2014年08月05日

鹿児島南港の建設

戦災復興事業において、西鹿児島駅から新屋敷広場を経由して、港湾施設へいたるルートをつくることこそ、計画の中心でありました。
そして、新屋敷広場周辺に官庁街を形成させる予定でした。
復興事業の担当者たちは、都市の発展に良い港は不可欠という考えでした。
一面焼け野原を見ていた当時の人々にとって、自動車や飛行機に対する意識は低く、港の整備・建設が喫緊の課題でありました。

それまで大量輸送の中心は、船舶でありました。
当時鹿児島港は日本最南端の貿易港となっていました。
そうしたことから、甲突川尻から塩屋町・鹿児島港を結ぶ海岸線に1万トン級の船舶を繋留できる港建設計画を建てました。

これと同時に、大隅・屋久島などの民間木材を扱う近海航路用の港を建設する計画を立てました。
また、新川から谷山までの海岸地帯を盛んにするため、南港建設計画は必要なものと考えたのでした。

【 南港建設計画 】
南港建設予定地は、海軍が本土決戦に備えて駆潜艇基地を造ろうとしていた場所でした。
沖合には、425メートルの防波堤を造っていました。

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戦後の計画では、新川尻〜脇田川尻までの海岸に、1300メートルの防波堤・1500メートルの岸壁を設け、海底を3メートル〜5メートル掘り出し、約60万平方メートルの埋め立て地を造るというものでした。
国鉄指宿線に南鹿児島貨物駅を設置して、埋め立て地まで線路を引き込む予定でした。
しかし、ドッジラインによって南港建設計画は中止しなければなりませんでした。

昭和27年、南港建設10年計画を立て、埋立工事が始められました。
『鹿児島市政だより』昭和28年5月19日号に、南港建設の構想と現状と題した記事が写真とともに掲載されていますので、ご覧になってみてください。

昭和34年には埋め立て工事の80%を完了。
事業費は県営事業費4億8500万円、市営事業費1億6500万円、合計6億5000万円でした。
昭和35年以降にも岸壁と防波堤が次々に造られ、昭和41年に現在のような形となりました。
鹿児島市街地の海岸線は、そのほとんどが港湾施設になっています。
復興事業の担当者たちが考えていたものよりも、はるかに大規模な港湾施設となったようです。

【 南港建設によって変った電停の名前 】
現在の南鹿児島駅前電停は、「牛懸(うしかけ)」と呼ばれていました。
その後、「競馬場前」と名前を改めたのでした。
現在の南小学校周辺には、競馬場の原っぱが広がっていました。
南港建設が始まると、「競馬場前電停」は、昭和31年「南港入口」と名前を変えました。

昭和40年、南鹿児島駅舎が完成。
これを機に、昭和42年には「南鹿児島駅前電停」と名前を変えたのでした。
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2014年08月02日

鴨池公園、陸上競技場とテニスコート

■ 鴨池グラウンド
【 競馬大会 】
昭和3年7月1日に鹿児島電気軌道株式会社から、動物園とともに買収したもので、当時は海辺にある広場にすぎなかったそうです。
『鹿児島自慢』(大正4年刊)によると、その広場では春と秋に競馬大会が開催されていたそうです。
この日は、鹿児島県下から自慢の名馬があつまり、さながら産馬展覧会といった感じであったようです。

『鹿児島自慢』には次のように記しています。
「会場は、いつでも天保山ときまっていたものだが、電車の便が開けて以来、どうやら鴨池がお鉢の譲り受けをしたらしい。論より証拠、近来の競馬会が大小共に演ぜえられるのは鴨池であって、天保山ではない。」

また、『鹿児島案内記』(大正11年刊)によれば、競馬大会開催の日は数万人の愛馬家が集ったそうです
この広場では競馬だけでなく、野球の試合や市小学校運動会、第6師団機動演習・閲兵式など様々なイベントに利用されていました。

【 紀元2600年事業 】
昭和15年には紀元2600年記念事業として、野球場と陸上競技場を改修、同年7月7日に完成しました。
しかし、昭和16年太平洋戦争が勃発すると、挙国非常時体制がしかれると野球場も陸上競技場も市民たちが利用することはなくなってしまいました。

