2012年09月30日

薩摩藩の統治制度その3 農村の統治

■ 鹿児島城下と農村
幕末、鹿児島城下には上町に六町、下町に十五町、西田に三町の「町」ができました。
この城下を近在24ヶ村と荒田浦・横井野町が取り囲む形になっていました。

【 近在24ヶ村 】
近在24ヶ村は「近名(きんみょう)」と「遠名(えんみょう)」とに分かれていました。
この区別は行政的なもので、役人が出張する際、近名の場合は扶持米は支給されず、遠名の場合は支給される定めでありました。
簡単に言うと、遠名の場合は出張費が支給されるが、近名の場合は支給されないということだと思われます。

近名;荒田村・郡元村・中村・田上村・武村・西田村・原良村・草牟田村・小野村・下伊敷村・永吉村・坂元村」の12ヶ村。

遠名;犬迫村・上伊敷村・比志島村・花棚村・皆房村・岡之原村・下田村・吉野村・川上村・花野村・西別府村・小山田村」の12ヶ村。

近在24ヶ村は藩庁の直轄地で、谷山郷や指宿郷などの諸郷と異なり「庄屋」は城下士が着任していました。
村の行政組織は、諸郷と大差はなかったようです。(『鹿児島市誌より』)
この庄屋は、城下士の中でも困窮しているものが任命されていたようです。

■ 農民統治−門割制度
薩摩藩領内には652もの村がありました(『鹿児島県の歴史』)。薩摩国258ヶ村、大隅国230ヶ村、日向国諸県郡164ヶ村。

村には「方限(ほうぎり)」という小村落に分けられていました。
この膨大な村々の農政全般は、「郡方」の受け持ちでありました。
その頂点に立つのは「郡奉行」で、各外城では「噯」のもとで「郡見廻」が農政を担いました。
各村では武士階級の庄屋が農事や農民生活の指導・監督にあたり、各方限では農民階級の名主が庄屋を補佐していました。

【 門割制度 】
幕府や他の諸藩は、安定した農業経営ができる独立農家を把握して村を治める方法をとっていたが、薩摩藩ではここの農民ではなく、「門・屋敷」という農業経営体を掌握するという方法がとられていました。
この独自の農民支配体制を「門割制度」といいます。
門割制度は、室町時代kら南九州に広く展開していた「門体制」と呼ばれる中世的構造の農村社会が基になっていました。

ひとつの門には一名の「名頭(みょうず)・乙名(おつな)」と何人かの「名子(なご)」がいて、それぞれが「家部(かぶ)」と呼ばれる単位体を形成していました。
門は長である名頭と名子という複数の農家から構成される農業経営体で、名頭を中心に共同で農作業などに従事しました。
「屋敷」とは、名頭単一もしくはそれに準ずる小規模な農業経営体をさしました。

世の中が明治となって、苗字をつける段となり「門の名前」を苗字にしたとも云われています。
今でも、旧喜入町や指宿市の集落に行くと同じ苗字の世帯が集まっているところがあります。
そういった集落で家をたずねる際は、フルネームや職業までふくめて尋ねなければならない場合があります。

3回にわたって薩摩藩の統治についてみてみました。
次回は、旧谷山街道にもどりまして「給黎郷」を訪ねてみます。






   





posted by ぶらかご.com at 22:33| Comment(0) | 薩藩の統治制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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