2014年03月30日

時限爆弾と夜間空襲

■ 4月21日の空襲
昭和20年4月21日午前5時44分、鹿児島市内に警戒警報が発令、つづく午前6時9分には空襲警報に代わりました。
市民たちは防空壕へ避難しましたが、敵機は姿をみせませんでした。
2時間ほど経った8時頃、吉野方面から市内中心部へ進むアメリカ軍機十数機が姿を現しました。

この攻撃でアメリカ軍機が落とした爆弾は、およそ200個であったそうです。
長田町・山下町・東千石町・加治屋町・山之口町・新屋敷町などに被害が出てしまいました。
爆風によって吹き飛ばされた家屋の被害が多く、「被害は割りに少なく不発弾が多いようだ」という報告が市庁の防空本部にもたらされました。

この日の空襲の様子は、『勝目清回顧録』に詳しく書かれていますので、少し紹介してみます。

【 勝目清回顧録より 】
「防空講演などいろいろの機会に、アメリカの飛行機から各種の爆弾や焼夷弾が投下されることは知っていたが、昭和20年4月21日の空襲には、ついにその実物の見舞いを受けた。
当日は早朝から警報が出たのでじゅうぶんの注意で待機していたら、朝八時頃、吉野町方面上空に、鹿児島市中心部に向かっている敵機数十機が現れた。
間もなく鳥の糞のように黒いものが点々と落ち始め、長田町、山下町、千石町、加治屋町、山之口町、樋之口町、新屋敷町に次々と爆弾を落として飛び去った。
吹き飛ばされた家屋その他被害が次々と報告された。」

「一時間くらいたったと思うころ、城山背後の岩崎谷側で爆弾が破裂した。はじめてその日の爆弾が、時限爆弾であることが分かって大騒ぎとなった。
それぞれ爆弾の落下点は判明していたので、その位置を中心に百五十メートルくらいの立ち退きや家屋の取り除き、ナワ張りをしての立ち入り禁止など混雑が始まったのである。」

「そのご西本願寺別院庭で爆裂するのを、市役所の自室から見たことを記憶している。
高さ20メートルくらいも砂煙を吹き上げるだけで大したこともなかったが、以来夜となく昼となくボンボン気味悪い破裂するので、相当神経戦の効果はあったようである。
気づいただけで8,90発くらいまでは数えたけれども、その後は数えることをやめた。」
最後の一発は5月末日ごろであったから、50日くらいの間はボンボン破裂していたのである。」

不発弾のなかには水道の主要管を破損したままのものもあり、工兵隊や消防団の手によって掘り出され、平之町に運ばれたそうです。
平之町は4月8日の空襲被害を受けたところが、空き地になっていました。
不発弾はそこに運び込まれ、爆破されたそうです。

この日の空襲では、長田町・山下町・東千石町・樋之口町・平之町・城山トンネル入口付近が被災しました。
被災者4548人、被災戸数878戸。

【 4月22日付鹿児島日報 】
鹿児島日報に、軍当局発表として次のような記事を掲載しています。

「21日午前、マリアナ系B29約180機をもって九州地区に侵入、午前6時頃九州南方海上で隊形を整えた敵は2群に分かれ、その主力110機をもって都井岬より宮崎、鹿児島周辺地区に、また別1群約70機は豊後水道を経て大分太刀洗に侵入、約4時間にわたって、わが飛行場など地上施設に対し8000〜9000メートルの高高度から盲爆を加えたが、わが方航空関係にはほとんど被害なく、鹿児島、大分の市街地に一部火災を発生した。
また時限爆弾を多数混用している点が注目される
マリアナ基地のB29(10機編隊)を主軸とし、それに小型機1機が21日午前7時ごろ、鹿児島と宮崎に来襲、特に鹿児島市に侵入した大型機は編隊でルメール式盲爆をおこなった」

“ルメール式”というのは分かりません、“盲爆”は、むやみやたらに攻撃すること。

最後の時限爆弾が破裂する50日の間、アメリカ軍の空襲はひっきりなし続いていたのでした。


■ 5月12日の空襲
この日の空襲では、初めて夜間におこなわれ照明弾も使用されました。
艦載機から発進した飛行機ではなく、沖縄基地から飛び立ったものでした。

昭和20年5月12日午後8時ごろ、沖縄基地から発進したグラマンなど20数機は、鹿児島市に初めて夜間の空襲を加えました。
主に港湾地帯が被害を受け、被災人口67人、被災戸数18戸でした。

【 14日付鹿児島日報 】
12日午後8時ごろから13日午前4時ごろまでに沖縄基地を発進した米軍機グラマンF6F及びマーチン哨戒機PBM3など30数機は、おおむね単機にて志布志湾付近から侵入、鹿児島に20機、宮崎に10数機、長崎県に2機来襲、照明弾を投下し、一部は爆弾、焼夷弾を混用投下した後、南方洋上に脱出した。

この日の空襲は夜間空襲や照明弾の使用など、6月17日の大空襲に向けての試しであったかもしれません。
6月17日の夜、鹿児島市は大規模な空襲を受けることになります。
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2014年03月27日

鹿児島、空襲の始まり

昭和20年4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸。沖縄は戦場となってしまいました。
この日をはさんで終戦まで、南九州も単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場化」したといえよう。
鹿児島には特攻機地があったため、アメリカ軍による攻撃は他の都市とは比べものにならないほどの激しさでありました。
当初、空襲は軍事施設や工業地帯を目標にしていましたが、無差別爆撃となり、非戦闘員に対する機銃掃射も行われるようになりました。

昭和20年ごろの防空機能について、『鹿児島市戦災復興誌』では次のように記述しています。
「沖縄戦が峠を越したあとは、南九州における日本空軍の迎撃、及び対空砲撃の機能はほとんど零の状況となり、完全な米空軍の制空圏下に入り、米軍機は自由に飛行、攻撃した。大牟田、熊本、鹿児島、都城などの小都市には照空隊の配備もなく、夜間の焼夷攻撃に対しては無策といってよかった。」(本土地上防空作戦記録)

■ 空襲被災地
鹿児島県下に投下された爆弾数は4404個、焼夷弾6万174個、直接被害戸数3万4803戸におよんだそうです。
『鹿児島県史』に、主な被災地を掲載しています。

鹿児島市街地、谷山の田辺、喜入町前之浜、川畑、生見・指宿市今和泉、尾掛、二月田・山川町市街地、成川・開聞町川尻、尾曲・知覧町の打出口、上別府、松山、松ヶ浦・枕崎市市街地、塩屋、田畑、田中・坊津町塩屋・加世田市諏訪尾、津貫・吹上町永吉・東市来町湯之元・市来町湊町・串木野市街地・川内市街地、京泊、久見崎、網津、高江、西方・東郷町斧渕・阿久根市街地・出水市東大野原・姶良町松原、脇元・加治木町市街地・隼人町永浜、国分飛行場近在の集落・垂水市新城、港町、海潟・鹿屋市飛行場近在の集落、古江・内之浦町岸良・高山町波見・松山町駅前・末吉町岩井谷・種子島増田、西之表・屋久島一湊、宮之浦、安房、栗生・古仁屋、与治、池地、請阿室、湯湾、大棚、大和浜、名瀬、大熊、浦上、赤木名、屋仁湾、赤連、中里、荒木、上嘉鉄、阿伝、嘉純、佐手久、浅間、平土野、亀徳、亀津、知名、和泊。

これらの内、鹿児島市は3月18日から8月6日まで、8回にわたる空襲を受けることになりました。

■ 3月18日の空襲
昭和20年3月18日午前5時42分、鹿児島市役所屋上にあったサイレンが空襲警報を鳴り響かせました。
鹿児島市防空課に入った情報第一号は、「敵の機動部隊は大隅半島の南方300キロの洋上に出現、南九州空襲の公算大なり」というものでした。

午前7時50分頃、グラマン・カーチスなどの艦載機40機が桜島上空に出現、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃しました。

『勝目清回顧録』に、当時の様子がつづられています。
鹿児島航空隊には、もうもうたる黒煙が立ち上がった。日本軍も激しく応射した。敵の1機が航空隊上空で黒煙を噴き始め、西に向かって長く尾を引きながら、武岡方面に墜落した光景は、いまだに私の眼底に残っている。
敵機は田上に墜落して、乗務員はけなげにも焼死していた。飛行機の残骸は、その後山形屋に陳列して一般に公開し、乗務員の遺体は草牟田墓地に仮埋葬したが、戦後米軍が進駐し、火葬に付して米国に運んだ。

翌日の『鹿児島日報』に掲載された軍の発表
「敵機動部隊は九州南方海面に出現、その艦上機は18日6時過ぎより主として九州南部、及び東部地区に波状的に来襲しつつあり。敵は主力をもって九州南部及び東部地区のわが飛行場を狙って波状攻撃。一部をもって四国、和歌山に来襲、午前中の敵機は延べ1,400機である」

この空襲で、死者6人・負傷者59人、輸送船1隻、航空隊建物の大半を消失しました。
軍関係の人員や施設だけが被害を受けたのでした。

■ 4月8日の空襲
昭和20年4月8日、この日は日曜日のこと。
午前10時30分、アメリカ軍数十機が鹿児島上空に出現、田上町方面に爆弾投下。
爆発が起こってから、空襲警報のサイレンが鳴ったそうです。
続いて騎射場、平之町、加治屋町、東千石町、新照院町などから黒煙が上がり、火事も発生しました。
この日、米軍機が投下した爆弾は大型200キロ爆弾60個ほどでした。

この空襲によって田上町、下荒田町、平之町、加治屋町、東千石町、西千石町、新照院町が被害を受けました。
被災戸数2593戸、12372人が家を失ってしまいました。
死者587人、負傷者424人。

この空襲で、田上・八幡・山下校と市立高女、水道3ヶ所が被害を受けました。
電車は、「柿本寺−高見橋」「騎射場−鴨池」「二軒茶屋−脇田」の間が被害を受けたそうです。

【 勝目清回顧録より 】
勝目清回顧録では、被害状況がより詳細に記述されています。
「下荒田の竹迫温泉がやられた。入浴中のことで大混雑し、天保山方面から市立高等女学校へかけて爆弾が落ち、女学生数人が即死した。千石馬場ザビエル教会にあった憲兵隊もやられた。裁判所長の官舎が加治屋町にあったが、一家全滅し、平之町町内会長、山野田一成氏も爆死された」

【 あれから十年 】
鹿児島市戦災記録「あれから十年」という書物には、当時鹿児島市で最も規模の大きかった防空壕に関する話を掲載しています。
「その頃、城山の麓には、避難用の防空壕が数十ヶ所作られていたが、なかんずく、新上橋鉄橋際から照国神社の横にT字型に掘られた横穴壕はその規模大なること市内において代表的なものであった。最初の爆音に驚き、その壕に待避したもの数百を数え、所もあろうにその入口に250キロ爆弾の直撃を受け、数十人が生き埋めになったのも、その日の悲惨な出来事であった。」

空襲後、岩切鹿児島市長は市民に警告を発し、このくらいのことに屈することなく、ますます奮起すべき旨を注意したそうです。
しかし、一般市民の不安は増すばかりでした。
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2014年03月25日

防空壕の話

■ 鹿児島市内の防空壕つくり
アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による大規模空襲が現実のものとなってくると、昭和19年頃から学校の校庭や強制疎開跡の空き地、個人宅内などに防空壕がつくられるようになってきました。
鹿児島市内でも、個人住宅の空き地に防空壕をつくる人や、空き地を持たない人々が共同防空壕をつくる人たちもいました。

鹿児島市では、城山や武岡などの岡の下に公共防空壕を掘らなければならなくなったそうです。
それぞれの町に防空壕の位置を指定して、町の人々が横穴を掘ることになっていました。
防空壕は、爆風の被害を考慮して、「コの字型」に掘らなければなりません。
この作業には、国からの補助が出ることになっており、鹿児島市では経費の心配をせずにすんだそうです。

他県で横穴防空壕を掘ろうとすると、たいてい岩石であったため作業がなかなか進まなかったそうです。
ところが鹿児島の場合、シラスという柔らかい土のため素人でも掘れるうえ、簡単に掘り進めることができました。
あまりに早く掘り進められるので、本省では鹿児島の防空壕づくりに不信の目で見ていたようです。
後日、本省から視察に来て、シラス土壌を認識すると補助費がたくさん出るようになったそうです。

■ 城山のT字型防空壕
鹿児島県庁は、岩崎谷への通路に沿って横穴を掘ってました。
鹿児島市は、市役所機能だけでなく郵便局、銀行、その他の機関まで横穴に立てこもることを考えていました。

そこで、照国神社横から新照院町山手に直線で200メートルくらいのトンネルを掘り、新照院町電車停留所からT字型に300メートルほど掘る計画を立てました。
この2つの横穴をつないで幹線とし、左右に横穴を作って市役所・郵便局・銀行・その他の機関が入る予定であったそうです。


起工式は、昭和19年9月15日に執り行われました。
工事は進み、照国神社から新照院町土橋家土地へのトンネルは貫通しましたが、電停停留所からのものは200メートル掘り進められたところで終戦となってしまいました。
鹿児島市近郊の山麓には、無数の防空壕が掘られましたが、城山のものはもっとも大きく複雑なものでありました。

照国神社横からのトンネルは、終戦後塞がれてしまいました。
勝目清さんは戦後、このトンネルを道路に改造しようと考えていたようです。

各町に割り当てた横穴防空壕は、割と早く完成して避難訓練も度々行っていました。
防空壕は、それぞれの町から相当離れていたため、よほど早く警報を出さなければ間に合わないというものであったそうです。
そうした防空壕は、あまり役に立たなかったそうです。

終戦後、これらの横穴はすべて塞がれました。
しかし、家を失った人々のなかには横穴を掘りだして住居とする人たちもいたそうです。


■ 空 襲
昭和20年に入ると、アメリカの飛行機が頻繁に来襲しはじめ、主要都市が爆撃を受けるようになりました。
2月15日に、16・17日は関東方面や静岡が空襲の被害を受けました。
3月10日夜半、初めて東京が夜間空襲を受けました。
3月17日、硫黄島の日本軍が最後の総攻撃を行い、全滅。

こうしたなか、3月18日早朝、鹿児島市に空襲警報が鳴り響きました。
午前8時ごろ、グラマン戦闘機隊が桜島上空に鳥のように出現、太陽を背にして飛来してきました。
この攻撃で鹿児島航空隊から、黒煙が上がりました。
日本軍も応射、一機のグラマンが航空隊上空で黒煙を吹き始め、武岡方面に墜落しました。

間もなく城山上空に敵機が現れ、航空隊に向かって機銃掃射をおこないました。
この戦闘で、航空隊の建造物の大半が焼失しました。
この空襲は軍の施設だけが被害を受けました。

墜落したグラマンは田上に墜落し、パイロットは焼死していたそうです。
飛行機の残骸は、その後、山形屋で陳列され一般に公開されました。
乗務員の遺体は、草牟田墓地に仮埋葬されました。
終戦後、米軍が進駐してくると遺体を掘り出し、火葬にしてアメリカに運んだそうです。

この後、鹿児島市は3月18日から8月6日まで8回にわたる空襲を受けることになります。
この間、鹿児島市への直接攻撃をおこなわず、鹿児島上空を通過する米軍機も多かったようです。
沖縄戦終了以後、B29の編隊は毎日、鹿児島上空を通過し、米軍機を見ない日はないほどであったそうです。



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