2022年11月05日

仁風寮おたずねの件

仁風寮および関連施設が鹿児島市栄町にあったか否かという問い合わせをいただきました。戦前・戦中に足をとられているため、なかなか終戦直後にたどりつきません。2冊の資料で仁風寮の記事にあたってみました。おたずねの答えになるか否かわかりませんが、記してみます。

1.『仁風寮概況』(鹿児島縣援護會)
 同書は、昭和26年10月1日現在の仁風寮について記しています。

■沿革概要
設立認可 昭和20年10月25日
職員任命 昭和20年11月20日
事業開始 昭和20年12月11日

■寮舎
昭和21年12月以前 鹿児島市下伊敷町2278海軍施設部隊バラック建3棟
昭和21年12月25日 鹿児島市下伊敷町2278に平木葺本建築3棟120坪増築落成移住
昭和25年3月23日 鹿児島市郡元町2699現新寮舎落成移轉

 同書を読み返してみましたが、栄町に関する記述はありませんでした。また、職員宿舎をはじめとする関連施設などに関しても記されていません。同寮の経営主体は、鹿児島縣援護會とあります。そこで、鹿児島年鑑(昭和23年版)を開いてみました。

2.鹿児島年鑑 昭和23年版
 同書の「厚生」に、社会事業施設に関する記事が掲載されています。そこに、恩賜財団同胞援護会鹿児島縣支部の記述があります。
 
 生活相談所、物品頒布所、共同住宅、簡易宿泊所、簡易食堂、独身寮、共同浴場、建築工養成所、附属病院(以上鹿児島市栄町にある)

 昭和31年作成の鹿児島市住宅地図をみると、「簡易宿泊所」が記されていました。旧専売局と同じ敷地内にありますので、引揚援護局の施設と隣り合っていたかもしれません。柳町に、引揚援護局の職員宿舎が6棟あったようです。

 今の筆者が知り得たのはここまでです。正確さに欠けて申し訳もうしわけないのですが、鹿児島年鑑の記事は参考になるかもしれません。
posted by 山川かんきつ at 16:12| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月24日

なんにもなかった

 暮しの手帖社の『なんにもなかった 戦中・戦後の暮らしの記録拾遺集 戦後編』は、おもしろい本である。




 戦中・戦後を生きた庶民の暮らしぶりを垣間見せている。
なかでも、「お腹がすいてねむれないよオー」と題した投稿に目がとまった。投稿者は長野県にお住まいの女性で、筆者の父より1歳上である。
投稿文の後半にある、「正月のご馳走」は両親から聞いている話とも重なった。

 毎年十二月三十日頃、「兎殺しのおじさん」がやって来ると、私たちは可愛い兎をびくに入れて、集会所に行き列に並んだ。

 おそらく、昭和20年代のことであろう。彼女はお姉さんと共に集会所の列に並び、おじさんに兎を手渡す。

 おじさんは、慣れた手つきで兎の両耳を摑み、その腹を両膝に挟み、鋭い刃物で一気に咽をつき、あっという間にその皮を剥いだ。そして、おじさんは皮をとり、私たちには皮を剥いだ兎を渡してくれた。

 それを持ち帰る時、姉と私はいつも泣いた。肉は小さく切って雑煮に、骨は姉と二人で石の上で金槌で叩いて団子にして、ご馳走になった。

 一年に一度味わう肉の味であった。新年になるとまた、子兎を譲り受け、大切に大切に育てた。そして、また正月のご馳走になった。


 筆者が戦争体験者と話をした際、終戦以後の苦労話をする方が多かった。嫁さんの祖母は、「憐れをしたのよ〜」と、終戦後の生活ぶりを振り返ってくれた。おそらく、食料を求めてタケノコ生活を強いられていたかもしれない。
終戦時、彼女は鹿児島市上竜尾町に在住。畑は持っていなかったようだ。食料の調達は悩みの種であったろう。

 昭和20年10月以後は、飢餓を懸念するまでに食糧事情は悪化していたらしい。経済統制はきかず、闇市が活況を呈する剥き出しの資本主義が現れていた。インフレは収まらず、終戦から4,5年はつづいたようだ。庶民たちの生活は苦しく、心の余裕もなかったと思われる。

しわ寄せは、必ず弱いものたちへやって来る。孤児や空襲でケガを負わされた市民たちを思うとき、言葉もない。

兎殺しのおじさんの話と似た体験を、両親が話してくれた。
父は昭和18年8月生まれ、母は昭和20年10月生まれ。両親に戦争の記憶はない。
両親の記憶がハッキリしだすのは、昭和30年代半ば以降である。

■母の記憶
 盆と暮れになると、母の実家ではウサギや鶏をつぶしていたそうである。やはり、ご馳走になったようである。子どもの頃の記憶ゆえ、ハッキリしないところもある。
ウサギは、口から空気を入れて潰していたらしい。ニワトリは首をねじって息を止め、火であぶってから毛をむしり取っていたそうである。

 以来、母は肉を口にできなくなった。テレビの健康番組で、高齢者は肉を食べなくてはいけないと報じている。母は無理して食べている。一切れ、二切れのものだが・・・。

■父の記憶
 父が小学3年生だった時の話である。子犬を拾って、自宅に連れ帰ったそうである。一週間ほどたったころのこと、学校から帰ると子犬が見当たらない。探せど探せど見つからない。
母(筆者の祖母)に子犬のことを尋ねると、こう答えたそうである。

「近所のおじさんが、食べるために持って行った」

 父によると、相当な衝撃をうけたそうである。以前より足腰が弱くなった父。犬を飼って散歩でもしたらどうかと、勧められている。どうやら、子犬の件がトラウマになっているらしい。頑として、犬を飼うと言わない。

 
参考文献
『なんにもなかった 戦中・戦後の暮らしの記録拾遺集 戦後編』(暮しの手帖社・2019年)
posted by 山川かんきつ at 20:28| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月26日

むかしの住宅地図から思うこと

 昭和31年作成の鹿児島市住宅地図を、もう一度、じっくり眺めた。どうやら、終戦から11年という年月に引っかかっているらしい。

 戦時中に鹿児島市防空課長だった本田斉さんの著書、『鹿児島市戦災記録(あれから十年)』を読み直した。昭和30年6月に刊行された書物である。本田さんは著書で、昭和20年の空襲について記している。昭和20年5月12日の空襲に関する記述がないため、7回である。鹿児島市史や鹿児島市戦災復興誌に記された空襲の回数と異なる。

 同書を読み進めるうちに気づいた。7回の空襲の記述は、鹿児島市史と鹿児島市戦災復興誌に大きな影響を与えている。本田さんの記述をそのまま踏襲している。鹿児島市史と鹿児島市戦災復興誌が記す空襲の記述は、戦後に書かれた回想録をもとに組み立てられているようだ。一次資料に依っていない。

 本田さんは、昭和30年の視点で記されている。貴重な記述である。終戦から10年経った鹿児島市の光景を、こう記している。

 日本で一番ひどい戦禍を受けた鹿児島市がその後の復興でも日本一の急ピッチを打った事は広く衆知の事実である。終戦当時に西鹿児島駅附近に立って東を眺めると錦江湾が手に取る様に見えた。
 そうして、春ともなれば高見馬場から天文館、石燈籠にかけた中心地でさえ麦刈りの風景が見た。
 その頃市民の話では鹿児島市は永久に焼け野ケ原として戦争の残骸を残す事だろうと語られ現在の様な戦前にも勝る繁華街に返り咲く等と想像するものは一人もなかった。


 筆者の記憶がはっきりし出すのは、昭和50年代からである。昭和20年代から30年代は、まったく分からない。当時の新聞や写真集をめくるなどしている。掲載された写真を見ても、場所がまったく分からないことが多い。先述の住宅地図を開くといった次第である。

 嫁さんの話によると、地元放送局の番組で、『鹿児島市住宅地図案内』が出て来たそうである。筆者は番組を見ていないため、どのような伝え方をしたか分らない。知らない世代には物珍しさを、知っている世代には懐かしさを感じさせたかもしれない。

 本田斉さんが記すとおり、復興のスピードは早かったかもしれない。いっぽう、格差を思わせる写真が、『昭和の鹿児島 写真で甦る、あの頃の記憶』にあった。昭和29年に西鹿児島駅前で撮られた一枚である。駅前は未舗装の広場といった光景である。そこに一人の女性が天秤棒をかついで歩いている。ほんの近くに、一台のセダンが止まっている。
写し出され光景を見るに、建物はそこそこ建っているものの寂しげである。
夜の天文館をとらえた写真は、ネオンが煌々と燈るなかを人びとが歩いている。天文館は別格だったようだ。

 終戦から10年、11年という年月が長かったのか、短かったのか筆者には分らない。
終戦直後の食糧危機、伝染病の発生、インフレなど、悩ましい問題が起きていた。
また、男たちは現金収入を得るため都会へと働きに出始めたかもしれない。ダムやトンネルなど公共工事の現場や炭鉱へ・・・。

 終戦以降に思いを馳せると、先人たちのすごさを思うばかりである。この時代を懸命に生きた名も知れぬ人たちこそ、偉人と呼ぶにふさわしい気がする。
 地元放送局の番組を見ていると、歴史上の偉人を描くことに御執心のようだ。ときには、昭和の戦争から後の時代を描いてみてはどうか。


参考文献
『鹿児島市住宅地図案内』(昭和31年・住宅案内地図刊行会)
『鹿児島市戦災記録(あれから十年)』(本田斉『鹿児島県の空襲・戦災の記録』所収・鹿児島県の空襲を記録する会・1985年)
『写真と年表をつづる 鹿児島戦後50年』(南日本新聞社・平成7年)
『昭和の鹿児島 写真で甦る、あの頃の記憶』(株式会社生活情報センター・2006年)
『目で見る鹿児島市の100年』(郷土出版社・2005年)
 
posted by 山川かんきつ at 21:10| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする