2012年11月22日

開聞神社から物袋まで

開聞神社の鳥居を出て、国道226号線に出て頴娃方面をめざします。
このルートは、開聞神社秋の大祭である御神幸祭と同じものになります。

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開聞十町の交差点を右折し、国道を1キロほど進むとJR指宿枕崎線が左に並走します。
程なく進むと、国道は緩やかに下っていきます。
「戈神坂(せんかんざか)」といいます。
むかし、この辺りに戈神寺というお寺があったことから、名前が残っていると言われています。

戈神坂を下ると、小字「馬水田」を経て鉄橋を越えると入野地区に入ります。
旧街道は、鉄橋を越えると左に折れる道が出てきますが、その道を通っていたようです。
そこから、少し寄り道して海の方へ行くと、「脇浦」という所が出てきます。
御神幸祭では、お旅所にもなるところです。

■ 脇浦
『三国名勝図会』にも脇浦に関する記述があります。
「仙田村にあり、馬水川の海口なり。塩田ありて、すこぶる広く且人家多し。この浦は開聞岳の西麓にあり、川尻浦は其東麓にありて、西浦岳を挟む。又この浦より登岳の路通じ、且開聞社を距ること近くして、半里ばかりある故、遊覧の人多し、海畔に諸海湾あり」

同書では、川尻浦の挿絵が掲載されていますが、脇浦の眺めも良かったようで訪れる人が多かったようです。
ここには、天智天皇と大宮姫に関する「皇后来(こごら)」という地名が残っています。

都に上った大宮姫は、天智天皇の后となりますが、女官たちの企みで都を追われることになりました。
姫とお供の者たちは、霜月四日の朝に山川牟瀬浜に到着しました。
浦人たちは、浜に出てきて心から姫を迎えました。

牟瀬浦に大宮姫が船泊りしていることを伝え聞いた開聞の人たちは、急いで京田(京殿;きょうでん)の地に仮殿の造営にとりかかりました。
姫は仮殿が出来上がるまで、牟瀬浦に滞在していました。

年が明けて、船で開聞崎・皇后瀬(こんごぜ)の鼻をまわって、脇浦の皇后来(こごら)の港に入りました。
脇浦で一泊して、山すそから新仮殿に入れたそうです。
「皇后が来た」ことから、「皇后来」の名で呼ばれるようになったようです。


■ 脇浦から入野・物袋まで
脇浦から入野・物袋(もって)にかけて、防風林・防砂林が残っています。
防風林と防砂林に覆われた海沿いの砂山を、「唐人山」と呼んでいます。
むかし、この砂山に多くの石碑が散在していました。
土地の人はこれを「唐人の墓」、山のことを「唐人山」と呼んでいます。
それらの石碑は、戦時中、ほとんどなくなってしまったそうです。

唐人山を抜けると、物袋(もって)に入ります。
開聞神社を出た御神幸祭の行列は、物袋で折り返し、「お旅所」である脇浦に向かいます。

「物袋」は「ものぶくろ」ではなく、「もって」と読みます。
筆者、開聞出身の友人に教えてもらうまでは、「ものぶくろ」だと思っていました。
「物袋」のバス停がありますので、近くを通る機会がありましたら探してみて下さい。
国道226号線沿い、瀬平海岸手前になります。

■ 物袋御前(もってごぜん)
言い伝えによると、この地には「物袋御前」と呼ばれる女官が住んでいたそうです。
天智天皇の后、大宮姫の着付けや髪結いなどをする女官で、物袋に住んでいたことから「物袋御前」と呼んでいたそうです。
その後、御前は「物袋大明神」として祭られたそうです。


旧街道は、物袋から長崎の海岸を通って、長崎瀬の難所に出ていました。
ここでは海に突き出た岩と岩の間を、波しぶきを浴びながら飛び越えて渡っていたそうです。
お年寄りや、女、子供はひとりでは、渡ることの出来ない難所で、「瀬平渡り」といって怖れられていたそうです。

