2014年12月20日

与次郎砂漠

与次郎ヶ浜が今のように賑わうようになったのは、大げさにいえばフレスポが出来てからのような気がします。
筆者のチンケな経験からいうと、パチンコ店と飲食店・ミスミ・サンキュー与次郎店に行くぐらいのものでした。
サンロイヤルホテル前にあった「ハンバーグレストラン・アーリー」に、2,3度行ったような気がします。
与次郎ではもっぱら、グラハン・太郎・第五富士といったパチンコ店に行く程度でした。
その頃の与次郎は、空き地が点々とした中途半端な場所であったようなきがします。

さて、埋め立て後の与次郎ヶ浜が本格的に開発され始めたのは、太陽国体が終わった昭和47年以降のことになるそうです。
南日本新聞が平成13年に連載した「与次郎埋め立て 新開地にかけた夢」をもとにして与次郎ヶ浜の開発を見ていきます。

平成13年の与次郎ヶ浜の様子
平成13年5月23日の南日本新聞「理想と離れた人口の町−観光のシンボル」に、当時の与次郎ヶ浜の様子が次のように記されています。

「外壁を覆う雑草やツタの下に「ゲームセンター」の看板がのぞく。鹿児島市の与次郎ヶ浜地区の一画に廃墟のようなビルが建つ。入口をくぐると、思いがけないしゃれた中庭がある。レンガが敷かれ、中央に2本の木が陰をつくる。かつてはディスコなど10軒ほどがあったというが、今は1棟だけが営業をつづけている。

記事に言うレンガの敷かれた建物とは、おそらく「競技場北門前交差点」脇に建っているビルのことかもしれません。
地下と1階にゲーセンがあったような気がします。
記事は、また次のように続きます。

鹿児島ベルコモンズ
「今では完全に姿を消したが、海辺には“鹿児島ベルコモンズ”という最先端のファッション街もあった。開業は76年。東京のアパレル会社の運営で40店あまりが並んだ。
白い壁にオレンジ色のかわら屋根、半地下や2階など起伏のある複雑な構造で、ぶらぶら歩きをしながら買物を楽しめた。
地中海風の夢のような街だった

ネット上に鹿児島ベルコモンズの写真がありましたが、行った覚えが微かにあります。
なにせ小さい頃のこと、ファッションとかに興味がなかったのでしょう、覚えていないのです。残念。
鹿児島ベルコモンズ跡地は、テニスやバスケットの屋内コートなどのレジャー施設になっているそうです。

同連載、平成13年5月29日紙面に鹿児島ベルコモンズを西側上空から撮影した写真が掲載されています。
ベルコモンズはひとつの大きな建物ではなく、大小いくつもの建物が集まって建っているようにみえます。
また周辺にベルコモンズ以外の建物はなく、空き地ばかりであったようです。

与次郎砂漠
同連載、平成13年5月29日号。
「1972(昭和47)年の太陽国体を大成功で終え、いよいよ本格化するはずだった与次郎ヶ浜開発はオイルショックでつまずく。
観光施設への銀行融資が厳しくなり、土地を購入した企業も建設を見送った。広大な空き地にペンペン草が生え、風が吹けばシラスが舞い上がる街は“与次郎砂漠”呼ばれた。」

与次郎ヶ浜を問題視した『フレッシュ南日本』というミニコミ紙が発行されていたそうです。
政党や団体とは関係なく、地域に根ざした話題と届けようと創刊。
1976年から約10年間、月二回1万部発行。
発行人によると、「与次郎問題はタブーで、マスコミも追及しなかった。とことんやって問題提起しよう、と意気込んだ」そうです。


南日本新聞「与次郎埋め立て新開地にかけた夢・開発先行、ずさんな計画」に、鹿児島大学の教授はが与次郎ヶ浜開発問題を次のように分析しています。
「行政主導で利用計画より先に埋め立てを決めた。鹿児島は特に民間の活力が弱く、実需がないところで行政が先行してしまう。公共事業だのみということになる。」

するどい指摘です。
祇園の洲埋立などは上町地区振興を目的とするものであったそうですが、結果はどうだったでしょう。
教授の指摘どおり、鹿児島の開発事業は利用目的よりも公共工事を行うことに重きがあるようです。



