2013年09月09日

岩永三五郎と小野の石工たち

薩摩藩、天保改革の実行責任者であった海老原清熙が、明治17年に改革の回想を記録した書物が県立図書館にあります。
『薩藩天保度以後財政改革顛末書』と言いますが、これに岩永三五郎に関する記述が見られます。

「石工岩永三五郎も肥後より雇い入れたる。専ら僕が手に付、上町に宿し大工頭阿蘇弥次右衛門を接伴として、朝夕指揮せしことなり」

天保改革の際、あちこちの技術者を薩摩に呼んでいました。
はじめ、岩永三五郎は、あちらこちらから呼ばれた技術者たちのひとりであったようです。
「大工頭」は、薩摩藩内の大工たち全部を統括する棟梁の頂点に立つ人であるようで、かなり偉い地位にあった人のようです。

岩永三五郎の上司は海老原清熙、同僚として大工頭の阿蘇弥次右衛門(阿蘇鉄矢)が付けられていました。
このことは、岩永三五郎に対する格別の待遇であったと思われます。
三五郎が残した業績は、単なる石橋築造だけでなく、産業基盤としての港湾施設や新田開発など数多くあります。

三五郎が薩摩にやってきたのは、天保11年(1840)、47歳のときの事でした。
この後、10年の間に藩内36ヶ所の石橋築造に関わったようで、年間3.6ヶ所にものぼります。
石橋だけでなく、三五郎波や指宿二反田川河口港湾工事などにも三五郎の手によるものです。
当時、三五郎が上町に住んでいたのは、行屋橋をはじめ永安橋など稲荷川河口で架橋工事をしていたためでした。

『近代化と鹿児島の建造物』によると、当時の藩首脳部には都市施設を恒久的なものに切り換えていこうという考えがあったようです。
その試みとして、岩永三五郎の起用に繋がっているようです。

「この時代に社会資本整備という考え方があったかどうかわからないが、少なくともその約90年前に、木曽川の治水工事で、薩摩藩は社会資本の重要性を痛感しているはずである。しかも、架橋工事の総指揮には、かつて仮想敵国とも目された隣藩、肥後の三五郎を当て、これを推進したのが、藩政立て直しで苦労した調所笑左衛門とくれば、天保に始まるこの都市整備には、まぎれもない薩摩藩の先進性をみることができる」(『近代化と鹿児島の建造物』より)

■ 三五郎が来鹿する前の薩摩の技術
岩永三五郎の業績があまりに大きすぎたため、薩摩の石工たちの実力が霞んでしまうように思えます。
しかし、薩摩にも結構古い石橋があったようです。
平成五年の八・六水害で流されてしまった、吉野実方橋や坊津中坊橋。
旧末吉町の太鼓橋(1760年造)や旧国分市拍子橋などになるようです。
旧末吉町と旧国分市のものは、現存していないそうです。

少なくとも当時、かなり高度な石橋築造の技術を薩摩藩は有していたと思われ、肥後の技術とは別に、薩摩には優れた技術があったようです。
江戸時代の石造水道管や高枡などをみると、加工技術・工事ともに驚かざるを得ません。

三五郎が鹿児島で行おうとした技術の意をくみ、現場責任者としての力量ある技術者が薩摩にもいたということはとても重要なことと思われます。

■ 三五郎と薩摩の石工たち
三五郎と共に石橋築造に携わった薩摩の石工に、師匠格のような人たちがいました。
山田龍助、川崎九兵衛、原田孫之進、田中源次郎の4人は、三五郎の弟子でありパートナーでもあったようです。
これらの人々は、三五郎の意を汲み、相当な力量があったようです。

1849年に三五郎は、お由羅騒動の影響で肥後へ帰っていきます。
が、三五郎の技術や考えは、天保の改革に携わった者や小野の石工第二世代によって担われていきました。
福山権太郎は焼石工法で知られた人で、川内川の開削に携わったそうです。
また、今村五郎は玉里邸の石塀を造りました。
当時、小野の石工たちの間では、岩永三五郎を偲んで、男の子に三五郎という名前を付ける事が流行ったそうです。