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瀬平から「頴娃郷」に入ることになります。
山川郷から頴娃郷へいたる海岸づたいの道筋、「瀬平渡り」をたどってみました。








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2012年11月20日

開聞山古事縁起について

『開聞山古事縁起』は、延享3年(1746)に快寶上人という開聞神社別当、瑞應院のお坊さんがつづった書物と伝えられています。
鹿籠郷の由来や頴娃郷の由来、大宮姫と天智天皇の話、「焼印を押された河童」の話の元となった話、池田湖の由来など面白い話がたくさん掲載されています。
この本は、開聞神社の神階の高さと由緒の正しさ、また社人に関する由来を力説しているように思われます。

『三国名勝図会』は、かなり辛口の批評をしていてます。
「天智帝と大宮姫との事蹟に至りては、後世の偽説と見ゆ。故に虚妄無稽にして、明証なく、牽強附会にして信用すべからず」
”牽強附会(けんきょうふえ)”は、自分の都合の良いように、無理にこじつけること。

筆者としましては、事実はどうであれ面白い書物です。
書かれている全てのものは、ご紹介できませんが何とぞ、お付き合いください。

■ 開聞山古事縁起
1.頴娃郡往古龍海時之事
これは当地に伝わる「海幸彦・山幸彦」の話にもとづくもののようです。
「開聞山古事縁起」よると、山幸彦が竜宮界から持ち帰った「潮涸玉と潮満玉」は、皇室秘蔵の宝となったようです。
その後、神功皇后は「潮涸玉と潮満玉」を使って、三韓を征服したそうです。

2.鹿籠郷の事
塩土老翁が、山幸彦を無目籠に乗せて竜宮界に送った場所から名付けられたそうです。

3.婿入谷(むこいりだに)
開聞町には、小字で「婿入谷」という所がありますが、山幸彦が竜宮で豊玉姫の婿となった場所であることから名付けられたそうです。
古事縁起には、竜宮界であったことを示す証拠をあげています。
「この地、土中および石中貝入て有り。また岩石に蠣巨大多し、古龍界であったことは明白也」

『三国名勝図会』は、否定的です。
「当地は太古の竜宮界といい、玉井、婿入谷等の遺跡を言い伝えているものは、愚かで信ずるに足りない。
本来当社は、山幸彦の海宮遊行にまつわる諸神を祀るため、このような遺跡があるのだというべきである」

4.開聞岳湧出の事
古事縁起によると、「景行天皇20年冬10月3日夜、国土が震動し風雷が起こった。突然、大きな山が湧き出した。池田湖はその山が、湧き出したところだそうです。

5.水無池の事(もと鏡之池也)
開聞宮別当瑞應院に、千寿丸というひとりの童子がいました。
嘉吉三年六月朔日、新発意僧と共に樒葉花を摘みにいきました。
池辺の木の下に行ったところ、千寿丸は池の中に沈んでしまいました。

これは物の怪の仕業に違いないということで、山王阿闍梨快雅和尚は、弟子僧の快財律師に命じて池に向かわせました。
快財律師は、木の下にくると不動尊護摩法を唱えました。

すると大地が震動し、しばらくすると池の水は涸れ、他の地に移っていきました。
水が移った池が、今の鏡池なのだそうです。


以上、ご紹介した話の他に「大宮姫と天智天皇」のものもありますが、「さつまの国のいいつたえ」に記載してありますので、ご参考にしてください。
また、「開聞山古事縁起」は鹿児島県立図書館に蔵書があります。
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2012年11月19日

開聞神社周辺をぶらぶら

指宿市開聞十町に、ひときわ大きな楠が茂っている森が出てきます。
そこに創建の歴史が古い「枚聞神社」が鎮座しています。

枚聞神社は、かなり古い時代から開聞山麓に鎮座していたようで、延喜式に「頴娃郡枚聞神社」、和名抄や日本三代実録に「開聞」という名が載せられています。

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■ 開聞岳噴火と開聞神の昇叙
また、神階昇叙の記述が日本三代実録に記載されていて、次のようになります。
1.貞観2(860)年3月20日 薩摩国従五位上から従四位下に昇叙。
 当時、薩摩国では出水郡の加紫久利神社(従五位下)の二社だけが挙げられています。

