昭和43(1968)年に、鹿児島県明治百周年記念式典が行われたそうだ。
想像するに、大きなイベントだったのではないか。地元メディアは、維新の大業として連日にわたって報道したと思われる。
そのような中で、明治維新を冷静に見ていた人物が2人いた。『明治百年と鹿児島』と題する一冊に掲載されている。
ひとりは、篠崎五三六さん。当時、鹿児島女子短期大学で教鞭をとられていた方である。略歴を見ると、旧制中学校長を歴任するなど長く教育に携わっている。
■戦前戦後の断層 篠崎五三六
政府は、国としての明治百年記念行事を、「過去百年の事績を回顧し、次の百年への希望をこめて国民の決意を新たにする機会とする」という立場で企画実施するという。そして「封建時代から脱却し、近代国家建設という目標にむかってまい進した、世界史にも類例をみぬ飛躍と高揚の時代であった。この百年における先人の勇気と聡明と努力」を、従って、これら先人に対する「敬意と称賛の念」を強調する。
このことは「維新の主役たち」を先輩としてもち、「その原動力は、当時の鹿児島の人々の先見的知識と、生生躍動する地域社会の総合的エネルギーであった」とするわが鹿児島のようなところでは、まことにわが意を得たものといえよう。
明治維新に対する解釈は、現代も変わらない。篠崎の指摘どおりである。同氏は戦後20数年を経た社会に対して、疑念を抱く。
主権在民の憲法をもち、人間性の尊厳と個人の自由とを基調とする、基本的人権が認められたのは、それから八十年も後のことである。それも、われわれ自身の努力ではなく、敗戦という全く予想もしなかった外部からの力に支えられて、そしてようやく二十年、古いものはまだ力強くその根を残し、新しい生命はまだろくに根を張ってもいない。
これが明治百年の現状ではなかろうか。
このような現状の中で、その古き時代の、時には封建の世界の中で生まれ育った、伝統や精神や行事などの幾つかが強調されようとしている。
そうして、篠崎氏は維新礼賛の風潮に対して釘をさす。
過去においてすぐれていた、意義があったという評価だけから、これを安易に現代に再現することは、慎むべきである。
明治百年は、戦前戦後の断層の認識と、その評価から始めるべきだと考える。
もうひとり、維新礼賛に批判的な論考をつづった人物がいる。作家の島尾敏雄である。
■琉球弧を目の中に 島尾敏雄
私は歴史を流動するすがたでとらえたいと考えています。仮にある期間を区切るとしても、それはひとつの便宜的な手段としえのことだと考えたい。
明治百年を言うにしても、明治の初年が基点であるのではなく、その時期は流動する日本の歴史の川の流れの中で、顕著なひとつの曲がりかどになったところだと理解したいのです。
島尾はつづける。
明治初年の鹿児島県の栄光を菊人形のように固定させたくはありません。そこのところにばかり気を奪われると、歴史は死んでしまうでしょう。目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまうような気がします。
筆者は昭和43年の祭典を知らない。明治150周年記念事業は目にした。メディアが明治維新をどのように報ずるか注視していた。
明治維新を絶対化するばかり。別な視点で相対化する姿勢は見られなかった。
島尾氏の指摘どおり、「目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまう」だったと思う。
篠崎氏と島尾氏の冷静な論考は、維新礼賛に沸く人々の心に届かなかったかもしれない。
イベントに水をさす位の評価だったと思われる。その後も、2人の論考が顧みられた様子はない。
鹿児島の場合、歴史的評価が一つだけという風潮は、これからも変わらないかもしれない。
■参考資料
『明治百年と鹿児島』(南日本新聞社・昭和42年)
2025年02月13日
2024年08月29日
城山のドン 鴨池のピー
鹿児島市の観光スポットのひとつに、城山公園がある。かつて、そこに正午の時刻を知らせる大砲があったそうだ。
西郷竹彦さんの随筆「城山のドン おさない日の歌」で、大砲について面白い話を著している。
西郷さんは、1920(大正9)年生まれ。
この随筆は、大正から昭和初め頃の鹿児島市の様子を描いているようだ。
