このルートは、開聞神社秋の大祭である御神幸祭と同じものになります。

開聞十町の交差点を右折し、国道を1キロほど進むとJR指宿枕崎線が左に並走します。
程なく進むと、国道は緩やかに下っていきます。
「戈神坂(せんかんざか)」といいます。
むかし、この辺りに戈神寺というお寺があったことから、名前が残っていると言われています。
戈神坂を下ると、小字「馬水田」を経て鉄橋を越えると入野地区に入ります。
旧街道は、鉄橋を越えると左に折れる道が出てきますが、その道を通っていたようです。
そこから、少し寄り道して海の方へ行くと、「脇浦」という所が出てきます。
御神幸祭では、お旅所にもなるところです。
■ 脇浦
『三国名勝図会』にも脇浦に関する記述があります。
「仙田村にあり、馬水川の海口なり。塩田ありて、すこぶる広く且人家多し。この浦は開聞岳の西麓にあり、川尻浦は其東麓にありて、西浦岳を挟む。又この浦より登岳の路通じ、且開聞社を距ること近くして、半里ばかりある故、遊覧の人多し、海畔に諸海湾あり」
同書では、川尻浦の挿絵が掲載されていますが、脇浦の眺めも良かったようで訪れる人が多かったようです。
ここには、天智天皇と大宮姫に関する「皇后来(こごら)」という地名が残っています。
都に上った大宮姫は、天智天皇の后となりますが、女官たちの企みで都を追われることになりました。
姫とお供の者たちは、霜月四日の朝に山川牟瀬浜に到着しました。
浦人たちは、浜に出てきて心から姫を迎えました。
牟瀬浦に大宮姫が船泊りしていることを伝え聞いた開聞の人たちは、急いで京田(京殿;きょうでん)の地に仮殿の造営にとりかかりました。
姫は仮殿が出来上がるまで、牟瀬浦に滞在していました。
年が明けて、船で開聞崎・皇后瀬(こんごぜ)の鼻をまわって、脇浦の皇后来(こごら)の港に入りました。
脇浦で一泊して、山すそから新仮殿に入れたそうです。
「皇后が来た」ことから、「皇后来」の名で呼ばれるようになったようです。
■ 脇浦から入野・物袋まで
脇浦から入野・物袋(もって)にかけて、防風林・防砂林が残っています。
防風林と防砂林に覆われた海沿いの砂山を、「唐人山」と呼んでいます。
むかし、この砂山に多くの石碑が散在していました。
土地の人はこれを「唐人の墓」、山のことを「唐人山」と呼んでいます。
それらの石碑は、戦時中、ほとんどなくなってしまったそうです。
唐人山を抜けると、物袋(もって)に入ります。
開聞神社を出た御神幸祭の行列は、物袋で折り返し、「お旅所」である脇浦に向かいます。
「物袋」は「ものぶくろ」ではなく、「もって」と読みます。
筆者、開聞出身の友人に教えてもらうまでは、「ものぶくろ」だと思っていました。
「物袋」のバス停がありますので、近くを通る機会がありましたら探してみて下さい。
国道226号線沿い、瀬平海岸手前になります。
■ 物袋御前(もってごぜん)
言い伝えによると、この地には「物袋御前」と呼ばれる女官が住んでいたそうです。
天智天皇の后、大宮姫の着付けや髪結いなどをする女官で、物袋に住んでいたことから「物袋御前」と呼んでいたそうです。
その後、御前は「物袋大明神」として祭られたそうです。
旧街道は、物袋から長崎の海岸を通って、長崎瀬の難所に出ていました。
ここでは海に突き出た岩と岩の間を、波しぶきを浴びながら飛び越えて渡っていたそうです。
お年寄りや、女、子供はひとりでは、渡ることの出来ない難所で、「瀬平渡り」といって怖れられていたそうです。

瀬平から「頴娃郷」に入ることになります。
山川郷から頴娃郷へいたる海岸づたいの道筋、「瀬平渡り」をたどってみました。