三五郎の技術は、二代目から三代目へと受け継がれていきます。
小牧小三、幸加木今助、西三五郎という人たちが、名を馳せたそうです。
彼らの作品は今でも見ることができ、県立博物館の考古館(明治16年)がそうです。

kagosimasiseki2 001.jpg

小野の石工たちの技術は、その後も受け継がれ大正初期まで、多くの石造建造物が造られていきます。
鹿児島刑務所、鶴尾橋、鹿児島本港区の倉庫群、ザビエル教会などです。
明治中頃に200名ほどであった石工は、大正なると1000名ほどになっていたそうです。

岩永三五郎は、単なる石工というだけでなく、土木における総合技術者でありました。
三五郎の技術は、その後の鹿児島の石造構造物に大きな影響を与え続けて行ったと思われます。

posted by ぶらかご.com at 00:08| Comment(0) | 鹿児島近在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月04日

旧河頭太鼓橋

石井手用水取水口跡から甲突川を上流に行くと、河頭中学校が出てきます。
現在、河頭大橋という立派な橋が架かっています。
1998年1月まで、河頭大橋のほんの近くに石造の太鼓橋が架かっていました。
河頭太鼓橋と呼ばれていました。
河頭太鼓橋が造られたのは1848年のことで、岩永三五郎が手がけた最後の橋のようです。

河頭太鼓橋については、ネット上でも様々な論文を閲覧できますのでご覧になってみてください。
この河頭太鼓橋が、江戸時代に造られた石橋というだけでなく、総合された土木技術が凝縮されているようです。

■ 甲突川六石橋
原口泉先生の『河頭太鼓橋の歴史的意義と岩永三五郎』によると、『明治以前日本土木史』(昭和11年刊)に「甲突川に架せる六大石橋」と記述されているそうです。
「甲突川五石橋」という呼び方の方が、聞きなれているためか奇異に感じます。

ちなみに五石橋は、西田橋、新上橋、武之橋、高麗橋、玉江橋になります。
”六大石橋”という言い方が、土木学会が編纂した本に使われているということは、河頭太鼓橋の土木遺産としての価値が認められていたという事になるようです。

■ 六石橋と街道の関係
『鹿児島県地誌』に、太鼓橋のことが記述されています。
そこには、犬迫村と小山田村を結ぶ橋と記述されています。
犬迫〜小山田村の道は、「肥後別路(郡山街道)」ということになります。

肥後別路とは、九州街道(出水街道)の別路という意味になります。
このルートは、河頭太鼓橋を渡って小山田に抜け、入来峠を越えて宮之城・大口・肥後に出るものでした。
きわめて重要なルートのひとつであったようです。

1.武之橋
谷山街道、指宿・山川につながる道。

2.高麗橋
田上方面へ抜け、松元・伊集院へつながる道。

3.西田橋
九州街道(出水街道・薩摩街道)の起点。

4.新上橋
原良に抜ける道というよりも、洪水をせき止めるという意味合いが強い橋であったようです。
肥後別路の道筋にもなっていたようです。
この橋を渡って、原良・鷹師の方に出て甲突川右岸を通って、河頭太鼓橋をわたり小山田へ抜ける道。

5.玉江橋
玉里御殿に繋がる道。石橋が架かるまで、ここに橋は架けられていませんでした。

6.河頭太鼓橋
肥後別路という薩摩と肥後を結ぶ、重要な街道に架けられた橋。
この橋は、藩主や琉球使節が花尾神社に詣でるときにも使われたと思われます。


■ 天保改革時の土木事業の一環
島津重豪在位のとき、薩摩藩は五百万両(藩収入の30年〜40年分)という途方もない借金を抱えていました。
家老に調所笑左衛門に、財政再建に当たらせました。
奇跡的にも調所の財政改革は成功するのですが、その裏には綿密な計算と準備がありました。

当時、天下の台所と呼ばれ経済の中心であった大坂の経済事情調査と、佐藤信淵(さとうのぶひろ)という経済学者の助言がありました。
佐藤は出羽国出身の経済学者で、調所に財政改革の指針を示した人でありました。

調所は藩の収入を増やすため、様々な政策をくり出しました。
@ 国産品(特産物)の改良増産と黒糖専売制の実施
A 支出節減の努力
B 諸蔵管理の改善
C 諸役・役場の整備
D 運送船の建造
E 諸営繕・土木工事の実施など

生産性を上げるため、藩内の道路・橋・河川・新田開発などの土木工事を積極的に進めました。
河頭太鼓橋や五石橋の架橋は、このような時期に行われたものです。
この土木工事、そこには治水工事という一貫した考えがあったようです。

そこで腕をふるうのが、肥後の石工岩永三五郎と小野の石工たちです。








posted by ぶらかご.com at 23:53| Comment(0) | 鹿児島近在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

郡元町の由来

郡元町の一之神社鳥居のそばに、古そうな公民館が建っています。
案内板に、ここはかつて「中郡宇村(なかこおりうむら)」の役場がありました。
明治22年に市町村制施行によって、中村・郡元村・宇宿村が合併してできた村です。
村の名前は、三つの村の文字をひとつずつ取って付けられたようです。
中郡宇村は昭和9年8月1日、鹿児島市に合併されました。

■ 郡元
郡元の地名が記録に現れるのは、「後村上天皇の正平九年五月二十五日、島津貞久鹿児島郡司職中村郡本村、田上村および和泉新荘(いずみしんそう)の名主となる」という記事が最初のようです。
郡元の「元」という字は、「本」で書かれています。

「名主」は、むかし税収の役に当たった役人のこと。

中村(鴨池)、郡本というような郡名は、島津氏が入ってくる前からあったようです。
また、『中郡宇村史』によれば、鹿児島郡・谷山郡のちょうど真ん中に当たるために「郡本」と名付けられたとも言われていたようです。
郡元とは、国郡時代における「郡」の中心でもあったと考えられています。
おそらく、郡名と同時に村の名前もできたと思われます。

中郡宇村を流れている「新川」は、かつて「田上川」または「境川」と呼ばれていました。
田上川から鹿大農学部の傍を通り、騎射場のあたりから鹿大水産学部附近で錦江湾に注いでいたそうです。
文化3年2月、島津斉興公の時代に田上川の流れを変えて、現在のようになったもののようです。
この工事以降、付替えた地点から上を「田上川」、下を「新川」と呼ぶようになりました。

『鹿児島市史T』によると、郡元町の辺りは鹿児島で最も古い平野であり、居住の中心でもあったそうです。
上荒田・下荒田・鴨池周辺の土地は、田上川が長い年月をかけて運んできた土砂によってつくられました。
同書には、「田上川の扇状地性三角州である」と書かれています。

「もともと鹿児島の発展が、守護町として北部の上町からはじまり、次第に南に移ったため、新しい時代においては、甲突川以南は町ではなく、農村のままにとどまり未開発であった。
甲突川以南地区を遅れて陸地化した低湿地の如く想像するが、これは誤りであろう。むしろ、この地区こそ、鹿児島での最も古い平野であり、居住の中心であった。」(鹿児島市史T)

nakamura1.jpg

この地図は明治頃のもので、現在の鹿大や中村公園周辺のものです。
当時は、現在の高麗本通に沿って住居が点在しているだけで、周りは広い田畑であったようです。


一之宮神社境内の弥生住居跡や鹿大構内の水田跡などを考えれば、この辺りは古くから人が住み生産活動を行っていたと思われます。
郡元周辺は鹿児島でも古い開発地区であり、中心でもあったようです。


■ 中村
中村は、荒田村と郡元村の中間にあった集落でありました。
中村公園の辺りは周囲より高くなっているそうです。
というのも、かつて田上川が運んできた土砂を海水が押し返したため、少しずつ積み重なったことで小高くなったそうです。

戦災復興事業で大学通りを新設する際、中村周辺の高台を削って道路予定地に埋めたそうです。
またその時の土砂は、建設機械が不足していたのでしょう、トロッコで運んだそうです。

古い地図でこの辺りを眺めてみると、現在の高麗本通沿いに住居が点在しているだけで、周りは一面の水田か田畑であったようです。
この辺りが宅地化していくのは、昭和に入ってからと思われ、昭和31年頃の住宅地図をみると、個人住宅が密集しています。








posted by ぶらかご.com at 19:21| Comment(0) | 鹿児島近在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。