2014年04月09日

オリンピック作戦と鹿児島

■ 日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)
「日本の早期無条件降伏のためには本土上陸も必要」との考えから、アメリカ統合参謀本部は上陸作戦を研究していました。
上陸作戦の骨子は1945年2月のヤルタ会談直前に完成し、6月29日にはアメリカ大統領が承認をしました。
マッカーサー元帥を最高責任者とし、川内と宮崎県都農を結ぶ線から南部を占領するものでした。
この作戦では、首都圏攻撃のための航空基地確保が最大の目的でありました。

南九州侵攻ににつづいて関東侵攻(コロネット作戦)が予定されており、これらを合わせて「ダウンフォール作戦」と呼んでいました。
”ダウンフォール”は、失墜や滅亡といった意味だそうです。
日本を無条件降伏させるためには、首都陥落作戦がもっとも効果的と考えられていたようです。

■ オリンピック作戦(南九州侵攻)
オリンピック作戦は、1945年11月1日に決定されていました。
志布志湾岸、吹上浜、宮崎海岸の三正面からの同時上陸によって、一気に南九州を占領する計画でした。

この作戦では、事前の空爆と艦砲射撃、付近の島嶼占領、三正面同時上陸、予備作戦として開聞岳付近の上陸を主な柱としていました。
事前の空爆と艦砲射撃は、8月18日から実施される計画で、航空基地の破壊や北九州との連絡遮断を経て、10月24日から上陸地点への集中攻撃を予定していました。

【 三正面同時上陸 】
これは11月1日、午前6時に決行される予定でした。
@ 志布志湾岸
志布志・柏原間に上陸し、宮崎海岸から上陸した軍団と連携しながら「岩川―高隅―鹿屋」を結ぶ線まで進出する計画でした。

A 吹上浜
吹上浜では、「串木野―神野川河口(旧東市来)」の間から上陸し、「鹿児島―入来―川内」を結ぶ線に到達後、さらに北方へ進攻する計画でした。

B 宮崎海岸
宮崎市付近に上陸後、「佐土原―青井岳(山之口町)」を結ぶ線へ内陸進攻するものでした。

【 予備作戦としての開聞岳付近上陸 】
11月5日以降に実施し、「瀬々串―知覧―白沢(枕崎)」を確保して、鹿児島湾西南岸支配を目指すものでした。

これら上陸作戦では4つの軍団、イギリス空母部隊を含めた3000隻の艦船、6000〜7000機の航空機、車両14万台、総人員81万5000人を動員する計画でした。
アメリカ軍が沖縄戦に投入した、54万8千人をはるかに上回る計画となっていました。


■ 日本軍の対応
昭和20年7月、大本営陸軍部はアメリカ軍の進攻を次のように分析していました。
@関東方面の主作戦に先立ち、九州方面で第一次決戦がある。
A基地獲得の目的で行う南九州上陸作戦は、8月以降と判断。
B上陸時期は台風期以降
C志布志、吹上浜、宮崎の三正面同時上陸(特に志布志が決戦場)
D連合国の戦力は十数個師団 など

以上の分析は、作戦趣旨や開始時期、主戦場、戦力などについてほぼ的を得ていたものでした。
冷静な判断とは裏腹に決戦思想が強調され、持久戦などは考えず玉砕を強要するものでありました。
志布志湾沿岸や吹上浜沿岸、薩摩半島南岸には守備陣地が密集して構築され、大量の部隊が配備されました。
軍は「一億玉砕」を唱え、国民義勇戦闘隊や地区特設警備部隊などで市民を根こそぎ動員しました。
鹿児島県民は、何らかの形で戦闘や作戦に巻き込まれようとしていました

日本軍部は昭和20年4月に「決号作戦」を作成して、南九州に大量の部隊を配属しました。
鹿児島では4月から陸軍部隊が増強され、川辺に146師団、伊作に206師団、川内に303師団、伊集院には台湾から40軍司令部が移ってきました。
そうして、大隅半島を57軍が、薩摩半島を40軍が守備するという態勢が構築されました。

海軍も特攻戦用の小型潜水艇や高速艇(震洋)基地を多数配備しました。
陸軍でも、海上特攻(海上挺身隊)が密かに配備されていました。
動員された将兵数は、15万人あるいは20万人とも言われており、正確な数は分かっていません。

しかし、守備についた部隊は兵器・軍馬・食料が不足していました。
タコつぼ陣地を掘るスコップでさえ事欠く始末で、周辺の民家から駆り集めるといった有様でした。
栄養不足と不衛生によって、赤痢が発生。
り患した兵士たちは、鹿児島市伊敷にあった陸軍病院へと搬送されていきました。