城山にあった午砲について、西郷さんは記す。
そのころ、といっても、わたしの小さいころのことですが、城山のてっぺんに、一門の大砲(おおづつ)がすえてありました。
いつの時代に造られたものかは知りませんが、古めかしい青銅の、先ごめの大砲でした。それこそ雨の日も、風の日も、正午になると、その砲台から、ドーンと空砲をうちならして刻(とき)を知らせました。
城山のドンがなると、それにこたえるように、鴨池の浜の紡績工場の汽笛が、ピーとなりわたるのでした。
随筆は、ドンが鳴ったときの子どもたちの様子を記す。
そうなると、もう、あそびどころではありません。
ドンがなった、ピーがなった、飯(まま)たもれ・・・
と歌いながら、わが家の台所へかけてかえっていくのです。
随筆に記された「鴨池の浜の紡績工場」は、現在の真砂本町にあった。
大正6年に、鹿児島紡織鰍フ工場として設立。大正13年に大日本紡績鰍ニ合併し、同鹿児島工場となった。
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 鹿児島』に、同工場の写真と大正10年に撮影された鹿児島市全景写真が掲載されている。写真を見ながら、この随筆を読むとイメージしやすいかもしれない。
西郷さんの随筆は、紡績工場についてこう記す。
わたしが、ものごころつくようになって知った紡績は、もう、昔のように、若い娘たちのあこがれの職場ではありませんでした。まずしい農家の娘たちが、家のくらしをたすけるために、まるで身売りでもするようにして紡績へやってきました。
白いエプロンをかけ、赤いモスリンの帯だけがはなやかな紡績の娘たちが、おべんとうのつつみを胸にかかえて、工場へ通う姿をよく見かけたものでした。
胸をわずらって、はかなくこの世をさっていった娘たちの話を耳にしているわたしは、子どもごころにも、赤いモスリンの帯をしめた娘さんたちの姿が、あわれに、それでいながら美しいものに見えたものでした。
工場の近くに、サナトリウムの病院「海浜院」があった。現代のように、保険証を出せば医療を受けられるという時代でなかっただろう。庶民にとって、高嶺の花だったかもしれない。
西郷さんの随筆はつづける。
城山の午砲(ドン)にしても、鴨池の紡績の汽笛にしても、それは、新しい文化、新しい時代のおとずれをつげるものであったのです。
大空になりひびく午砲と汽笛の音が、聞こえるかぎりの町々の子どもたちは、「ドンがなった、ピーがなった」と歌いながら大きくなったのです。
しかし、いまはどんな山の中の一軒家でも、ラジオの時報が正確に正午を知らせてくれる時代です。城山のドンももう聞かれなくなったことでしょう。
随筆「城山のドン おさない日の歌」は、『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて鹿児島』に収められている。昭和34(1959)年刊行されている。城山の午砲が、いつまで使われていたか。それは分からない。
時刻を告げる役目は、今やスマートフォンになろうか。これもまた、新しい文化、新しい時代のおとずれを告げるものだろう。
■関連記事
「城山の午砲(どん)」
http://burakago.seesaa.net/article/407860418.html
■参考文献
「城山のドン おさない日の歌」(西郷竹彦・『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて鹿児島』・泰光堂・昭和34年)
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 鹿児島』(芳即正遍・国書刊行会・昭和55年)
西郷竹彦さんの随筆「城山のドン おさない日の歌」で、大砲について面白い話を著している。
西郷さんは、1920(大正9)年生まれ。
この随筆は、大正から昭和初め頃の鹿児島市の様子を描いているようだ。
城山にあった午砲について、西郷さんは記す。
そのころ、といっても、わたしの小さいころのことですが、城山のてっぺんに、一門の大砲(おおづつ)がすえてありました。
