2014年08月14日

赤痢と疫痢

NHKの「花子とアン」で、主人公の愛息子、あゆむちゃんが疫痢で亡くなってしまいました。
疫痢という病気、初めて聞いたので調べてみました。
疫痢は、3歳から6歳くらいの小児にみられる細菌性赤痢のひとつ。
症状としては、顔面蒼白・血圧低下・ひきつけ・意識混濁などがみられるそうです。
病気の経過が急で死亡率が高いことから、「はやて」とも呼ばれたそうです。
1964年以降、疫痢の流行は見られず、発病は稀であるそうです。

【 鹿児島での赤痢流行 】
鹿児島では戦争末期、赤痢が異常発生したことがありました。
赤痢流行の原因のひとつに、米軍上陸に備えた日本軍のタコつぼ陣地がありました。
陣地には十分な食糧と医薬品がなく、不衛生であったことも原因であったようです。
部隊の赤痢重症患者は、満員列車に乗せられ西鹿児島駅まで運ばれました。
そこから、伊敷にあった陸軍病院までおよそ3キロの道のりを、歩いて移動したそうです。
衛生兵に伴われた患者たちは、下痢の連続でズボンのベルトを緩める暇もありませんでした。
おかげで、伊敷街道は患者たちが排泄する真っ赤な血で染まるほどであったそうです。

そこに6月17日の大空襲がありました。
この頃の鹿児島は梅雨入りしており、防空壕には腰までつかるほどの水が溜まっていたそうです。
空襲後の市街地では水道が寸断され、いたるところに汚水があふれていました。
また、市民たちは慢性の栄養失調状態にあり、赤痢菌に対する抵抗力が殆どありませんでした。
赤痢や疫痢の流行は、戦後も市民たちを悩ませることになります。

【 終戦後の状況 】
鹿児島市史には、赤痢に関する記述をみつけられませんでしたので、『鹿児島市政だより』を参考にしました。

● 昭和26年7月24日第28号 赤痢の予防
昭和26年7月の鹿児島市では、赤痢が流行していたらしく次のような記事を掲載しています。

「セキリの当たり年とみられ、早くから危険信号が出されていた鹿児島市の伝染病の流行は、降り続いた大雨に相当の浸水家屋がでたため、その後ますます激しくなり、7月15日現在の市内の患者発生数は市保健所の調査によると、セキリ64名(内2名死亡)、エキリ31名(内16名死亡)の合計95名に達した。
これは昨年の同日現在に比較すると3倍に達し(昨年はセキリ27名、エキリ8名の合計35名)憂慮すべき事態となっている。

特に今年のエキリは悪性で死亡率が高く、2〜3歳の赤ちゃんがかかりやすくしかも危険であり、ツユ明けと共に予想される今後のエキリの流行にそなえて、保健所では特にこの年頃の赤ちゃんを持つ母親の注意を喚起している。

現在市保健所の防疫陣では出張所の防疫班を総動員して井戸、家屋の防疫に乗り出し、浸水家屋に対してはクレゾール、ミケゾール剤を散布、井戸に対してはカルキ消毒を実施して伝染病の予防につとめているが、それでも事態は極めて危険であるので一人でも患者を少なくし一人でも死者を減らすために、市民の皆さんの関心と協力を望んでいます」

『かごしま戦後50年』によると、昭和26年8月には猛暑で赤痢・疫痢が前年の5倍に達し、県内の伝染病患者は1000人を突破したそうです。
昭和26年には、家屋が浸水するような豪雨があったようです。
後日、集中豪雨について触れる予定にしていますので、今日は置いておきます。
『鹿児島市政だより』では、

『鹿児島市市政だより』では、対策や症状に関する記事も掲載されています。
この頃になると、疫痢に有効な薬もあったようです。

【 患ったら届出よ!! 
数回の下痢があたり粘血便があったら直ぐ医師に診てもらいましょう。医師にセキリの疑いがあるといわれると何か罪を犯したかのように考えて届出を拒む人がありますが、むしろこれをかくすことの方がどれ丈恥になるか分かりません。一人が隠したためにつぎつぎと広がって取り返しのつかぬことになります。

今はセキリ・エキリの特効薬も出ております。あの恐ろしいエキリも症状が悪化する前に飲めば二日位で全治します。届出があったエキリとか重症セキリは保健所で無料で治療することができます。」

【 症状について 】
「今年のセキリは主として駒込B3菌によるものでこのほか駒込A、大原菌によるものがありますが、大人では至って軽症であります。死亡率も大変低く平均3%に減っております。
しかしエキリは31名中16名の死亡となっており、症状が軽いといっても赤ちゃんの場合はエキリとなって死亡する者が6割もあることになります。」