南九州の守備隊は、本土決戦の掛け声には程遠い頼りなさであったそうです。
もしオリンピック作戦が実施されていたら、ひとたまりもなかったかもしれません。

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2014年04月07日

赤痢の異常発生

昭和20年6月から9月まで、鹿児島県下において赤痢が蔓延しました。
赤痢発生源のひとつとして、軍が構築したタコつぼ陣地が指摘されています。

昭和20年春ごろのこと。
アメリカ軍の鹿児島上陸作戦が近いとみた軍は、吹上浜・志布志湾一帯に戦力を集中。
アメリカ軍戦車隊の通過が予想される砂浜や荒野に、無数の「タコつぼ」陣地を構築しました。
医薬品は無く、農家から借りた石臼で木炭を粉末にして飲むことが精いっぱいであったそうです。
このタコつぼ部隊が赤痢発生源のひとつと見なされたのでした。

部隊の赤痢重症患者は、次々と鹿児島市伊敷にあった陸軍病院に運ばれました。
一日2,3回、グラマンの機銃掃射の合間を縫って走る満員列車で、患者は西鹿児島駅に到着しました。
西鹿児島駅から伊敷の病院まで3キロメートル。
伊敷街道には、衛生兵に引率された患者の列が続いていました。
途中、患者たちは下痢の連続で、ズボンのベルトを緩める暇もなかったそうです。
3キロの伊敷街道は、兵隊たちが排泄する真っ赤な血で染まりました。
アメリカのグラマンが空から襲ってきても、赤痢にかかった兵隊たちは逃げる気力さえありませんでした。

鹿児島陸軍病院は、5棟の病舎(約250ベッド)でありましたが、超満員になっていました。
ベッドから溢れた患者たちは、軒先や廊下に横たわるという有様でした。
また、院内は異様な臭いが充満していたそうです。

ズルファミンという抗生物質を投与しても、栄養不良の兵隊の体には抵抗力がなく、毎日数人ずつ死んでいきました。
遺体は病院前の甲突川で、ガソリンをかけて火葬にしたそうです。


■ 6月17日の大空襲
この日、鹿児島市が焼野原になった直後、鹿児島陸軍病院の2棟を解体して約4キロ先の河頭中学校近くの杉林に疎開しました。
立木を柱にして、荒縄で古材を結びつけた病舎の屋根は板を並べただけあったため、雨漏りはひどいものでした。

患者は約300人。
板の上に毛布を一枚敷き、隙間なく収容していました。
溢れた患者は野道に並べるといった、野ざらし状態でした。
夜、軍医が懐中電灯の灯りを頼りに回診しますが、翌朝には死亡していることもしばしばであったそうです。

その後も、吹上浜や志布志湾から、赤痢患者がぞくぞくと鹿児島市にやってくるのでした。
赤痢は廃墟の鹿児島市にあっという間に広がってしまいました。
鹿児島市民は相次ぐ空襲のため、防空壕に缶詰にされていました。
しかも梅雨入りしていた6月17日ごろ、防空壕には腰までつかるほど水が溜まっていました。
空襲のために市街地の水道網は寸断、いたるところに汚水が溢れていました。
食糧難はピークに達し、市民の多くは栄養失調に近い状態であったため、病原菌に対する抵抗力は殆どありませんでした。

鹿児島県公衆予防課に届出があった患者だけでも3522人に達し、そのうち338人が死亡していました。
届出を行った者たちの数ですから、実際はもっと多くの患者と死者があったと思われます。





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2014年04月04日

最後の空襲まで

6月17日の空襲によって、鹿児島市内の大半が焼失し死者2300余人、負傷者3500余人、被災市民約9万人という被害を被ってしまいました。
木造家屋のほとんどが焼失し、焼け跡には鉄筋コンクリートの建物だけが残されていました。
『鹿児島市戦災復興誌』や『かごしま戦後50年』などの書物に、焼野原となった写真が掲載されていますので、ご覧になってみてください。

■ 焼夷弾集め
昭和20年6月1日に発足した鹿児島義勇隊が、初めての活動をおこなったのは6月18日のことであったそうです。
焼け跡の整理や金属の収集を始めましたが、軍部から焼夷弾集めも命じられていました。

『勝目清回顧録』に、当時の様子を次のように記しています。
「敵が落とした焼夷弾を集めることも軍部から連絡があった。ただしこの敵の弾を利用してスコップを作り、陣地構築用にするのだとか聞かされたときは少々がっかりした。
市役所に落ちた焼夷弾は約400個あって、そのうち5,60個は不発であった。」

「市内にも相当数の不発弾があって、要領よくふたをとれば弾の中の油脂が台所の火付けに利用され、夫人連が台所仕事に便利だったことも笑われぬ当時のエピソードの一つではあるまいか」

収集された焼夷弾の数は、次々司令部に運ばれ、山のように集まったそうです。


■ 上町方面の空襲 7月27日
7月26日、海岸通りにアメリカ軍機から投下されたビラが落ちていました。
ビラには、次の攻撃目標が詳細に記されていました。
鹿児島駅や吉見鉄工所、専売公社などが爆撃目標とされていました。
ビラは憲兵隊に届けなければならない決まりでしたが、予告の内容は口伝えで市民の間に広がっていったそうです。

7月27日、晴れ上がった夏の真昼のことでした。
午前11時50分、空襲警報発令後、間もなく米軍機ロッキード爆撃機数百機の編隊が出現。
鹿児島駅を目標に爆弾攻撃を開始しました。
そのとき、鹿児島駅には鹿児島本線と日豊線の両方からの列車が到着したばかりでした。
ふだんでも混雑していた鹿児島駅構内は、このとき、溢れんばかりの人でごった返していたそうです。

そこへ爆弾投下。
炸裂した1トン爆弾は、凄まじい爆発力で多くの市民たちを殺傷し、駅や周辺の建物に大きな被害を与えました。

この爆撃で車町、恵美須町、和泉屋町、柳町、鹿児島駅が被災しました。
死者420人、負傷者650人、1,783戸が被災しました。
上町地区は、4日後の7月31日にも空襲に見舞われることになります。

■ 7月31日、七回目の空襲
前回の空襲から4日後の7月31日午前11時半ごろ、ロッキードの編隊数十機が襲来し上町一帯を襲撃しました。
この空襲で、清水小や大竜小、多数の民家が焼かれてしまいました。
当時、南州神社にあった西郷隆盛の大きな木像が、この空襲で焼かれてしまったそうです。
西郷さんの木像の写真が、『ふるさとの想い出写真集鹿児島』に掲載されています。

この空襲で、鹿児島駅付近・清水町・池之上町・上竜尾町・下竜尾町一帯が被害を受けました。
被災戸数3251戸、被災人口は16542人にのぼりました。


■ 8月6日、最後の空襲
8月6日午後12時30分頃、艦載機グラマン・カーチスが襲来。
爆弾投下と機銃掃射をおこない、上荒田や西鹿児島駅付近、城西方面一帯、伊敷の18部隊兵舎が焼失しました。
この日の空襲が最後でありましたが、このとき鹿児島市内は廃墟となっていました。

被災場所;上荒田町、原良町、薬師町、伊敷村一帯
被災戸数1789戸、死傷者不明、被災人口は6817人を数えました。


■ 8回の空襲による被災状況
8回の空襲によって鹿児島市が受けた被害は、死者3329人・負傷者4633人・行方不明35人・その他10万7388人、合計11万5385人に及びました。

建物の罹災戸数2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1961戸。
全戸数3万8760戸に対し、57%にのぼりました。
鹿児島市は焼野原となり、市街地の約93%、327万坪が焼失してしまいました。

当時の様子を『激動二十年 鹿児島県の戦後史』では、次のように記しています。
「鹿児島市は“死の町”と化していた。爆撃の恐怖からのがれるため、市民はいなかへ疎開してしまい、天文館など広大な中心部は“人口ゼロ”の状態がつづいた。」

■ 無防備になった鹿児島の空
『勝目清回顧録』に、当時の鹿児島航空隊の記事を掲載しています。

「鹿児島の海軍航空隊は戦争中非常に活躍していた。ことに沖縄が戦場となってからは、盛んに出動していた。
沖縄戦争がまだ途中であるのに、敵機の鹿児島来襲は激しくなった。6月17日の空襲後はますます敵機の来襲が甚だしい。
鹿児島の航空隊は北九州に引き揚げることになった。

かくして鹿児島の航空隊は人知れず姿を消した。ほとんど無防備といっていいくらいの鹿児島になった。航空隊が引き揚げるようではいよいよ大事と内心不安をもったが、いうことはできなかった」

■ アメリカ戦略爆撃調査団の報告
終戦直後、アメリカ戦略爆撃調査団は、次のような報告書を作成しました。

「日本の民間防衛当局は、将来の空襲の規模を誤って推定していた。防空計画は誤った考えのもとで作られ、軍は民間人を空襲から防護するため、ほとんど何もしなかった。
発達した救助技術があったなら、死者数は削減し得た。」

日本本土に落とされた爆弾は16万800トン。
ドイツと比べると損害は同程度でしたが、投下した爆弾は9分の1だったそうです。
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