いつの時代に造られたものかは知りませんが、古めかしい青銅の、先ごめの大砲でした。それこそ雨の日も、風の日も、正午になると、その砲台から、ドーンと空砲をうちならして刻(とき)を知らせました。
城山のドンがなると、それにこたえるように、鴨池の浜の紡績工場の汽笛が、ピーとなりわたるのでした。
随筆は、ドンが鳴ったときの子どもたちの様子を記す。
そうなると、もう、あそびどころではありません。
ドンがなった、ピーがなった、飯(まま)たもれ・・・
と歌いながら、わが家の台所へかけてかえっていくのです。
随筆に記された「鴨池の浜の紡績工場」は、現在の真砂本町にあった。
大正6年に、鹿児島紡織鰍フ工場として設立。大正13年に大日本紡績鰍ニ合併し、同鹿児島工場となった。
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 鹿児島』に、同工場の写真と大正10年に撮影された鹿児島市全景写真が掲載されている。写真を見ながら、この随筆を読むとイメージしやすいかもしれない。
西郷さんの随筆は、紡績工場についてこう記す。
わたしが、ものごころつくようになって知った紡績は、もう、昔のように、若い娘たちのあこがれの職場ではありませんでした。まずしい農家の娘たちが、家のくらしをたすけるために、まるで身売りでもするようにして紡績へやってきました。
白いエプロンをかけ、赤いモスリンの帯だけがはなやかな紡績の娘たちが、おべんとうのつつみを胸にかかえて、工場へ通う姿をよく見かけたものでした。
胸をわずらって、はかなくこの世をさっていった娘たちの話を耳にしているわたしは、子どもごころにも、赤いモスリンの帯をしめた娘さんたちの姿が、あわれに、それでいながら美しいものに見えたものでした。
工場の近くに、サナトリウムの病院「海浜院」があった。現代のように、保険証を出せば医療を受けられるという時代でなかっただろう。庶民にとって、高嶺の花だったかもしれない。
西郷さんの随筆はつづける。
城山の午砲(ドン)にしても、鴨池の紡績の汽笛にしても、それは、新しい文化、新しい時代のおとずれをつげるものであったのです。
大空になりひびく午砲と汽笛の音が、聞こえるかぎりの町々の子どもたちは、「ドンがなった、ピーがなった」と歌いながら大きくなったのです。
しかし、いまはどんな山の中の一軒家でも、ラジオの時報が正確に正午を知らせてくれる時代です。城山のドンももう聞かれなくなったことでしょう。
随筆「城山のドン おさない日の歌」は、『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて鹿児島』に収められている。昭和34(1959)年刊行されている。城山の午砲が、いつまで使われていたか。それは分からない。
時刻を告げる役目は、今やスマートフォンになろうか。これもまた、新しい文化、新しい時代のおとずれを告げるものだろう。
■関連記事
「城山の午砲(どん)」
http://burakago.seesaa.net/article/407860418.html
■参考文献
「城山のドン おさない日の歌」(西郷竹彦・『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて鹿児島』・泰光堂・昭和34年)
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 鹿児島』(芳即正遍・国書刊行会・昭和55年)
2023年02月01日
お守り言葉と天皇機関説
お守り言葉を身につける自由は、満州事変をさかいにしてしだいにせばめられ、好戦的思想をもつ者だけがこれをおびる資格ありと見なされるようになった。
1935年に天皇機関説の主唱者美濃部達吉博士にくわえられた攻撃は、そのかわりめをよくあらわしている。
鶴見俊輔著「言葉のお守り的使用法について」に記された一文である。太平洋戦争にいたるまで、転機となる事件が何度も起こったのだが、天皇機関説と国体明徴宣言はそのひとつであろう。半藤一利さんも『あの戦争と日本人』で、天皇機関説について述べている。
昭和史のいちばんの転換期の言葉なんです。
満州事変から太平洋戦争開戦までの政治史をみていくと、面倒な時代である。短命内閣がつづくのも一因である。分かりにくい。天皇機関説と国体明徴は、日本がおかしくなっていく要因のひとつであろう。
天皇機関説が問題となった際、標的になったのは美濃部達吉博士。天皇の統治権行使を国民代表機関である衆議院によって拘束を受けるとした。議会が国政の中心であることを明確にするとともに、政党内閣を合法づけした。博士の学説は学界の主流となった。
議会中心政治を排除しようとする勢力にとって、天皇機関説は倒すべき学説だった。西浦進著『昭和陸軍秘史』によると、高級軍人たちが政治家を嫌っていたのがよく分かる。
また、美濃部博士の論考は自由主義の最前線にあったため、右翼勢力にも目障りであったようである。
昭和10年2月25日、美濃部博士は貴族院本会議で弁明演説をおこなっている。昭和10年2月26日付東京朝日新聞、「美濃部が諄々と自説を説明、議場に拍手」に演説の全文が掲載されている。関心のある方は、目を通されると良い。
鶴見先生は述べる。
もともとお守り言葉による攻撃は、人々の心を情緒として動かすのだから、これに対して理屈で自己弁護を試みても無駄である。理屈による弁明を聞いて諒承する人々なら、始めからお守り言葉による扇動に動かされはしない。
せんだって読んだ漫画、『SPY×FAMIRY10巻 MISSION63』に似た表現があった。
西国情報局監理官シルヴィア・シャーウッドのセリフである。
その手の輩は 自分の見たいものだけが世界のすべてだ。何も届かんし 何も響かん
MISSION63で、監理官は外にも良いセリフを述べている。それについてはまた後日。
天皇機関説と国体明徴によって、天皇機関説から天皇主権説へと憲法の解釈が変わったことである。1920年に美濃部博士は東京帝国大学で憲法学教授となり、学説は学界の主流となっていたのだが・・・。
同じ時代を生きた清沢洌が、天皇機関説問題について述べている。
憲法の解釈は軍部の解釈によって決定した。知識を侮辱し、知識階級の侮りを受けて、その勢力は何時まで続くであろうか。
■合法無血のクーデター
天皇機関説問題に対して、ある政党が妙な動きを見せる。政友会である。天皇機関説に断乎たる処置を求める「国体明徴決議案」を全会一致で可決。政党政治を正当化する学者を排撃するという唖然とするような行動である。それは政党の自殺行為でしかなかった。
昭和10年4月9日、内務省は美濃部博士の著書3冊を発禁処分にした。『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本憲法の基本主義』である。
鹿児島県公報「十學第六九六號 昭和十年五月一日 鹿児島縣學務部長」に、3冊の取り扱いに関する指示がでている。各学校と鹿児島市長宛ての指示書である。
美濃部氏著書取扱ニ関スル件
美濃部達吉氏著書中左記ハ発売ヲ禁止セラレタルニ付之ヲ閲読セシメザル様御配慮煩度特ニ得貴意候也
追テ先著書中貴校所蔵ノモノ有之候ハバ書名冊数御報告相成度
『志学館学園100年史』は記す。
天皇中心主義の国体観念を明らかにする、いわゆる「国体明徴」は、1935年(昭和10)4月、文部省によって訓令され、鹿児島県もこれを受けて国史教育を重視した教育方針に傾いていった。各年度の教育方針は県学務課によって基本方針が立てられ、これに基づいて各学校の方針が決定されるようになった。
鹿児島県も無関係ではなかった。上からの命令に対して、従順だったかもしれない。現在はいかがだろうか。
1940年、司法省判事局は極秘の論文をまとめている。「所謂『天皇機関説』を契機とする国体明徴運動」である。執筆者は玉沢光三郎検事。天皇機関説問題を「合法無血のクーデター」と記している。
天皇機関説と国体明徴について、ざっと記してみました。政治や行政、軍部、国家主義団体など様々な視点から考える必要がある。それらは、複雑に絡み合ってもいるようだ。
戦前・戦中にあって歴史の転換点があるとすれば、天皇機関説と国体明徴はそのひとつであろう。
1935年に天皇機関説の主唱者美濃部達吉博士にくわえられた攻撃は、そのかわりめをよくあらわしている。
鶴見俊輔著「言葉のお守り的使用法について」に記された一文である。太平洋戦争にいたるまで、転機となる事件が何度も起こったのだが、天皇機関説と国体明徴宣言はそのひとつであろう。半藤一利さんも『あの戦争と日本人』で、天皇機関説について述べている。
昭和史のいちばんの転換期の言葉なんです。
満州事変から太平洋戦争開戦までの政治史をみていくと、面倒な時代である。短命内閣がつづくのも一因である。分かりにくい。天皇機関説と国体明徴は、日本がおかしくなっていく要因のひとつであろう。
天皇機関説が問題となった際、標的になったのは美濃部達吉博士。天皇の統治権行使を国民代表機関である衆議院によって拘束を受けるとした。議会が国政の中心であることを明確にするとともに、政党内閣を合法づけした。博士の学説は学界の主流となった。
議会中心政治を排除しようとする勢力にとって、天皇機関説は倒すべき学説だった。西浦進著『昭和陸軍秘史』によると、高級軍人たちが政治家を嫌っていたのがよく分かる。
また、美濃部博士の論考は自由主義の最前線にあったため、右翼勢力にも目障りであったようである。
昭和10年2月25日、美濃部博士は貴族院本会議で弁明演説をおこなっている。昭和10年2月26日付東京朝日新聞、「美濃部が諄々と自説を説明、議場に拍手」に演説の全文が掲載されている。関心のある方は、目を通されると良い。
鶴見先生は述べる。
もともとお守り言葉による攻撃は、人々の心を情緒として動かすのだから、これに対して理屈で自己弁護を試みても無駄である。理屈による弁明を聞いて諒承する人々なら、始めからお守り言葉による扇動に動かされはしない。
せんだって読んだ漫画、『SPY×FAMIRY10巻 MISSION63』に似た表現があった。
西国情報局監理官シルヴィア・シャーウッドのセリフである。
その手の輩は 自分の見たいものだけが世界のすべてだ。何も届かんし 何も響かん
MISSION63で、監理官は外にも良いセリフを述べている。それについてはまた後日。
天皇機関説と国体明徴によって、天皇機関説から天皇主権説へと憲法の解釈が変わったことである。1920年に美濃部博士は東京帝国大学で憲法学教授となり、学説は学界の主流となっていたのだが・・・。
同じ時代を生きた清沢洌が、天皇機関説問題について述べている。
憲法の解釈は軍部の解釈によって決定した。知識を侮辱し、知識階級の侮りを受けて、その勢力は何時まで続くであろうか。
■合法無血のクーデター
天皇機関説問題に対して、ある政党が妙な動きを見せる。政友会である。天皇機関説に断乎たる処置を求める「国体明徴決議案」を全会一致で可決。政党政治を正当化する学者を排撃するという唖然とするような行動である。それは政党の自殺行為でしかなかった。
昭和10年4月9日、内務省は美濃部博士の著書3冊を発禁処分にした。『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本憲法の基本主義』である。
鹿児島県公報「十學第六九六號 昭和十年五月一日 鹿児島縣學務部長」に、3冊の取り扱いに関する指示がでている。各学校と鹿児島市長宛ての指示書である。
美濃部氏著書取扱ニ関スル件
美濃部達吉氏著書中左記ハ発売ヲ禁止セラレタルニ付之ヲ閲読セシメザル様御配慮煩度特ニ得貴意候也
追テ先著書中貴校所蔵ノモノ有之候ハバ書名冊数御報告相成度
『志学館学園100年史』は記す。
天皇中心主義の国体観念を明らかにする、いわゆる「国体明徴」は、1935年(昭和10)4月、文部省によって訓令され、鹿児島県もこれを受けて国史教育を重視した教育方針に傾いていった。各年度の教育方針は県学務課によって基本方針が立てられ、これに基づいて各学校の方針が決定されるようになった。
鹿児島県も無関係ではなかった。上からの命令に対して、従順だったかもしれない。現在はいかがだろうか。
1940年、司法省判事局は極秘の論文をまとめている。「所謂『天皇機関説』を契機とする国体明徴運動」である。執筆者は玉沢光三郎検事。天皇機関説問題を「合法無血のクーデター」と記している。
天皇機関説と国体明徴について、ざっと記してみました。政治や行政、軍部、国家主義団体など様々な視点から考える必要がある。それらは、複雑に絡み合ってもいるようだ。
戦前・戦中にあって歴史の転換点があるとすれば、天皇機関説と国体明徴はそのひとつであろう。