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2014年12月17日

与次郎ヶ浜の開発

与次郎ヶ浜埋め立てについては、水搬送工法が取り上げられることが多いようです。
鹿児島市史や市政だよりなどに目を通してみましたが、工法と埋立目的の記事となっています。
土地利用や埋め立て後の資料を探していましたら、平成13年の南日本新聞にいい連載がありました。
「年間企画鶴丸城400年 まち未来へ第2部 与次郎ヶ浜埋め立て 新開地にかけた夢」10回シリーズ。
埋め立てから、その後の土地利用までの問題点が記載されています。
この連載記事をもとにしました。
興味のある方は、平成13年の南日本新聞をご覧になってみてください。

与次郎開発は、三ツ井市長が構想した「大鹿児島建設」のひとつの役割を担いました。
国体誘致運動が盛り上がるなか、その主会場となる観光・スポーツゾーンを造ろうというものでした。
また当時、鹿児島市の都市機能は天文館や市役所周辺などに集中していました。都市が南に広がるにつれ、新たな都心が必要とされていました。
鹿児島市が南へ広がるのは、江戸時代・大正時代・戦後昭和と3回起きています。
土地不足解消と観光開発も目指す一石二鳥の大事業に、市民たちの期待は高いものがあったようです。
そのため、与次郎開発の計画が起こったとき、市民たちから反対の声はあまりなかったそうです。

道路計画
当時、鹿児島市の市長は末吉利雄。与次郎ヶ浜の土地利用計画を決める庁内の協議会で、「道路は桜島に向けんか」というひと声で、与次郎を東西に走る道路はすべて桜島を向くことになりました。
「どこを歩いても雄大な桜島が見えるように」という市長のこだわりであったそうです。

末吉市長は昭和42年、三ツ井市長から革新市長として「敬老パス」など福祉分野での業績が語り継がれていますが、観光立市にかける思いも強かったそうです。
東京のコンサルタント案をもとに土地利用計画がまとまったのは、昭和44年のことでした。

埋立地の中心に1972年(昭和47)の国体会場となるスポーツゾーンと市民広場を設け、南側には熱帯植物園、スポーツランドなど。北側には宿泊施設とレクリエーション・観光施設と5つのエリアに分けたそうです。
1970年市政概要によると、「与次郎ヶ浜が市民に残された唯一の海岸線となってしまった。そこで市街地に不足しているオープンスペースを確保するとともに、景観的にも緑の豊かな海岸線を形作り」と紹介しています。

パークアンドライドを目指した与次郎
埋め立てられた与次郎には、なるべく車を入れず、周辺に駐車場を造りバスなどの交通機関を利用させよう考えていました。
交通事故が起こるような場所ではなく、家族連れが安心して遊べる場所を計画しました。
与次郎の道路計画は、都市の交通量を調整するという「パークアイドランド」を先取りするようなものでした。

パークアンドライドは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自家用車で最寄りの駅またはバス停まで行き、車を駐車させた後、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用して都心部の目的地に向かうシステム。
これはアメリカで普及したシステムで都心部の交通環境の悪化を防ぐほか、交通量自体が減少することから渋滞緩和だけではなく、排気ガスによる大気汚染の軽減、二酸化炭素排出量の削減といった効果も期待されています。

パークアンドライドはいいことづくめではありません。
バスや鉄道など、自動車以外の公共交通機関が十分発達している都市部では有効ですが、鹿児島のようにバス、列車の運行本数が少なく、車が生活必需品となっている地方においては効果が乏しいと言われています。
昭和40年代の与次郎開発では、パークアンドライドのような考えに沿って計画されたそうです。
考えはとてもよかったのですが、のちにマイナスの影響をもたらしてしまったようです。
これについては、次回ふれてみます。

観光地区条例
鹿児島市街にある海岸の大部分は、港湾や工業用地となっていました。市民に残された与次郎ヶ浜を利用計画に沿ってどのように処分・開発するか。鹿児島市には大きな課題が課せられていました。
埋立地の18%を占める国体用地は、県に無償で供与することが決まっていました。
そのうえ、埋め立てが完成する前の1969(昭和44)年度中に13億円の借金返済が始まるのでした。
残った土地は早く、それなりの値段で売らなければ赤字になるのでした。