【 予防するには 】
1.手を洗いましょう
セキリ菌を飲み込まなければセキリにはかかりません。手には汚いものがつき易いものです。外から帰ったとき、食事の前は必ずきれいな水で手を洗いましょう。

2.ハエをとりましょう
ハエは大便をたべものに運びます。ハエのとまったものは決して食べないように心がけること。一匹のハエも退治しましょう。
※当時の鹿児島市では、ハエ・蚊をなくす運動が行われていました。

3.生水、ナマモノはさけましょう
生水、ナマモノはいつ何処でセキリ菌がついたか分かりません。せめて夏の間中は絶対によしましょう。

それまで毎年7月になると赤痢や疫痢の記事が掲載されていましたが、昭和32年以後は見られなくなりました。
もはや、赤痢や疫痢で悩むことは無くなったようです。
それ以後は、日本脳炎に関する記事が目につくようになります。
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2014年08月11日

あれから十年

『あれから十年』(本田斉 著)
鹿児島県立図書館に、『あれから十年』と題した本が蔵書されています。
この本では、終戦から10年経った昭和30年に出版されたもので、戦中から終戦直後までの鹿児島市の様子が記述されています。
本書の最後のほうで、終戦から10年経った鹿児島市の復興ぶりを次のように記しています。

「終戦当時に西鹿児島駅から附近に立って東を眺めると、錦江湾が手に取るように見えた。そうして、春ともなれば高見馬場から天文館、石燈籠にかけた中心地でさえ麦刈りの風景が見えた。
その頃、市民の話では鹿児島市は永久に焼野ヶ原として戦争の残骸を残すことだろうと語られ、現在のような戦前にも勝る繁華街に返り咲く等と想像するものは一人もいなかった。

こうした最中に岩切市長、米山助役は市会議長中摩直一氏とタイアップして雄大なる鹿児島市復興計画の構想を練った。西鹿児島駅から新屋敷町を貫き海岸通りの中央卸売市場に到る幅員50メートル道路を初め、武岡から海岸に流れる数条の新設道路を見て市民は、余りにも無鉄砲な計画だと云って随分罵倒する向きもあった。
然し、岩切市長はこうした街の反対意見には耳を貸さず、着々として計画の遂行に当たった。」

『鹿児島市政だより』昭和30年8月13日発行 第65号
昭和30年8月13日発行の『鹿児島市政だより』にも、終戦から10年というひとつの節目に、感慨深げに鹿児島市の様子を記しています。

「昭和20年8月15日、この日は私たちの心に激烈な衝撃をあたえた、忘れられない思い出の日であった。そしてそれは、又大きな試練によって日本の歴史を変えた運命の日でもあった。
それから10年は経ったのである。その10年間は私達市民にとって全く汗と涙の苦闘、けわしい茨の道であった。思い出しても肌寒さを感ずるような苦しい生活の連続であった。

しかし、みんな、よく頑張り、よく耐え忍んだ。その結果、もう多少の余裕をもって振り返ることが出来るような状態になった。
私達はこの敗戦によって初めて自分の本当の弱さ、本当の強みをしみじみと体験したのである。この期間に街の様子もスッカリ変わった。
当時、見渡すかぎりの焼野ヶ原であった市街地は今や、昔の面影をとどめないまでに整然と区画されている。そこには新設の幅広い道路が四通八達し、現在豪華なバスや新型電車も縦横に疾駆している。

素晴らしい学校も建築された。ビルも建った。モダンな商店街もできた。繁華街天文館は昔以上のネオンきらめく賑やかさである。
このように凡ては復興した。
鹿児島市は、いまや古い殻を脱して新しい時代の息吹が街の隅々まで満ち溢れている。
ここに新しい鹿児島、躍進する鹿児島市がお互いの力によって見事に誕生したのである。
いや、現在すくすくと生長しているのである。

10年目の終戦記念日を迎え私たちは、あのような悲劇を再び繰り返さないようにシッカリと心にとめておきたい。
そして本市の発展を期したい。
これが希望である」

この市政だよりの第一面には、西鹿児島駅上空から桜島方向を撮影した大きな画像を掲載しています。
現ナポリ通りと西鹿児島駅前の結節点は、ロータリーになっていたようです。
画像を見ると、当時の市街地には高層建築物がないようです。
市街地のどこからでも、桜島の姿を見ることができたかもしれません。

第二面には、復興写真集として8枚の画像を掲載しています。
あまり映りがよくありませんが、当時の様子を知るうえで貴重な写真です。
記事には、こう記しています。
「終戦直後の市内は見渡す限り焼野ヶ原で、市街地の中心地は芋畑麦畑となっていました。
しかし市民のたゆまない努力で今は殆ど復興しました。」

掲載された写真は、照国神社から天文館方面を撮影した画像、新設した松原小学校、鴨池総合グラウンド、祇園の洲市営アパート、納屋通り、いづろ通り、中心街の夜景などが掲載されています。

驚いたのは、城山から見た中心街の夜景を撮影した画像です。
終戦から10年で、早くも夜景を撮影できるほどのネオンがきらめいています。
市民たちの生活は大変だったと思われますが、市街地の復興は想像以上に早いものであったかもしれません。
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2014年08月07日

河川水路事業

戦前の鹿児島市街地図をみると、甲突川や稲荷川、新川、清滝川などの大きな河川のほかに、細い川か用水路のような流れが描かれています。
あまりに細い流れであったようで、名前が書かれていないものが殆どです。
終戦後の復興事業によって、蓋をされたもの、流れを変えられたもの、下水道になったものもありました。

鹿児島の市街地は標高が低く、排水路の整備は戦前から大きな課題となっていました。
なかでも天保山川の水路は、川幅が狭く、放流口は甲突川に向かっていました。
ひとたび洪水ともなると、甲突川の水位が上がるため氾濫するという状況にありました。
終戦後の復興事業は、これら不良排水を整備する絶好のチャンスとなったのでした。
市街地を区画整理事業に合わせながら、地形の高低にしたがって23の排水区に分けることから始められました。

そして、使える従来の水路は活かし、利用価値の少ないものは近くの水路に合流させました。
幅1メートル以上の幹線水路工事は河川水路事業で、それ以下の地先下水は側溝工事で施行されることになりました。
そうして、荒田川・鴨池川・天保山川という新しい水路を造りました。
天保山川水路の排水は、直接海に流れるよう施行されたのでした。
ほかにも、清滝川や高麗川などの河川工事によって、排水路が整備されていきました。

【 荒田川 】
昭和6年頃の市街地図を見ると、当時の荒田川は中洲方面から現小田代病院の辺りまで流れていたようです。
そこから、甲突川の方へ向かって流れていたようです。
復興事業によって荒田川は、現在の市電が走る通りまで真っ直ぐ伸ばされました。
そこから、荒田八幡神社のほうへ向かい、与次郎ヶ浜の浜橋の方に注いでいたようです。

新しく造られることになった荒田川について、地域住民から若干の反対があったそうです。
それまで小川程度の排水路であったものを、現在のような荒田川にしようとするものでした。
住民の反対意見としては、「そんなに川幅を広くする必要があるのか」というものでした。
反対意見に対し鹿児島市では、「周辺の集水面積から計算して、この規模でないと排水の役目を果たさない。同地区は放流口と同高度なので、この断面を大きく広くしてやらないと、排水能力が悪く、また小規模では満潮時の逆流にも弱い」と説明しました。
のちに、地域住民の納得も得て工事は進められ、現在のような荒田川となったそうです。
工事中の荒田川の写真が、『鹿児島市戦災復興誌』279ページに掲載されています。

荒田八幡の脇から与次郎ヶ浜に向かって流れていた荒田川。
護岸の老朽化によって、大雨のたびに浸水被害が発生していました。
そのため、昭和58年度から川に蓋をかぶせる工事が行われ、現在のような道路となったそうです。

【 原良川 】
原良川は、昭和27年度に整備工事が行われています。
鹿児島市では、下水道を雨水と汚水を分離する分流式を採用することになりました。
そうして、雨水路として荒田川・滑川・清滝川・原良川・西田川・照国水路などが整備されたのでした。

昭和44年6月、鹿児島市街地は集中豪雨に見舞われました。
当時造成中であった原良団地の土砂が、原良川へ大量に流されたのでした。
そのため、「かけごし」一帯は土砂に埋まってしまいました。
そうして、昭和49年9月から11月にかけて、原良川の改修工事が実施されたのでした。
「かけごし」から甲突川に向う、延長360メートルにわたって暗渠を埋め込みました。
それまで、原良川の脇には柳の並木道がありましたが、工事によってなくなり、現在のような道路となったそうです。

そのほかの河川事業
整備されたのは、荒田川だけでなく次のような河川や水路も整備されていきました。
清滝川、天保山川、高麗川、草牟田川、黒田川、原良川、鴨池川、伊敷水路、洲崎水路、玉里川、松見川、常盤水路、真砂川、松方水路、滑川、鶴ヶ崎水路、郡元水路、名山掘水路、中郡水路など。

上にあげた川や水路については、資料を探している状態です。
戦前期の地図にあっては、川や水路に名前が書かれていないものが殆どです。
そのため、川の名前を特定することにかなり難渋しています。
分かりしだい、ご報告いたします。
今回は、知り得た河川だけに触れてみました。
posted by ぶらかご.com at 23:56| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする