2014年10月27日

城山の午砲(どん)

ドン広場
城山頂上ちかくの駐車場から展望台の方へ進むと、「ドン広場」が出てきます。
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何かあるだろうと期待を持って行って見ると、遊具が設置されたただの広場。
探勝園から遊歩道を登ってきたこともあって、一気にダレてしまいました。

午砲の痕跡はないかと広場をうろついていると、奥の木立のなかに「明治十年戦役薩軍本営跡」の記念碑を見つけました。
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当時とかなり異なった地形になっているのでしょう。
西郷さんや桐野などの人物たちが、ここで戦況を見、指揮を執っていたのでした。

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ちなみに記念碑は、大正12年3月10日に鹿児島市が建立したものだそうです。

西南戦争以後は市民憩いの場として、春秋のオデバイや運動会などが行われていたそうです。
また、正午の時報を告げる「午砲(どん)」が昭和12年まであったそうです。
据えられた午砲は、ずんぐり型の山砲であったそうです。
正午前になると、市役所の小使いさんが懐中時計を睨みながらマッチで点火。
その瞬間、“ドーン”という轟音とともに、大砲に詰めてあった紙の玉が破裂、新聞紙の紙吹雪が舞うものでした。
午砲は城山の名物となり、広場は「ドン広場」と呼ばれるようになったそうです。

ドンが鳴ると子供たちは、「ドンが鳴った。ピーが鳴った。ヒイ(昼)が鳴った。メス(飯)たぶろ」と歌いながら家に帰るものであったそうです。
「ピー」という音は、市内の工場が午砲を合図に昼食のサイレンを一斉に鳴らしたことを歌っています。
西郷竹彦さんが、当時の様子を『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて 鹿児島』(昭和34年刊)の「城山のドン」に、記述していますので参考にしてみてください。
短くしたものを「さつまの国の言い伝え」に掲載しました。

海軍の山砲を払下げ
鹿児島で最初の時報は、寺院の鐘でありました。
県民交流センター近くに、“ゴマ焼きの鐘つき堂”と呼ばれるお堂が唯一の時報を告げる施設でした。
この鐘つき堂、明治10年の西南戦争で焼失してしまいました。

明治22年、鹿児島市が誕生すると、易居町の不断光院に鐘を貸し出しました。
昼夜を問わず鐘をならしていましたが、聞こえるのはほんの近くだけ。そのうえ、時間の正確さを欠くこともしばしばありました。
明治39年12月22日の市会で、有川議員が古い大砲で正午の合図をすれば、市内のほとんどまで聞こえて便利ではないか」と提案。
この提案は、満場一致で可決されました。

午砲設置に向けて動き始めましたが、肝心の大砲がなかなか見つかりませんでした。
明治42年、海軍佐世保鎮守府に短四インチ山砲を払下げてもらうことになりました。
明治42年9月3日、短四インチ山砲と附属品が船便で鹿児島に到着しました。
明治42年10月25日、市長は午砲の試し撃ちを上之原で行うことになりました。
また、午砲附属の火薬庫一棟の建設も決定し、鹿児島警察署長へ届け出ています。
午砲の試し撃ちは、28日午後2時頃、鹿児島測候所附近で行ったそうです。
試し撃ちでは、午砲に新聞紙を詰めてマッチで点火、とたんに“ドーン”という轟音。
新聞紙が割れて、クスダマのように飛び散る光景で、すっかり人気を呼んだということです。

当時、民有地であった城山山頂一帯を明治45年7月、鹿児島市が買収。
市民の憩いの場として活用することになり、大砲を上之原から移し広場の北端に設置しました。
天気の良い日は、田上附近までドンは聞こえたそうです。
また、昼休みのことを“ドン休み”と呼ぶほど、市民に親しまれていたそうです。
筆者は、ドンのことは知りませんが、「半ドン」という言葉は使っていました。
今と違って、土曜日は午前中授業があり、昼から休みであったことから、「半ドン」と言っていました。

午砲の取替
『鹿児島市史』大正13年刊によると、大正10年12月、城山の午砲は取り替えられたそうです。

「城山頂上における、市の午砲砲身は、最初のものは据え付け以来、多年の星霜を閲みし使用に堪えざるより、佐世保鎮守府へ砲身一個の所管替を出願し、大正10年12月に至り、同所より砲身一個送付し来たりたるが、四斤砲にて従前のものと同一型のものなり。」

昭和時代の午砲
市民生活にすっかり溶け込んでいた午砲(どん)。
昭和12年、新しい鹿児島市庁舎にサイレンが備え付けられたため、午砲は、その役目を終えることになりました。
太平洋戦争が始まると供出され、鉄になってしまったようです。

ドンは大正生まれの鹿児島人にとって、懐かしいものであるそうです。
終戦後、サイレンは直ちに取り除かれたそうです。
ドンに取って変わったサイレンの不気味な音は、不快なものであったのかもしれません。

昭和40年初めごろ、ドン復活の話が持ち上がったそうです。
当時、素朴なものの価値が再評価されている時代でもありました。
ドンを復活すれば、市民の懐かしさを誘うだけでなく、都会から脱出してきた観光客にもサービスになるという考えがあったそうです。
観光関係者のあいだでは、ドンの復活は最高の観光振興になるといって盛んに論議されたそうです。
城山にドンがないことを見ると、その後、論議は下火になったようです。
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2013年09月12日

鹿児島中央駅西口周辺

■ 鹿児島中央駅西口周辺
西鹿児島駅が鹿児島中央駅と名を変えてから、西口周辺の変貌ぶりには驚かされます。
西駅時代の西口は、今とはうって変わって閑散としたところでしたが・・・。
藩政時代から大正時代ごろまで、この辺り一面、田畑が広がっていました。

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大正13年刊行の『鹿児島市史』によると、明治13年加納知事のときに「排水耕地整理事業」という土地改良事業が始まりました。
この事業が始まるまで、現中央駅周辺は、深牟田で稲の植え付けも出来ず、荒れ果てて穀物の育たない土地であったそうです。
事業に当たって、西武田村長が深牟田の所有者を説得して排水工事を行いました。
この工事で、使い物にならなかった深牟田は良田となり、所有者は大喜びであったそうです。

この排水工事は、「日本に於ける元祖」ということで、各地方から設計図案の注文を受けるほどでありました。
明治43年、現中央駅西口近くに鹿児島師範学校ができると、この後すこしずつ都市化が進んでいくことになります。

大正2年10月11日、川内線が鹿児島駅・東市来間が開通したことに伴い、「武駅(武停車場)」が置かれました。
『鹿児島のおいたち』では、武駅の風景を次のように記述しています。「当時の武駅は武町の田圃の真っ只中に建ち、駅前の現広場附近には鮒釣りのできる広い池などがあった」

武町の郷土史にも、「武駅の付近は水たまりが多く、稲も出来ない状態で、あしなどの水草が生えていた。鮒のいる池もあちこちあって、子供等は魚釣りを楽しんでいた」

西薩線敷設と武駅の誕生で、市街地と連絡できる道路開通の必要がでてきました。
そうして有川市長は、武停車場前面の地主と協議し、耕地整理によって道路敷設を行うことになりました。
耕地整理は師範学校を中心に行うこととなり、大正元年11月1日工事着手、大正2年3月に終了しました。

そこで竣工式が執り行われ、当日は県知事、市長、議員や地主など数百名が集まったそうです。
耕地整理組合委員長、児玉七之進という人が式辞を述べています。

「天正時代から三百三十年間は全く田畑として経営した此土地が、聖代の発展により此地が近き将来に於いて、市街地と変遷することは何人も想像しうるものにて、頗る有望の土地となりしは、実に破天荒の変遷である。」

その後、武町には工場がいくつも建ち並ぶようになりました。
それに伴い、宅地化も進んで行きました。
武駅が西鹿児島駅と名を変え、鹿児島の表玄関となっていくのは戦後のことになります。

■ 高見橋
高見橋は西薩線鉄道の着手と共に、鹿児島市の表玄関となるべき武停車場と市街地とを連絡するため、重要な交通線路として架設されました。

大正5年5月3日工事着手、同年11月23日に竣工。
長さ28間、幅3間半、橋脚5本立ての木橋でありました。
高見橋のすぐ近くには、市電の専用陸橋が架けられ、天文館方面と西鹿児島駅を連絡していました。
木製の高見橋がコンクリート製になったのは、昭和9年のことです。

高見橋脇にたたずむ女性像
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大久保利通像の反対側に、一体の女性像が立っています。
筆者はてっきり、大久保の奥さんの像とばかり思っていましたが、まったくの勘違いでした。
この像には、「母と子供の群像」という名が付けられていました。

説明板によると女性は母親で、「強さと厳しさを秘めながら優しく、子供たちを見守る母の姿」を表現しているのだそうです。彼女の視線の先には、子供たちがありました。

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母親像の視線の先、欄干に多数の子供たちのブロンズ像がありました。
子供の群像で、「子供たちが健やかでたくましく育つ姿」を表現しているそうです。











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2013年09月10日

武町の辺り 鹿児島市

■ 武村(田毛村)の領域
鹿児島中央駅西口の周辺、武町を歩いてみました。
武町、藩政時代は武村、もっと古くは田毛村と呼ばれていました。
『倭文麻環(しずのおだまき)』では、荒田村の田毛川河口に海の怪物が現れたとする記事が、挿絵つきで紹介されています。
田毛川は、甲突川のことを指すようです。

『三国名勝図会』などによると、藩政時代の武村の領域は相当広かったようです。
@建部神社、もとは武村のうち高麗町へ永正十七年(1520)に遷されたとあります。高麗町と上之園町も武村であったようです。

A武之橋は、武村にあったため武之橋の名がつけられたようです。
B今の甲南中の辺りや天保山町の北半分は、明治44年鹿児島市に合併されるまで西武田村の飛び地でありました。
C現在下荒田一丁目に、正建寺跡の石碑があります。三国名勝図会によると、「正健寺は武村の古い松林にあり」と記述しています。
D新屋敷町の船魂神社も、「船魂廟・武村船手にあり」とあります。
E南林寺の海近くにあった大門口弁財天廟も、「武村の海辺にある」あります。
F南林寺は、坂本村と武村の界に属する

こうしてみると、藩政時代の武村の領域は、相当広かったようです。坂本村もまた、同じであったようです。


■ 武町周辺
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上に示した地図は、明治30年ごろの武町周辺のものです。
地図左下あたりに、細い道と小さな四角が描かれています。
当時は建部神社下辺りから、田上方面に向かい道に沿って人家が並んでいたようです。

現鹿児島中央駅とその周辺は、住宅が密集していますが、当時は西田町まで見渡す限りの田地でありました。
『鹿児島のおいたち』にも、「当時はただ広い田地で」と記述しています。
その田地を潤していたのが、伊敷の堰から流れてきた石井手用水でした。
『鹿児島県地誌』によると、石井手用水を新田溝とし、次のように記述しています。
「上伊敷村字石井手より甲突川を引き、小野村永吉村西田村を経て、本村に至り、又荒田村に漑き、甲突川の下流に合す」

武村を通る道は、伊集院別往還と呼ばれていました。
西田村の境から武村の中央を過ぎ、南に向かって田上村の境に至る、長さ凡そ九町弐拾壱間、幅弐間でした。
この道は、伊集院駅と谷山駅に通じていました。
駅と言っても、ウマヤあるいは宿場のことで、人馬や舟などの発着地または中継地を指していました。

■ 明治頃、武村の人口
男618人(士族148人・平民236人)
女664人(士族165人・平民499人)
総計1282人でありました。
他に他出寄留67人と武村に寄留している者が14人あったようです。

平民の生業として、その殆どが農業を営んでいたようです。
なかには、牛馬の売買を生業とする者が5戸、商業を営む者が12戸あったそうです。

見渡す限りの武村の田地に、明治43年(1910)男子師範学校が建てられました。
この学校、元は名山小学校にあった師範学校のうち、男子部を武に移転したものでした。
名山小学校正門脇の石碑に、師範学校跡の名が書かれていたかと思います。







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