2014年10月31日

城山公園のおいたち

■ 県下初の県営公園
城山が市民にとって親しみやすい所となったのは、明治10年の西南戦争後のことでありました。
藩政時代の城山は島津家の居城として、また神聖な地であったことから庶民は足を踏み入れることはできなかったそうです。
明治2年、島津氏は封土を朝廷に返還。旧城郭と城山上部の土地は、お城と共にすべて官有地となりました。
また明治4年、熊本鎮台分営設置によって城山は、陸軍省が所管するようになりました。

ただ、旧二ノ丸付近だけは島津久光公の所有地で、そこに住んでいました。
久光公のことを、「二ノ丸様」と呼ぶようになったそうです。
藩政時代、二ノ丸の上手側には、探勝園を開き、浩然亭を設け桜や楓が植えられていたそうです。
西南戦争の際、久光公は二ノ丸から玉里邸へと移られました。
乱が終わると、島津家は二ノ丸周辺の土地を売りに出したそうです。
購入したのは、城下の商人であった山田海三や岩元基などの人物でした。
彼らは、旧二ノ丸地域をすべて買い取り、クスノキやヒノキを伐採して売却する計画を立てていました。

【 岩村通俊 】
当時、鹿児島県令であった岩村通俊は、計画を知るや土地購入に向けて動き始めました。
背景には、「せっかくの景観と歴史が台無しになる。城山だけは役所に管理させたほうがよい」とする世論の声があったようです。
岩村は県費三千円で土地を買収、むかしあった浩然亭を設置して、公園化への道筋をつけたのでした。
浩然亭は木造の貸席で、料理持は持ち込み、コンロとナベだけを借りて料理するものであったそうです。
浩然亭は終戦後も残っていたようですが、昭和26年のルース台風で全壊してしまったそうです。

その後、県が買収した土地は官有林として編入され、農商務省に移り、鹿児島山林局事務所で主管することになりました。

【 渡辺千秋県知事 】
明治18年5月、岩村県令のあとを継いだのは渡辺千秋県知事で、公園化を推し進めた人物でした。
渡辺は、「本県には公園がなく、県民が楽しめる場所がないのは遺憾だ。老樹繁茂し、展望絶佳な城山を公園にしたい」と山林局に官有地払下げの交渉を行いました。
翌6月、当時の内務卿山形有朋に願い出、9月に許可が下りたのでした。
そうして、城山は鹿児島県初の県営公園となりました。
渡辺知事は登山道路開鑿にも着手、照国神社の西寄りにその道が残っているそうです。

■ 鹿児島市営へ
明治23年4月、渡辺知事の後を引き継いだ山内堤雲知事の代になると、「県営公園としては狭すぎる」という声が強まりつつありました。
というのも、当時の城山公園は城山山麓一帯の、とても小さなもので、山腹は農商務省が、山頂付近は陸軍省の管轄になっていたからでした。

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山内知事は、市制施行を機に内務省に願い出ました。
「利用率からみても、鹿児島市に移管したほうがよい」
同年12月、山内知事の申し出通り、城山公園は鹿児島市へと移管されることになりました。

明治23年3月、鹿児島市は城山公園地開墾費を市会に要求。道路改修に取り掛かりました。
公園とはいっても、雑草生い茂り、荒れ放題。
市有地の開墾、園路建設、クス・杉・ヒノキ・黒松・カエデなど5千本近くの植樹を行ったそうです。
また、園内に取締所を設け、園丁を置くなどしたことから、徐々に公園としての体裁が整っていきました。
しだいに市民の人気を集め、“行楽を楽しむ”という人々が増えたそうです。

人が集まり始めると、茶店を出したいという者も出てきました。
明治24年7月の市会に、「公園地使用料および使用規則」が提案され可決されました。
使用料は1坪(3.3u)当り、1ヶ月1銭以上10銭以下、当時の物価からみても格安な料金であったそうです。

【 城山公園の拡大 】
前述したとおり、当時の城山公園は城山麓の周辺だけという、とても小さく狭い公園でありました。山の中腹は農商務省が、山頂は陸軍省の管轄となっていました。

明治34年7月、豪雨が発生し、土砂が崩壊。崩れ落ちた土砂が公園内に流れ込み、茶店など2棟が埋没し負傷者を出す災害が発生しました。
それまでも、城山には老木が多く強風で倒れたり、台風や長雨で土砂崩れを起こすなどしていたのでした。
明治34年の災害を機に、鹿児島市では「山腹の傾斜地の手入れをしないかぎり、危なくて公園とはいえない。ふもとの地区にいくら市費をつぎ込んでもムダ」と考え、国有地払い下げの陳情を展開することになりました。
そうして明治41年4月、城山の全部を譲り受け公園敷地は一気に広がったのでした。
園道を通し、各種設備が整ったのは、明治43年12月のことであったそうです。

明治40年、城山に皇太子殿下(のちの大正天皇)が展望台までのぼられています。
皇太子殿下が来られるということで、県・市では準備に大わらわとなりました。
次回は、このへんについて触れてみます。
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2014年04月13日

昭和20年8月15日

昭和20年8月6日・9日に、広島・長崎に原爆が投下され、ソ連の対日参戦によって日本の敗戦は決定的なものとなりました。
軍部は本土決戦を叫び戦争継続を唱えていましたが、政府は8月14日にポツダム宣言受諾、無条件降伏することを決定しました。
8月15日正午、天皇の「終戦詔書」がラジオで全国民に告げられ、戦争が終わったのでした。

