2021年01月24日

鹿児島市役所本館の外壁

 『にっぽん60年前 カラーでよみがえるスティールコレクション』に、1950年5月に鹿児島市を撮影した写真が掲載されている。カラー写真である。城山から撮影したと思われる写真は、桜島を背景に市街地も見ることが出来る。その日は曇りだったらしい。桜島の山頂は雲をかぶっている。



市街地に目を移すと、鹿児島市役所本館から今の南日本銀行本店の建物が分る。市役所を見る。建物の外壁がすべて煤けたように暗く映っている。天気が悪かったせいだろうかと考えていたら、ある文書の記述を思い出した。『鹿児島市政だより』である。

 昭和28年11月3日付。同紙に、「衣がえの市廰舎 暗いベールをぬぐ」の記事がある。

鹿児島市の市廰舎は現在まで昔の暗い思い出を物語るかのように薄墨色のベエールを覆ったまゝの姿でありましたが、これでは何時までも市民に明るい感じをあたえないというので、このたび、七十万円を投じて汚れを洗い落し面目を一新することになりました

 写真にある煤けた庁舎は、戦時中の名残であったようである。戦争が終わって8年後に、ようやく煤を取り除く工事に着手できようである。終戦後の混沌から、鹿児島市は少しばかり落ち着いたのかもしれない。記事は続ける。

目下工事中でありますが十一月上旬には竣工する予定であり再び明るいクリーム色のきれいな市廰舎が皆様方の前にお目見えすることになっております

 先の写真と平岡正三郎さん撮影の写真とを見比べてみる。平岡さんも城山から桜島を撮影している。似た構図である。平岡さん撮影の写真はネット上で閲覧できる。著作権を思うと、閲覧し画像をコピーできることが不思議な感じがする。

 平岡さんの写真は、昭和20年11月に撮影されたと言われている。コンクリートもしくは石造の建物以外は建っていない。だが、1950年5月に撮影された写真を見ると、鹿児島港に面した区域には建物が密集している。終戦から5年。復興の速度は、想像以上に早かったかもしれない。
感心しているところへ、朝日新聞の「折々のことば」に目がとまった。今月15日付である。

心の復興
 「私に必要なのは、いま目の前でつくられている新しいまちなのか、わからなくなる 復興途中にある東北の被災地で
 記事によると、小森はるか氏と瀬尾夏美氏の映像作品『波のした、土のうえ』から引用したらしい。震災後、家のあった場所に通い、亡き両親の服を広げて並べる。そうして服を畳んでは段ボールに戻す行動を繰返す女性。そこは整地され公共のものになる。
「こんなことをして何になるんだろう」と、女性は呟く。記事はこう結ぶ。

彼女にとって復興工事の終わりは次の始まりではなく、手がかりの消失以外の何ものでもなかった

 米軍史料や会社史などによると、鹿児島市は空襲を10回以上受けているようだ。空襲で家族を亡くした人たちも、彼女たちと似た心持ちであったかもしれない。戦時中は本音を洩らせない時代でもあった。戦争が終わった際の喪失感は、いかばかりであったろうか。
そこに、食糧危機や伝染病の流行、新円切上げなど、悩ましき問題まで起っている。
戦後の復興といえば、道路や建物などインフラ整備に目が向きがちである。あの時代を生きた先人たちに、文献を掘り起こしたいと考えている。

■参考文献
『にっぽん60年前 カラーでよみがえるスティールコレクション』(毎日新聞社・平成17年)
『鹿児島市政だより』(昭和28年11月3日付)
『折々のことば2053』(2021年1月15日付朝日新聞)
『The Asahi Shinbun GLOBE』(2021年1月3日付朝日新聞)
ラベル:戦後
posted by 山川かんきつ at 00:11| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月04日

終戦直後の写真

 筆者のお気に入りの一冊に、『東京の記憶 焦土からの出発』がある。同書は、昭和20年代に撮影された写真と、それにまつわる記事で満載である。写真はどれもこれも貴重なものばかり。戦災跡も生々しい。



 この時代を描いた他の書物に目を通すと、戦争指導者や政治家など偉い人を取り上げていることが多い。
だが、同書の写真は子供たちや女性、青年など庶民の姿を捉えている。終戦直後の様子を窺うため、
同書は、東京新聞で2009年4月から12月まで連載された「焦土からの出発−東京の記憶」をもとにしたと説明にある。新聞に掲載されたことで、思いもよらぬ反応を示した読者の記事となっている。今回は、ひときわ目をひく2枚の写真について記す。