都市計画法では土地を合理的に利用するため、建物の用途に一定の制限をかける地域を定めます。新しく誕生した土地を利用するため、用途地域を定めなければなりません。
市と建設省が協議して、与次郎ヶ浜には「観光地区条例」が設定されることになりました。
与次郎ヶ浜を観光地区として設定し、目的に合わない施設や建築などを規制するというものでした。
建築できるのはホテル・レジャー関係施設・飲食店・売店などに限られることになりました。
当時、全国でも例のない条例であったそうです。
乱開発は防げるという安心感はありましたが、赤字を出さないということもあり、結果的に柔らかい規制になってしまったようです。

開発の中心を担う者
与次郎ヶ浜開発の中心を担う者をどうするかで、市議会で大きな議論を呼びました。
@鹿児島市が直接、土地を売却する方法
A公社方式
B民間からの出資を募る第三セクター方式

鹿児島市は第三セクター方式を採用。1969年(昭和49)12月議会に観光地区条例とともに、与次郎ヶ浜に関する5議案を提案しました。
市議会では、第三セクター導入に相当もめたそうです。
特別委員会、本会議ともに意見が分かれたそうですが、いずれも起立採決で可決。
これによって、与次郎開発はようやくスタートすることになりました。
しかし太陽国体が終わり、その後の与次郎ヶ浜は、ちぐはぐな開発になったようです。

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2014年12月14日

与次郎ヶ浜の埋め立て

今では想像だにできませんが、かつて鹿児島市には錦江湾沿に沿って渚が広がっていたそうです。与次郎ヶ浜・鴨池海岸・谷山小松原・和田浜海岸・七ツ島など。
これらの海岸は古くから名所のひとつとされ、絵葉書や写真などの題材として親しまれていたそうです。
昭和12年の『鹿児島市街地図』には、鴨池海岸を「白砂青松風光明媚の地」とわざわざ記述するほどです。
また、鴨池町に鎮座する日枝神社境内の案内板にも、同様のことが記されています。

これらの渚は単なる景勝の地としてだけでなく、漁民にとっては生活の糧を得る所でもありました。
『鹿児島市100年』の「渚の風景」というページに与次郎ヶ浜や洲崎の浜、鴨池海岸などの写真が掲載されていますので、参考にしてみてください。
今回は与次郎ヶ浜の埋め立てについて触れてみます。

yojirou1.jpg

■ 向田邦子と天保山
向田邦子『鹿児島感傷旅行』で、天保山や与次郎ヶ浜の風景を思いでとともに次のように記しています。

「天保山は、鹿児島市随一といってもいい海水浴場であった。前に立ちはだかる桜島。ひろがる錦江湾。松林がゆたかに−立ちならんでいる筈であったが−松林は、ほんのわずかしか残っていないのである。
 私が泊ったのは、この天保山に出来た新しいサン・ロイヤルホテルである。ここの東常務が私の旧友のご主人であったという奇遇もあり、消えてしまった松林と、いやに大きく見える桜島について解説をしていただいた。
 桜島が大きく迫ってみえるのも道理で、海は千メートル余も埋め立てられているという。昔、私がポチャポチャとシュミーズで泳いだり、脱衣籠に入れておいた母の手作りのキャラコのズロースを盗られて半ベソをかいた天保山海水浴場が、今、ホテルの前の駐車場のあたりでしょうといわれる」

昭和42年以降、天保山や与次郎ヶ浜の辺りはスッカリさま変わりしてしまいました。

■ 埋め立ての目的
与次郎ヶ浜の埋め立ては、昭和30年代後半あたりから構想されていたそうです。当初、鴨池空港拡張のためという考えでありましたが、空港が溝辺へ移転することになり、計画は立ち消えとなりました。
当時の鹿児島市では住宅が不足し、市民の半数にあたる約8万世帯が借家住まいをつづけていました。城山の後背部を削り取って41haの宅地を生み出そうとしていました。
また国体誘致運動が盛り上がり、主会場となる観光・スポーツゾーンを造る計画も持ち上がっていました。
与次郎ヶ浜の埋め立ては、観光開発と土地不足解消を目指す一石二鳥の大事業となったのでした。

この事業では1966年(昭和41)から1972年(昭和47)まで、約114億円をかけて埋め立て開発が行われました。
天保山公園の南側から海釣り公園付近まで約1.6kmの長水路に縁どられた109ha、東京ドームが23個入る広さだそうです。
また、桜島と海の眺望に恵まれた立地を生かして観光・市民福祉に役立てることを目的としたものでありました。