昭和18年4月1日からは、郡元の海軍航空隊の練兵場として使用されるようになりました。
以来、陸上競技場は土曜日の午後と日曜日以外は、一般の使用が許されなくなりました。
翌月5月1日からは、野球場も同様の措置がとられました。
敗戦色濃くなった頃、陸上競技場は航空機の掩体壕を造るため壊されてしまいました。

【 終戦後の陸上競技場 】
復興事業の公園整備によって、昭和24年12月から陸上競技場の改修工事が行われました。
『鹿児島市政だより』昭和25年2月25日号に、改修中の競技場に関する記事を掲載しています。
市政だよりには、競技場の図面が掲載されていたようです。
鹿児島市がアップしている市政だよりには、残念ながら掲載されていません。

記事によると、トラックは1周400メートル・幅10メートル、直線コースの長さは140メートルありました。
そのほか、競技場スタンド席についての記事が掲載されています。
当時のグランド周辺の風景がわかる記述になっていますので、紹介してみます。

「ここは(正面スタンド)西側にある現在のたんぼのがわで、このスタンドに座れば目の前には白砂青松の錦江湾をのぞみ、その向こうに雄大な桜島を眺めることができますから、竣工したら風光絶佳、まさに日本一の勝景となりましょう。
背面スタンドは海に近く、観光道路を背にして西に向いて着席します。」

終戦後の陸上競技場は、市民大運動会や県民体育大会などが開催されるなど盛んに利用されました。
昭和24年の昭和天皇御巡幸の際には、市民奉迎場ともなりました。
昭和25年10月7・8日は、秩父宮妃殿下御出席のもと第34回全日本陸上競技選手大会が開催されました。
この大会のために、昭和24年12月16日総工費27,545,860円をかけて改修を行い、翌年10月3日に竣工しました。

面積27028u(約8176坪)、収容人員2万人、第一補助トラック、第二補助トラックを有する競技場となりました。
昭和30年8月1日、日本陸上競技連盟から一種競技場の甲として公認される競技場となったのでした。
この公認は、全国で11番目であったそうです。

陸連から公認された鴨池陸上競技場は、与次郎ヶ浜の埋立事業や太陽国体との関係によって取り壊されることになりました。
その後、陸上競技場のあったところには、背の高い公団住宅が建てられたのでした。

■ テニスコート
当初テニスコートは、鴨池動物園内にありました。
植物園を建設することとなり、昭和9年11月、現在の市保健急病センターの辺りに移されました。
敷地2611u(約790坪)に3面のテニスコートが造られました。
以来、大会が行われるなど、鴨池公園は総合運動場となっていきました。

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戦後の復興事業では、鴨池公園を総合運動公園として充実させるため、昭和25年、陸上競技場横の敷地3059u(925.5坪)に、5面の新しいテニスコートを建設しました。
戦前からあった3面のテニスコートは、取り壊されることになるのですが、それには次のような訳がありました。

終戦後、動物園入口や横通りにはヤミ市ができていました。
当局では観光や風致上よくないと考え、ヤミ市を整理し売店を動物園入口前に造ることにしました。
そうして、動物園入口前にあったテニスコートは、昭和32年に取り壊されることになったのでした。
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2014年07月31日

鴨池公園のうち鴨池動物園

戦災復興事業や都市計画事業によって、中央公園や平田公園など多くの公園が造られましたが、戦前から整備されたものもありました。
城山公園、天保山公園、祇園洲公園、多賀山公園、磯公園そして鴨池公園などです。
とくに鴨池公園は、動物園・野球場・陸上競技場・海水浴場などを有する鹿児島市最大の総合公園でありました。

鴨池公園が総合公園となったのは、鹿児島市が鹿児島電気軌道(株)から電車買収と同時に、附属設備として買い取ったことから始まりました。

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掲載した鴨池公園の図は、鴨池飛行場を建設する前の真砂町や鴨池の辺りを表しています。

【 鴨池動物園 】
鴨池動物園が誕生したのは大正5年のこと.
当時の動物園周辺は、ススキの原野と松林の生い茂る淋しいところであったそうです。
『鹿児島の路面電車50年』に、昭和30年代に撮影された写真が掲載されています。
郡元交差点から鴨池方面を撮影した写真に、現在の郡元電停の両側には鬱蒼とした林が茂っています。
この辺り、昭和30年代ごろまで戦前とあまり変わらなかったかもしれません。
また撮影された林は、奇跡的に空襲を免れたようです。