 ひとつ目は、「敗者と勝者が描く強烈な風景」のタイトルと共に、昭和20年9月に撮影された写真が掲載されている。GHQ(連合国軍総司令部)前に、ひときわ豪華な車が止まっている。記事によると、マッカーサー元帥専用のキャデラック。車のすぐ横には、牛を引く青年まで写されている。今の高校生くらいであろうか。地下足袋にゲートルを巻いている。
なんとも、不釣り合いにして対照的な写真である。

 撮影したのは、クリフォード・マッカーシーさん。当時、米軍の写真班員。
「元帥の車と通りがかった牛車の男性、これを何としても一緒に撮りたくて、慌ててカメラを向けた」と、マッカーシーさんは回想している。

 記事は、当時、マッカーサー元帥の護衛に当たった元警察官の証言を得ている。同写真を見ながら、元警察官は記憶を甦らせた。

「(元帥の車)全部に輝く五つ星はシルバーで台は確か赤でしたね。待機中はホロをかぶせ、出発前に取るので元帥が出てくるところでしょう。GHQ前には元帥をひと目見ようと日本人がいつもいましたが追い払うこともなく寛容でしたね。それにしても今では考えられない風景です」

jpegOutput.jpg

 もし、日本の偉いさんの車であったなら、前述の青年は追い立てられていたかもしれない。
国立国会図書館デジタルアーカイブスに、マッカーサー専用車の写真が公開されていた。
写真を見ると、元警察官の記憶どおりであった。

あの牛引き少年は16歳の私
 マッカーサー元帥専用車の横で牛を引く青年から、東京新聞社に連絡があったそうだ。
「あの牛を引く男は若き日の私です」。戦後64年を経て、奇跡のような出来事である。
 連絡した男性は御年81歳。新聞で写真を見た瞬間、自分だと直感すると共に驚いたそうである。記事では「牛を引く農民」とあったらしい。事実は、「牛車を引く運送屋」。
昭和20年9月、トラックは無く、運送は牛か馬であったそうだ。記事を読んでいくと、牛を引いてGHQ前を通ることは、しばしばあったようである。

今にも泣き出しそうな女の子
 母親のそばに立ち、米兵からお菓子をもらう女の子の写真が同書にある。女の子は3歳から5歳位であろうか。表情をみる。怖さとどうしてよいか分からぬ不安で、今にも泣き出しそうだ。ガタガタ震えていたかもしれない。記事からは、女の子に関する情報はない。
筆者の母に見てもらった。母は、昭和20年10月生まれ。戦争の記憶はない。
母が小学生の頃、集落の公民館で映画の上映会があったことを思い出してくれた。厚木基地に輸送機からマッカーサーが降り立つシーンを見た。初めて見る外国人の姿に、怖さを感じたそうである。おそらく、写真の女の子も怖さのほうが強かったかもしれない。

『東京の記憶 焦土からの出発』には、子守をする少女の大きな写真が掲載されている。この少女もまた、自分だとして名乗り出て証言をされている。
その他にも、焼け跡に建築中の家を背景に、4人の女性と1人の青年が笑顔で写されている。昭和20年9月に撮影されたそうである。生活は大変だったろうが、戦争から解放されたことの方が大きかったかもしれない。

 同書に目を通しながら考えた。一枚の写真で反応する人がいる。写真は動画と異なり、動きはない。だが、記憶を鮮明に甦らせてくれる。今では、本人から連絡をもらえるのは難しかろう。各新聞社では、戦時中から終戦直後にかけての写真を保管していると思われる。
有効に活用してもらいたいものである。

参考文献
東京の記憶 焦土からの出発』(田中哲男編・東京新聞社2010年)
『モージャー氏撮影写真資料』(国立国会図書館デジタルコレクション)

ラベル:終戦
posted by 山川かんきつ at 23:43| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月31日