■ 8月15日前後
8月14日、それまで毎日のように鹿児島上空に現れていたアメリカ軍機が機影を見せませんでした。
その日の夕方、同盟通信社鹿児島支局に無電にて情報を接受。
当時、同盟通信社鹿児島支局は、城山の薩摩義士碑下にあった横穴壕に移転していました。

情報によると、宮中で御前会議が開かれ「無条件降伏・ポツダム宣言受諾」が決まり、15日正午には天皇陛下自らマイクの前に立たれて終戦の大詔を放送されるというものでした。
当時鹿児島市防空課長であった本田斉さんは、情報を鹿児島市役所・上之原本部に持ち帰り岩切市長に報告しました。
情報を肯定する者もあれば、”敵の謀略”という人もあったそうです。
このとき、鹿児島市役所は昭和20年7月27日に、上之原水源地のトンネルに移転していました。

『あれから10年』(本田斉著)によると、8月15日の様子を次のように記しています。

「8月15日の正午、城山の横穴壕に在る同盟通信支局へ行き、正午のニュースを今や遅しと待った。
アナウンサーの声は物すごい雑音に混じり、はっきりと聞き取ることは困難であったが、それはまさしく無条件降伏せりとのニュースであった。真実であろうかと幾度か自分の耳を疑ったが、それは、まがうことなき冷厳な事実であった。
続いて東京から電波に乗って送られる天皇陛下の声も途切れ途切れで、その語句一つ一つを聞き取ることはできなかたが、・・・。
その日この情報を持って上之原の仮市役所に帰り、岩切市長に報告するとさすがに市長も”そうか”とうなずかれたのみであった」

このとき、鹿児島の市街地は完全な焼野原で、街には電線が垂れ乱れ、瓦礫の街にはビルの残骸が気味悪くそそり立ち全く手のつけようがなかった。
広い焼野が原と化した市街を静かに眺めた市民は、今さらのように戦争の惨めさをひとしお体感した。(『鹿児島のおいたち』より)

天皇の大詔によって戦争は終わりましたが、鹿児島ではまだまだ混乱が続くことになります。
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2014年04月11日

長崎原爆投下と鹿児島の学生たち

20億ドルの巨費と13万人を動員したマンハッタン計画は、1945年4月末、原爆完成が秒読み段階に入っていました。
このとき、アメリカ陸軍の原爆標的委員会が開かれていました。
標的として挙げられた都市は、東京湾・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸・京都・広島・呉・山口・下関・八幡・小倉・福岡・長崎・佐世保・熊本でありました。

5月末になると、B29や艦載機による空爆によって破壊された都市が多くなってきました。
標的委員会は、目標を小倉・広島・新潟・京都に絞り込んでいました。
スチムソン陸軍長官は、かつて訪れたことのある京都選定に対して強硬に反対したそうです。

■ 七高生の勤労動員
旧制七高造士館2年に進級したばかりの106人が、鹿児島駅での盛大な見送りを受けていました。
彼らが勤労動員先の長崎市に到着したのは、昭和20年4月10日のことでした。
与えられた任務は三菱兵器製作所で、特殊魚雷を生産するものでした。
学生たちの宿舎は「にしごう」という寮でありましたが、彼らは「さいごう寮」と呼んでいました。

その頃、主要都市への空襲が続いていましたが、長崎ではみられませんでした。
アメリカ軍は原爆の目標となった都市への通常爆撃を一時期、禁止していたのでした。

7月25日朝、アメリカ戦略空軍司令官に命令書が届きました。
それはトルーマン大統領が承認した命令書で、「8月3日以降、天候が目視爆撃を許す限り、すみやかに特殊爆弾を次の目標(広島・小倉・新潟および長崎)のひとつに投下せよ。」というものでした。

■ 昭和20年8月9日
昭和20年8月9日午前11時2分、プルトニウム爆弾「ファットマン」を載せたボックスカー号は、長崎市の北、浦上地区上空に原爆を投下しました。
上空約500メートルで炸裂した原爆は、6.7平方キロメートルを廃塵と化し、直接被爆者だけで28万人にも及んだのでした。

被爆当時、長崎にいた生徒は99人。死亡・行方不明者14人、負傷は50人を越えたそうです。
七高生たちは、被爆翌日から長崎を後にし始めました。

当時、七高校舎は空襲で焼けていました。
戦後、場所探しに苦労していましたが、11月26日、出水の海軍航空隊兵舎で開校することができました。
12月15日、出水市の西照寺で殉難学徒の慰霊祭が行われ、9つの遺族が参加したそうです。

先の戦争では兵士だけでなく、学徒動員の七高生や女子挺身隊員、徴用工など命を落とした人々の数は、あまりにも多いものがありました。

■ 原爆の噂
情報統制によって、各地の空襲被害の状況を知るすべを持たなかった一般市民。
広島・長崎に落とされた原爆について、正確な情報を得ることはできませんでした。

しかし、どこから伝わってきたものか、「広島に大型爆弾が落とされた」という話が市民たちの間に伝わっていました。
『勝目清回顧録』に、当時の様子が掲載されていますので、紹介してみます。

「人の口というものは、まったく早いものである。8月7、8日ごろには、どこからともなく広島に大爆弾が落下したそうだとの話が伝わった。半信半疑で初めは聞いていたが、日を経るに従って真実であることが判明した。しかも初めの話より以上のものであり、正体の分からない爆弾らしいとのことである。
原子爆弾というのは後でわかった。」



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