■ 与次郎ヶ浜の性質
『かごしま戦後50年』や『鹿児島市の百年』などに掲載された写真をみると、遠浅の浜が広がっているように見えます。
実際には、満潮時で30m、傾斜も急で浚渫による埋め立てでは難しい深さであったそうです。
およそ400万㎥もの埋め土を浚渫して賄おうとすると、新川の沖から土砂を運ばなければなりませんでした。
埋め立てるには、適さぬ海岸でした。

工事を手掛けたのは、昭和40年(1965)5月に設立された鹿児島開発事業団で鹿児島市の委託を受けた大事業でした。
鹿児島開発事業団は、県・鹿児島市・谷山市によって設立された特別地方公共団体。住宅難を解消するため、安い住宅を供給することが目的の事業団でありました。
1993年5月の解散まで、1号〜3号用地、伊敷、星ヶ峯団地など1244haを開発したそうです。

■ 水搬送工法
埋め立ては1967(昭和42)2月11日から始まりました。
城山団地の造成で削ったシラスを、汲み上げた海水に溶かして甲突川沿いに敷設したパイプで流し、埋め立てに利用するという工法が採用されました。
この工法は、全国初のもので国内外から注目を浴びたそうです。
工事の模様はテレビで中継され、事業団ではプロの映画監督に依頼して記録映画まで作ったそうです。

通常、護岸工事が終わってから埋め立てを始めるものだそうです。
工期と工法の関係から、護岸工事と並行して進めなければなりませんでした。
水搬送工法が終わったのは1970年春、その後も海砂浚渫による埋め立ては続き、すべての工事が終わったのは、太陽国体を終えた1972年末であったそうです。

■ 二重護岸
埋め立て前の与次郎ヶ浜は高さ3,4mほどの堤防に囲まれていました。
桜島をのぞむ景観を生かすため、堤防を低くする一方で国の高い安全基準をクリアするため護岸は二重のものとなりました。
高波が来ても間にある水路で消波できる安全性も備え、護岸沿いには幅15mの緑地帯をゆったりと設けたそうです。

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護岸の基礎となる海底にはヘドロが厚く堆積、捨石を投入しても1mほど潜り込むほどでした。
人工的につくられた与次郎ヶ浜の土地は、約800m沖に突き出る形になったそうです。

■ 埋め立てと環境問題
かつての与次郎ヶ浜では、潮干狩りができる干潟、深いところがあるなど様々な表情をもった海であったそうです。
鹿大水産学部の学生さんたちが水泳やカッター訓練を行ったほか、キス釣りやノリ、エビ、カニなどを採って煮たり焼いたりして食べたものであったそうです。
また、地引網漁も行われるほど豊かな海でした。

yojirou1.jpg

与次郎ヶ浜の埋め立ては、1922年(大正11)施行の公有水面埋立法に基づいていました。
この法律には環境への視点が明確にされていないという欠点がありました。
埋め立てに当たって、漁業者以外、一般住民への説明はなく、市議会でも護岸や工事の安全面などについて議論があっただけであったそうです。

与次郎ヶ浜埋め立ての話が持ち上がったとき、市民の反対はほとんどなかったそうです。
埋め立てが9割がた終わった頃、西桜島漁協が反対を決議しましたが、これは与次郎ヶ浜だけでなく次々進む湾内開発への反発であったようです。

埋め立てが進むにつれ、海の異変に気付いた研究者もいました。
その研究者は毎月水質調査をしたそうですが、埋め立て地先で生物がとれなくなり、採泥器で採った泥は硫黄のような臭いを放っていたそうです。
また、埋め立てに使用したシラスに含まれる軽石が湾内に流れだし、びっしり海面を覆い尽くしたこともあり、漁船のエンジンや網に被害をだすということも起こったそうです。

当時、鹿児島は日本一の貧乏県で、産業・工業誘致で豊かにという時代でありました。
与次郎ヶ浜開発や宅地造成は、鹿児島市発展に欠かせないという考えが大多数であったようです。
与次郎ヶ浜は、莫大な予算と技術者たちによって困難な工事をやり遂げたのでした。
太陽国体が終わった後の与次郎は、「与次郎砂漠」と揶揄されるほど淋しい所になっていました。
posted by ぶらかご.com at 20:27| Comment(1) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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