2013年08月30日

武・田上町の由来

田上町は明治22年4月1日、西別府・武・田上の頭文字を取って、「西武田村」として成立しました。
明治44年になると、西武田村に属していた40の字が武町として鹿児島市に編入されました。
この合併では、大変な反対運動があったようで、『鹿児島のおいたち』に次のように記されています。

「従来でも財政的に困窮していた西武田村にとって、良い田どころの武町を分離して鹿児島市へ編入させることはつらく、人をつかわして熊本県における市郡の関係を調べたり、内務大臣に請願して防止につとめたりしたほど、村民の反対の声は大きかった・・・」

昭和9年8月1日には、西武田村は鹿児島市に合併することになります。

■ 武の地名
むかし、この辺りは稲田が多く「田毛」と記述されていましたが、いつしか「武」と書かれるようになりました。
『鹿児島県地誌』にも、武村のことを田毛村と記述してあります。

また、『倭文麻環』「荒田の浜の怪物」のくだりでは、次のように記しています。

「文化十年六月九日の昼の八つ時、鹿児島荒田村の田毛川の河口に出現したものです。この怪物、頭の大きさは大犬よりも太く、目の回りは六、七寸あり、眼光するどく・・・」

『倭文麻環の世界』の著者、伊牟田先生によると、”「田毛川」は甲突川のことか”と記しています。
また、「田毛」は「武」と書くのが、一般的とも注意書きに記しています。
『鹿児島地名考』によると、アイヌ語で「タ」は水を汲むこと、「ケ」は所(場所)を意味するそうです。
鹿児島市一帯が、その昔ドロ池や砂浜であった頃、武岡のふもとで水を汲んでいたことを表わしているのだそうです。

■ 田上町の地名
もともと田上町の辺りは、稲田が多いところでありました。
かつては、「武」を「田下」または「田毛」とも記述されていました。
地形的に、武辺りの”稲田の上”に位置していたことから、「田上」の名前が生まれたという説があります。

また、武はもと田上に対して「田下」とも呼ばれていました。
「田下」は鹿児島城に近接している上に、水田など殊に広いのに、その名称はまずいということで「武」と改称されたと伝えられいるようです。

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上の地図は、明治30年ごろの田上・武辺りのものになります。
図の中央辺りに、建部神社が描かれていますので、現在の武岡トンネルになるようです。
神社から右の方に細い道が描かれています。現在の中洲陸橋から中州通りになると思われます。

地図をみると、建部神社周辺は広い田畑であったようです。
その田畑を潤していたのは、伊敷村から小野・原良を経て流れる石井手用水(または新田溝)でありました。
石井手用水は、建部神社の辺りから現在の武小学校の方へ大きく蛇行して、荒田村の田畑を潤していたそうです。







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2013年08月28日

伊敷町地名の由来について

前回、伊敷町の地名由来についてハッキリしていないと書きました。
ここでは、伊敷町の地名由来について、よく言われていることを記述してみました。

■ 伊敷地名由来 その1
『鹿児島県史』によると、伊敷という地名は三代実録の貞観1年3月の条に書かれている「伊爾色神」から来ているそうです。
「正六位上伊爾色(いにしき)神を従五位下に昇し給う」


■ 伊敷地名由来 その2
『伊敷村誌』では、地名由来について次のように記述しています。

「大昔垂仁天皇は、諸国に池溝を掘らせて、農事に御心をお尽くしになったことは、人のよく知るところである。この垂仁天皇の第二皇子、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)も諸国を巡遊されて池・溝・堤など築かれた。わが伊敷村へもご巡幸になったという。そこでこの命のご恩徳に感激して、命を神として祀った。現在、伊邇色神社(いにしきじんじゃ)というのは、それである。この印色入日子命にちなんで、伊敷の名称はおこったものと思われる」

同様の記述は、鹿児島県神道青年会発行の『ふるさとのお社 鹿児島県神社誌』にも掲載されています。


■ 伊敷地名由来 その3
『肝付家譜』によると、中古、肝付家の先祖、伴兼行が始めて薩摩の神食村(かみじきむら)に下向して、
「四十町築き、屋形を立つ」と記述しています。
むかし、伊敷の辺りを「神食村」と言ったこともあるようです。


伊敷の地名由来譚として、三つの説のを記述してみました。
地名由来は、このうちのひとつかもしれませんし、他にもあるかもしれません。
ただ伊敷の辺りは、早くから人々が住み農耕を始めていたことは確かなのかもしれません。

■ 藩政時代以後の伊敷周辺
藩政時代の伊敷周辺は、島津氏に直属してました。
また、鹿児島近在20ヶ村の一部で、永吉村・小野村・上伊敷村・下伊敷村・犬迫村・小山田村・比志島村・皆房村などと称していました。
各村には庄屋が置かれ、その下に名主があって村の管理に当たっていました。

明治4年の廃藩置県で、郡区町村に区分され比志島村と小山田村は鹿児島郡に属しました。
明治7年には各村に戸長役場が置かれました。
明治22年になると町村制が布かれ、上伊敷村ほか七ヶ村が合併して「伊敷村」となりました。
合併した村名は、大字となりました。

昭和25年になると、伊敷村は鹿児島市に合併され「上伊敷・下伊敷・小野・犬迫・小山田・皆与志」の各町に区分されました。

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2013年08月26日

石井手用水取水口跡

梅ヶ渕観音を後にして、北上し飯山橋を渡らず道なりに進むと、右側の土手に碑が立っています。

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碑には、「石井手用水取水跡地」と書かれています。
案内板によると、かつてここには甲突川から水を取り入れるための堰がありました。
堰の長さ145尺(約44m)、高さ6尺(約1.8m)ほどで切石を築いて、横に渠を開いてありました。
そうして流れを分けて、西南の山下に溝を掘り、水が勢いよく流れるように造ってありました。
堰は、平成5年8月6日の水害で流失してしまいました。

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この堰を出発した石井手用水は、肥田・名突・田中宇都・小野・中福良・中迫と太鼓橋のトンネルをくぐり抜けながら流れ、武・荒田までの6.7kmにも達していました。

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この用水は文化3(1806)または文化7年着工、同9年に完成されました。
文化3年は田上川下流を新川として、付け替え工事を行った年でもありました。
文化年間(1804〜1818)の薩摩では、藩の財政を潤すため新田開発を積極的に行っていました。
石井手用水は旱魃対策と新田開発を行い、増収をはかったものでありました。
伊敷から永吉・原良・西田・荒田方面にわたる、広大な田畑が開発されました。

石井手用水が完成してから三十数年後の天保末に書かれた『三国名勝図会』に、「伊敷の堰」という項目があります。
それによると、この堰ができて下流の村々の灌漑に役立ち、水不足に悩まされることが無くなったと記されています。

この用水の水は、藩経営であった田中宇都の精米用水車館や永吉の紡績館もこれを利用していました。
用水が不足するときは、止めるという証文を藩と農民は取り交わしていたそうです。

時代はグッと下って昭和9年(1934)のこと。
この年は、県下にわたって旱魃でありました。
原良の田んぼは、用水が枯れて水不足となり、枯死寸前で水争いさえ起こるほどでありました。
農民代表が再三、県当局と交渉しましたがなかなか聞き入れてくれませんでした。
農民代表が、水車利用の証文写しを持って交渉したところ、すぐに水車を止めることができたそうです。

この用水は水軸を止めて小野の水門を立て、水が乗るまで12時間もかかりました。
そこから田んぼの末端までは、さらに12時間もかかったため、まさに一刻を争う事態でありました。
夜明け近くになって、ようやく水が勢いよく流れてきたそうです。
この年、県下は旱魃で不作でありましたが、原良の田んぼは豊作であったそうです。



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