2.貞観8年4月7日 従四位下から従四位上に昇叙

3.元慶6(882)年 正四位下に昇叙

東日本大震災では、かつて貞観年間に東北地方を襲った貞観津波のことがニュースなどで奉じられていましたが、この時代、開聞岳の火山活動も活発であったようです。
また、薩摩国でみると、弘仁年間から自然災害に遭っていたようです。

弘仁4(813)年、薩摩大隅二国蝗害により未納稲を免ず
弘仁6(815)年 薩摩国蝗害により調庸、田祖免ず
弘仁10(819)年 薩摩国蝗害により田祖を免ず
承和3(836)年 薩摩国飢饉
承和10(843)年 薩摩、肥前、肥後飢饉
※毎年風水害、蝗害などに伴う飢饉があったようです。

貞観16(874)年 開聞山大噴火
「日本三代実録」によると、「貞観16年秋7月2日、地震。薩摩国従四位開聞神の山頂火あり、自ら焼き、煙蒸天に満、灰沙は雨のごとし、震動は百余里に及んだ。神社近くに住む百姓たちは、恐れおののき色を失う。
勅して、開聞神に封20戸を奉る」とあります。

仁和元年(885)7月にも大噴火し、降砂、降灰は頴娃一帯に一尺にも及びました。
「日本三代実録」によると、「七月十二日薩国では夜晦冥(かいめい)にして衆星見えず、砂石降ること雨の如きの故・・・」

同年8月11日”辰(8時)”より”子(24時)”にいたる間、電電砂降なおやまず、砂石積もって一尺あるいは5,6寸に及び、田野埋没して人民騒動し・・・とあります。

この噴火は、16時間にもわたる長時間の爆発活動で、田野が埋没し、人民は家を焼かれ多くの人が死傷したことが考えられます。
噴火の規模、被害の大きさは、かなり大きかったようです。
そのようなことから、国では開聞神の怒りを納めるために、幣を納めたり神階を上げて怒りを鎮めようとしたようです。

■ 一之宮争い
枚聞神社は、日本三代実録などにも記されるように古く、神格の高い神社でありました。
薩摩大隅国の神社にあって、枚聞神社は最高の神階でありました。
神格の高い神社でしたから、「薩摩一宮」と呼ばれ現在にいたっています。
「一宮制度」があったものではなく、10世紀頃、自然にできたもののようです。

一国内で最も勢力のある、神格の高い神社を一宮、二宮、三宮などの呼び名が、公認されるようになったことから始まったようです。
多くの国では国内第一の神社が一宮となり、勢力もあることから薩摩にあっては「枚聞神社」と川内の「新田八幡宮」が一宮争いを続けたようです。
争いは、鎌倉時代末期まで続けられました。

弘安の役の後、幕府は各国守護に命じて、一宮はじめ主な社寺に異国降伏の祈願をさせました。
正応6(1293)年2月、鎮西諸国の守護に、各管内の一宮に異国降伏祈願のため宝剣一腰、神馬一匹を納めさせました。

薩摩では枚聞神社と新田八幡宮とが、一宮争いをしていましたので、守護は、鎮西談議所の裁許に基づいて4月20日仮に新田八幡宮に神宝を納めて祈願しました。
これは新田八幡宮を一宮と決定したものでは、ありませんでした。

開聞神社には、「開聞山古事縁起」という書物が残されています。
この書物には「頴娃郡、往古龍海時の事」や「大宮姫」「水無池」ほかの面白い話が掲載されています。
「三国名勝図会」によると、一宮争いが「開聞山古事縁起」に多大な影響を与えているようです。

次回は、「開聞山古事縁起」について見てみたいと思います。







 
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