市街地に目を移すと、鹿児島市役所本館から今の南日本銀行本店の建物が分る。市役所を見る。建物の外壁がすべて煤けたように暗く映っている。天気が悪かったせいだろうかと考えていたら、ある文書の記述を思い出した。『鹿児島市政だより』である。
昭和28年11月3日付。同紙に、「衣がえの市廰舎 暗いベールをぬぐ」の記事がある。
「鹿児島市の市廰舎は現在まで昔の暗い思い出を物語るかのように薄墨色のベエールを覆ったまゝの姿でありましたが、これでは何時までも市民に明るい感じをあたえないというので、このたび、七十万円を投じて汚れを洗い落し面目を一新することになりました」
写真にある煤けた庁舎は、戦時中の名残であったようである。戦争が終わって8年後に、ようやく煤を取り除く工事に着手できようである。終戦後の混沌から、鹿児島市は少しばかり落ち着いたのかもしれない。記事は続ける。
「目下工事中でありますが十一月上旬には竣工する予定であり再び明るいクリーム色のきれいな市廰舎が皆様方の前にお目見えすることになっております」
先の写真と平岡正三郎さん撮影の写真とを見比べてみる。平岡さんも城山から桜島を撮影している。似た構図である。平岡さん撮影の写真はネット上で閲覧できる。著作権を思うと、閲覧し画像をコピーできることが不思議な感じがする。
平岡さんの写真は、昭和20年11月に撮影されたと言われている。コンクリートもしくは石造の建物以外は建っていない。だが、1950年5月に撮影された写真を見ると、鹿児島港に面した区域には建物が密集している。終戦から5年。復興の速度は、想像以上に早かったかもしれない。
感心しているところへ、朝日新聞の「折々のことば」に目がとまった。今月15日付である。
■心の復興
「私に必要なのは、いま目の前でつくられている新しいまちなのか、わからなくなる 復興途中にある東北の被災地で」
記事によると、小森はるか氏と瀬尾夏美氏の映像作品『波のした、土のうえ』から引用したらしい。震災後、家のあった場所に通い、亡き両親の服を広げて並べる。そうして服を畳んでは段ボールに戻す行動を繰返す女性。そこは整地され公共のものになる。
「こんなことをして何になるんだろう」と、女性は呟く。記事はこう結ぶ。
「彼女にとって復興工事の終わりは次の始まりではなく、手がかりの消失以外の何ものでもなかった」
米軍史料や会社史などによると、鹿児島市は空襲を10回以上受けているようだ。空襲で家族を亡くした人たちも、彼女たちと似た心持ちであったかもしれない。戦時中は本音を洩らせない時代でもあった。戦争が終わった際の喪失感は、いかばかりであったろうか。
そこに、食糧危機や伝染病の流行、新円切上げなど、悩ましき問題まで起っている。
戦後の復興といえば、道路や建物などインフラ整備に目が向きがちである。あの時代を生きた先人たちに、文献を掘り起こしたいと考えている。
■参考文献
『にっぽん60年前 カラーでよみがえるスティールコレクション』(毎日新聞社・平成17年)
『鹿児島市政だより』(昭和28年11月3日付)
『折々のことば2053』(2021年1月15日付朝日新聞)
『The Asahi Shinbun GLOBE』(2021年1月3日付朝日新聞)
ラベル:戦後