道を渡って坂を少し上りかけると、右手に細い筋がでてきます。
その筋が「般若院小路」で、南洲神社階段前まで続いています。

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現在の南洲神社には、かつて浄光明寺というお寺があったそうです。
浄光明寺の下には、雲海山般若院という真言宗のお寺があったことから、「般若院小路」と呼ばれるようになったようです。

『三国名勝図絵』によると、雲海山般若院は真言宗当山派山伏が住職であったそうです。
京都三宝院の宮直末で、薩・隅・日向諸県郡一派の袈裟頭でありました。
本尊は神変大菩薩。
いつ頃できた寺か分かりませんが、当初は宝泉坊と呼んでいたそうです。
慶長年間、中原般若慶隆という人物が貫明公の命によって住職となり、宝泉坊を般若院と名付けたようです。

後に役行者(えんのぎょうじゃ)または役小角(えんのおづぬ)の木像を寛陽公に献上。承応4年2月、寺内に堂を建てて安置したそうです。
役行者は修験道の開祖といわれ、実在の人物であるそうです。
伝説では、鬼神を使役できるほどの法力を持ち、空を自由に飛び、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登ったとも言われていました。

般若院にまつわる話が、『薩藩年中行事』にも掲載されています。
作者は伊地知峻、身分の高い家に生まれた人物のようです。
廃藩置県前、明治2,3年頃の様子が記されています。

■『薩藩年中行事』から
四月の項に、般若院の様子が書かれています。
「英彦山の山伏の寺で般若院というのがあったが、此所では山伏の読経があって、“シンケイレン”と言って、赤・白・青・黄・黒の紙を大体桃のような形に切った紙を“シンケイレン三バカー”と呪文みた様なものを唱えながら撒くものであったが、これは一種の御守りになると言って争って拾い、書物の間に挟んで大切に仕舞って置くものであった」
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2015年02月07日

堀之内馬場

今給黎病院前のファミリマートを後にして、竪野馬場の方へ少し進むと十字路の交差点がでてきます。そこを左に入った通りが、「堀之内馬場」。

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堀之内馬場を真っ直ぐ進んだ先に、西郷隆盛終焉の地が出てきます。
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“堀之内馬場”という名前の由来は分かりませんが、堀之面(ほりのつら)と呼ばれるところもあったようですから、堀に関係するものかもしれません。

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【上の写真は、現在の堀之内馬場】

絵図などによると堀之内馬場の周辺には北郷家をはじめとする、高い身分のお屋敷が建ち並んでいたようです。

江戸時代の絵図や昭和30年頃の地図などをみると、ここには滑川が流れていました。
今では暗渠となり、川の流れを見ることはできなくなりました。
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わずかに、橋を思わせるものが残っていました。その橋の先を除くと、蓋はなく深い側溝になっていました。
地図からすれば、かつての滑川であるようです。
橋のすぐ脇に、「堀之内馬場」と「歴史家伊地知季安誕生地」、2つの石碑が建っています。

伊地知季安
興国寺墓地の案内板には、「いじちきあん」とありますが、鹿児島大百科事典では「いじちすえやす」、江戸時代人づくり風土記鹿児島では、「いじちすえよし」とルビをふっています。
どれが正しいのかわかりません。
ただ息子の季通は「すえみち」と読むようですので、「すえよし・すえやす」のどちらかもしれません。

伊地知季安は、『雲遊雑記伝』『漢学起源』『南聘紀考(なんへいきこう)』『寛永軍徴』など多くの書物を著した人物でした。歴史家と呼ばれる由縁です。
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なかでも季安の編集した『旧記雑録の前編・後編(150巻)』は、薩藩の歴史を知るうえでの基本史料と呼ばれています。
旧記雑録は、県立図書館や市立図書館で閲覧できます。
旧記雑録は季安の息子、季通にも受け継がれ追録・附録(212巻)として明治34年に成立したそうです。

これほどすごい人物ならば、順風満帆な人生を送ったかに思われましたが、かなり波乱に満ちたものであったようです。
伊地知季安は1782年(天明2)、伊勢貞休(いせていきゅう)の二男に生まれました。
19歳のとき、伊地知家の養子に入ったそうです。
幼い頃から学問を好み、記録奉行見習いをはじめ、様々な藩の役職を勤めました。