マリンパーク

与次郎ヶ浜のところで記述するつもりだったのですが、すっかり忘れていました。
いま市民文化ホールの裏手辺り、長水路のところに“マリンパーク”と呼ばれる施設がありました。
クリーム色の塔先端に、サッカーボールのような球体が刺さったような形で、塔へ行くには、鉄製の橋を渡った覚えがあります。
また、長水路のなかでは足漕ぎのボートがあったと思います。
小さいころの記憶のため、かなり曖昧で申し訳ありません。

かごしま市民の広場』、昭和47年8月1日号と昭和46年1月1日号にマリンパークの図面や画像などが掲載されています。興味のある方はアクセスしてみて下さい。

かごしま市民の広場より
記事によると、「与次郎ヶ浜は、市民のレクリエーションセンターとしてまた、観光・スポーツセンターとして、埋立後、施設の整備が、着々と進められていますが、その中でもシンボルタワーと海中レストランは、世界でも珍しい施設ということで、市民のみなさんに最も期待されているものです。」

「このシンボルタワーは、埋立地の先端、外部護岸と内部護岸にはさまれた幅50m、延長1600mの長水路中央部に建てられ、タワーの海中部分がレストランになっています。
構造は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、塔の高さは海面の上が47.3m、海面の下が9.7mです。
タワーは大きく分けて4つの部分、すなわち、連絡橋を含む一階部分、展望台、頭部のシンボル球、海中のレストランと回廊に分けられます。」とあります。

確か、塔の部分は濃い白かクリーム色だったような気がします。
建設工事は昭和46年5月から始まり、翌年10月の国体前に終わったようです。
ちなみに、総工費8億5000万円であったそうです。
同紙に、マリンパーク内部に関する記事が次のように記されています。

シンボルタワーと海中レストラン
内部護岸から連絡橋でシンボルタワーへ
「シンボルタワーへは、内側の護岸からタワーにかけられている幅2m、長さ11.4mの連絡橋から渡って入ります。
そこが1階部分で、エレベーターホールや調理室があります。エレベーター(定員15名)はタワーの中心部を上下し、展望台から海中レストランまでを連絡します。」

海上16メートルに展望台と喫茶室
「1階からエレベーターで上ると海面から16.5mのところに面積221.6uの展望台と喫茶室があり、ここからはタワーをはさむ長水路はもちろんのこと、全面には雄大な桜島や錦江湾、うしろには与次郎ヶ浜埋立地の全景が望めます。
一般の人がのぼれるのはここまでで、その上はエレベーターなどの機械室になっています。」

当時の画像をみると、県立陸上競技場と球場、サンロイヤルホテルが建つだけの淋しい風景が広がっていたと思われます。

七色に輝く頭部のシンボル球
「タワーの先端には、アルミ製の32面鏡になった直径6.8mのシンボル球が取り付けられ、晴れた日には太陽光線を受けて七色に輝きます。
また夜間には、外部から照明を当ててその姿を、夜空にくっきりと映し出します。」

筆者がサッカーボールのような球体と思っていたのは、アルミ製の32面鏡だったようです。

泳ぐ魚を見ながら食事が楽しめるレストラン
記事によると、「次にタワーの下の海中1,2階はレストランと回廊があり、一番のみどころ。レストランと回廊の外側の壁には、1階部分に縦1m20p、横90cmの角形の窓、2階部分に直径90cmの円形の窓がそれぞれ36個取り付けられ、レストランからは海の中を泳ぐ魚を見ながらお茶や食事が楽しめます。

この窓はアクリル系のガラス4枚を合わせた薄さ7.6cmの特殊なもので、ガラスのくもりや水圧など、機能と安全を十分に考慮してあります。

一方、海中には水中照明灯が適当な箇所に配置され、夜でも窓から海中の自然が眺められるようになっています。
このほかの施設としては、非常用をかねた幅1.5mのらせん状階段が、海中2階から展望台までつけられているほか、防火・防水ドアや非常口が各所に設けられているなど、防災面の設備も完備しています。」と記述されています。

『かごしま市民の広場』昭和47年8月1日号の冒頭に書かれていますが、マリンパークは観光鹿児島の新名所としての役割を果たすはずでした。
筆者が再びマリンパークを訪れたときは、閉鎖寸前だったようです。
水槽にはクラゲと海藻が漂っているだけでした。
いつの間にか施設は跡形もなく無くなり、その場所も思い出せなくなってしまいました。




posted by 山川かんきつ at 00:21| Comment(1) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする