城山頂上ちかくの駐車場から展望台の方へ進むと、「ドン広場」が出てきます。

何かあるだろうと期待を持って行って見ると、遊具が設置されたただの広場。
探勝園から遊歩道を登ってきたこともあって、一気にダレてしまいました。
午砲の痕跡はないかと広場をうろついていると、奥の木立のなかに「明治十年戦役薩軍本営跡」の記念碑を見つけました。

当時とかなり異なった地形になっているのでしょう。
西郷さんや桐野などの人物たちが、ここで戦況を見、指揮を執っていたのでした。

ちなみに記念碑は、大正12年3月10日に鹿児島市が建立したものだそうです。
西南戦争以後は市民憩いの場として、春秋のオデバイや運動会などが行われていたそうです。
また、正午の時報を告げる「午砲(どん)」が昭和12年まであったそうです。
据えられた午砲は、ずんぐり型の山砲であったそうです。
正午前になると、市役所の小使いさんが懐中時計を睨みながらマッチで点火。
その瞬間、“ドーン”という轟音とともに、大砲に詰めてあった紙の玉が破裂、新聞紙の紙吹雪が舞うものでした。
午砲は城山の名物となり、広場は「ドン広場」と呼ばれるようになったそうです。
ドンが鳴ると子供たちは、「ドンが鳴った。ピーが鳴った。ヒイ(昼)が鳴った。メス(飯)たぶろ」と歌いながら家に帰るものであったそうです。
「ピー」という音は、市内の工場が午砲を合図に昼食のサイレンを一斉に鳴らしたことを歌っています。
西郷竹彦さんが、当時の様子を『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて 鹿児島』(昭和34年刊)の「城山のドン」に、記述していますので参考にしてみてください。
短くしたものを「さつまの国の言い伝え」に掲載しました。
■ 海軍の山砲を払下げ
鹿児島で最初の時報は、寺院の鐘でありました。
県民交流センター近くに、“ゴマ焼きの鐘つき堂”と呼ばれるお堂が唯一の時報を告げる施設でした。
この鐘つき堂、明治10年の西南戦争で焼失してしまいました。
明治22年、鹿児島市が誕生すると、易居町の不断光院に鐘を貸し出しました。
昼夜を問わず鐘をならしていましたが、聞こえるのはほんの近くだけ。そのうえ、時間の正確さを欠くこともしばしばありました。
明治39年12月22日の市会で、有川議員が古い大砲で正午の合図をすれば、市内のほとんどまで聞こえて便利ではないか」と提案。
この提案は、満場一致で可決されました。
午砲設置に向けて動き始めましたが、肝心の大砲がなかなか見つかりませんでした。
明治42年、海軍佐世保鎮守府に短四インチ山砲を払下げてもらうことになりました。
明治42年9月3日、短四インチ山砲と附属品が船便で鹿児島に到着しました。
明治42年10月25日、市長は午砲の試し撃ちを上之原で行うことになりました。
また、午砲附属の火薬庫一棟の建設も決定し、鹿児島警察署長へ届け出ています。
午砲の試し撃ちは、28日午後2時頃、鹿児島測候所附近で行ったそうです。
試し撃ちでは、午砲に新聞紙を詰めてマッチで点火、とたんに“ドーン”という轟音。
新聞紙が割れて、クスダマのように飛び散る光景で、すっかり人気を呼んだということです。
当時、民有地であった城山山頂一帯を明治45年7月、鹿児島市が買収。
市民の憩いの場として活用することになり、大砲を上之原から移し広場の北端に設置しました。
天気の良い日は、田上附近までドンは聞こえたそうです。
また、昼休みのことを“ドン休み”と呼ぶほど、市民に親しまれていたそうです。
筆者は、ドンのことは知りませんが、「半ドン」という言葉は使っていました。
今と違って、土曜日は午前中授業があり、昼から休みであったことから、「半ドン」と言っていました。
■ 午砲の取替
『鹿児島市史』大正13年刊によると、大正10年12月、城山の午砲は取り替えられたそうです。
「城山頂上における、市の午砲砲身は、最初のものは据え付け以来、多年の星霜を閲みし使用に堪えざるより、佐世保鎮守府へ砲身一個の所管替を出願し、大正10年12月に至り、同所より砲身一個送付し来たりたるが、四斤砲にて従前のものと同一型のものなり。」
■ 昭和時代の午砲
市民生活にすっかり溶け込んでいた午砲(どん)。
昭和12年、新しい鹿児島市庁舎にサイレンが備え付けられたため、午砲は、その役目を終えることになりました。
太平洋戦争が始まると供出され、鉄になってしまったようです。
ドンは大正生まれの鹿児島人にとって、懐かしいものであるそうです。
終戦後、サイレンは直ちに取り除かれたそうです。
ドンに取って変わったサイレンの不気味な音は、不快なものであったのかもしれません。
昭和40年初めごろ、ドン復活の話が持ち上がったそうです。
当時、素朴なものの価値が再評価されている時代でもありました。
ドンを復活すれば、市民の懐かしさを誘うだけでなく、都会から脱出してきた観光客にもサービスになるという考えがあったそうです。
観光関係者のあいだでは、ドンの復活は最高の観光振興になるといって盛んに論議されたそうです。
城山にドンがないことを見ると、その後、論議は下火になったようです。
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「城山のドン 鴨池のピー」
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