しかし、1808年(文化5)秩父季保(すえやす)事件に連座、喜界島に遠島になってしまいました。
1811年(文化8)赦免、鹿児島に帰ってくることができましたが閉居となり、仕官を許されませんでした。
その後40年という長い間、役職も与えられずに苦しい生活を送ったそうです。
苦難の時代、季安は藩内の記録や手紙の類などを調査研究して多くの本を著すことになりました。

1847年(弘化4)仕官の禁をとかれましたが、そのとき66歳になっていました。
御徒目付、軍役方掛という役職に就くことができました。翌年には記録方添役に就任。
1852年(嘉永5)、第28代藩主斉彬に認められ記録奉行に抜擢。
記録所に伝わる初代島津忠久公以来、約700年にわたる古文書の編集に従事しました。
その功によって“使い番(つかいばん)”までなりましたが、維新動乱期の1867年(慶応3)、85歳の生涯を閉じました。

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季安の墓は、子の季通とともに興国寺墓地に立てられています。

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2015年02月01日

高野山前から滑川の方へ

長田町高野山の門を出た道を、「カタ馬場」というそうです。
いまは市道何号線とか呼ぶのかもしれませんが、戦前の地図に「カタ馬場」と記してあります。
同地図をみると、滑川通りまで一直線に描かれています。
現在の地図では踏切のほうへ曲がっていることから、戦後になって踏切が少し移動したのかもしれません(あくまで想像です)。

長田町という地名は、明治になってできた名前のようです。
『鹿児島県地誌』に、次のように記しています。
「従前、市街郡村の経界、明らかならざるを以て、明治12年11月区域を定む。」
そうして、山下町や易居町、生産町、六日町、冷水通町などともに長田町が生まれました。
当時の長田町の範囲は次のとおりであったようです。
「県庁の北に方る、西北は冷水通町、西南は山下町・易居町に接し、北は下竜尾町・和泉屋町・小川町に隣る」(鹿児島県地誌より)

■ 長田町の地名
『かごしま市史こばなし』に、長田町の地名由来について次のように記しています。
「薩隅地理纂考によると、長田神社の説明に“鶴丸城の北十町余福ヶ迫に在り。本社摂津国長田神社なりと云へり。神社帳に摂津国八部郡長田神社あり是なるべし。創建の年月伝わらず、国守の産土神にして・・・”と記されてあります。
つまり、この神社一帯の地域を福ヶ迫の長田と呼ぶようになったことなどからして、このあたりを長田町と呼ぶようになったものと思われます。
五代友厚は、この町の出身なので長田陸橋のところに銅像がたてられました。」

城下絵図をみると、神社前に「諏訪別当普賢院」というお寺があったようです。
当時は諏訪社と呼ばれていたのではないかと思い、鹿児島神社庁のホームページにアクセスしてみました。
長田神社の由来として次のように記していました。

「承久三年勧請され創建以来福ケ迫諏訪神社と称し、初めは出水野田郷山門院木牟礼城内に創建された。五代貞久公の時下諏訪神社を現在の福ケ迫に遷座する。(上諏訪神社を南方神社と伝う)以来上山城の守護神として信仰厚く、旧藩時代は福ケ迫諏訪神社と称していたが、主祭神が事代主之命であるとして明治二年に長田神社と改称され現在に至る。」

諏訪社であれば「南方神社」と名前を変えたはずですが、祭神が事代主之命であったことから長田神社と名を改めたようです。
長田の地名は、神社の名前と深く関わっているかもしれません。

■ 藩政時代の長田町
絵図などをみると、藩政時代の長田町は全域が士屋敷地であったようです。
新堀に沿って、平佐北郷家・種子島家・琉球館といった敷地一町を超えるお屋敷が建っていたそうです。
また畠山家、島津頼母家も千坪を超すお屋敷であったそうです。

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種子島家と平佐北郷家の間の通りを「カタ馬場」、平佐北郷家の西側を通る通りを「堀之内馬場」と呼んでいたようです。

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 現在の堀之内馬場

これら二つの馬場は、戦前の地図にも掲載されており、「カタ馬場」は「堀之内馬場」より広い道路であったようです。
昭和6年頃の地図によると、カタ馬場は今の高野山前から滑川通りまで直線で結ばれ、滑川には「大橋」と呼ばれる橋が架けられていました。
戦後の復興計画で道路をいじっていなければ、大橋今給黎病院前のファミリーマートの辺りになるようです。

今回はここまで、次回は堀之内馬場について少し触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 23:39| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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