開園当初の動物園は、現郡元電停から山手側の方、現グランガーデン一帯3500坪の敷地に建てられていました。
園舎には、サル・オウム・九官鳥ぐらいしかいなかったそうです。

大正7年になると、敷地8000坪に拡張し動物の購入や娯楽遊具施設が整っていきました。
昭和3年7月、鹿児島電気軌道鰍フ経営不振から、電車とともに動物園を鹿児島市が買い取ったのでした。
『勝目清回顧録』によると、鹿児島電気軌道鰍フ買収には相当苦労されたようです。
昭和初め頃の鴨池動物園は、九州で唯一の動物園であったそうです。
鹿児島市では動物を増やそうとしますが、なかなか思うように行かなかったそうです。

昭和5年6月16日、野上堅蔵氏が鴨池動物園にゾウやその他の動物を寄付するという話が舞い込んできました。
当時、ゾウの値段は体の高さ1尺につき千円という相場だったそうです。
そこで5千円出して5尺(約151センチ)の像を購入しました。
九州で初めてのゾウであったことから、大変な人気者となり子供たちに喜ばれたそうです。
現在でいえば、コアラにも負けぬほどの人気ぶりであったかもしれません。

購入したゾウは、五尺ばかりの子供でありましたが、しだいに大きくなり、数年後には立派に大人のゾウとなりました。
このゾウ、戦争中に病死してしまったそうです。

野上氏の寄付によって、エミューやワニ、シーライオンなどが鴨池動物園で見られるようになって、ますます九州一の動物園として充実するようになりました。

【 鴨池の土地買収 】
鴨池動物園、野球場、運動場(現UR住宅)などの土地は、もともと島津家の所有でした。
鹿児島電気軌道鰍ェ、電車収入の増加をはかるための施設として遊園地を計画しました。
そのとき、島津家から土地を借りて施設をつくったものでした。
鹿児島市が鹿児島電気軌道鰍買収する際、一括買収して動物園を経営し、その後野球場や運動場を整備したのでした。

戦前、十五銀行の休業や減資など金融大混乱のため、大株主であった島津家は莫大な負担をしなければならなくなりました。
そこで、様々な財産の処分が始まりました。
そのうちのひとつとして、鴨池の土地が処分されることになったのでした。

島津家と鹿児島市の交渉の結果、坪数5万100坪、価格32万円と決まりました。
交渉はまとまりましたが、お金の都合が大変であったそうです。
『勝目清回顧録』に、この辺の事情がこと細かく記されていますので、ご覧になってみてください。
金融危機と不景気の最中に行われた金策だけに、土地売買の調印するまでに3年ほどかかったそうです。
また、買収に要したお金は、それまで前例のない公園施設に対する市債が許可されたものでありました。

【 旧海浜院跡地の買収 】
昭和14年、鹿児島市は動物園隣接地、日本赤十字社所有の旧海浜院跡地37500uの払下げ契約を結びました。
上に掲載した地図では、真砂町と書かれたところになります

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「土地払下願」と「契約書」の内容が、『鹿児島市電三十年史』に掲載されています。
それによると、海浜院のあった所は鹿児島市郡元町字境ヶ濱と呼ばれていました。
鹿児島市長から出された払下願、宛名は日本赤十字社長 公爵徳川家達殿となっています。
当時、侯爵・公爵・伯爵・子爵・男爵などの爵位があり、その他多くの国民は平民でありました。

さて鹿児島市では、この土地に児童公園を建設しようと様々な計画を進めていました。
しかし、太平洋戦争が勃発すると軍はこの土地を接収、飛行場建設にとりかかり、待避壕を建設するなど軍事施設化していきました。

終戦後、この土地は鹿児島市に移管されることになりましたが、住宅難を解消するため宅地に転用されることになりました。
その後、郡元保育園や郡元住宅が建てられ、現在のような形になったようです。


次回まで、引き続き鴨池公園についてふれてみます。
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