2023年03月18日

櫻島爆発紀念碑の碑文

 せんだって、桜島爆発記念碑の問い合わせがあった。照国神社の大鳥居前に建つ碑である。10年も前に書いた記事のため、内容をすっかり忘れていた。あらためて碑を訪れてみた。
『櫻島爆發紀念碑』と彫られた碑が、大鳥居の近くに建っている。


sakurajimakinenhi1.jpg

 碑の裏に文字がびっしりと彫られている。漢字は旧字体。しかもうんざりするほどの文字数である。写真に撮って文字を起こしたのだが、そのままにしていた。読み直すと、大正3年1月12日に発生した桜島爆発の様子が簡潔に記されている。余計な表現はない。

sakurajimakinenhi2.jpg


 この碑は、のちに地震の神様と呼ばれる今村明恒の提言によって建てられたそうである。
『桜島大噴火記念碑〜先人が伝えたかったこと〜』で、紹介されている。

 櫻島の大正爆發は、著明な前兆を伴っていたのであるから、多少文献の心得だにあったら、之が豫知は容易であったのであるが、土地の識者の中にも、この點に着眼した者が無かったのは遺憾である。(途中省略)單に災害豫防上から見れば、適當な文献を後世に残すことに依っても、其の目的が達せられるであろう。

 碑文は、今村博士の提言をもとにしているそうである。『桜島大噴火記念碑〜先人が伝えたかったこと〜』に、提言が記載されているので関心のある方は読まれてください。
『櫻島大爆震記』を合わせて読まれると、良いと思う。同書は写真も豊富で良書なり。

 碑文をすべて記すと、うんざりするため一部の紹介にとどめる。碑文はこう始まる。

 大正三年一月十二日櫻島大ニ爆發ス之ヨリ先我邦ノ火山相次デ活動シ霧島數々噴火セリ識者謂フ櫻島亦警(いまし)ムベシト・・・

 桜島が大爆発を起こす前に、各地の火山は活発な活動をしていたようである。霧島も噴火とある。何らかの関係があるかもしれない。碑文は、爆発の様子や地震、デマなどについても記している。碑文に、気になる記述がある。

 海水ノ激増ハ沿岸ノ田園ヲ海トナシ夏秋ノ候更ニ土地ノ沈降ヲ促セリ

 勝目清氏の著作だったと記憶する。桜島爆発以後、鹿児島市内の塩田が使えなくなったとの記述があった。関係があるかもしれない。

 碑文の作者が、もっとも伝えたいと考えている一文がある。

 蓋(けだし)百年ノ後又此ノ如キ爆破ナキヲ保(やすん)セズ為メニ概況ヲ記シテ不朽ニ傳フ庶幾(こいねがわ)クハ今回罹災ノ不幸ヲ弔シ併テ後世永ク追憶シ以テ未來ノ惨禍ヲ軽減スルノ資タラシメンコトヲ

 先人たちは記録を残し、後世の人々に伝えようと真剣であった。国会では、行政文書をめぐってすったもんだしている。先人たちに見習うべきである。

■参考文献
『桜島大噴火記念碑〜先人が伝えたかったこと〜』岩松暉・橋村健一 (有)徳田屋書店2014年)
『櫻島大爆震記 改定復刻版』(南日本新聞開発センター2014年)
『神奈川県震災誌』(神奈川県・昭和2年)
『鳥取地震概報』(中央気象台・昭和18年)
『東南海大地震調査概報』(中央気象台・昭和19年)
posted by 山川かんきつ at 06:38| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月03日

~奈川縣震災誌

 毎年9月1日ともなると、地震に関する報道があったのだが、今年は寂しいほどだ。パラリンピックとコロナウイルス、衆議院選挙などで話題に事欠かぬのかもしれない。
今年4月に、NHKの映像の世紀プレミアム「東京破壊と創造の150年」を見た。関東大震災が取り上げられ、新たに発見された映像が紹介されていた。火災旋風で多大な被害者を出した旧陸軍被服廠跡の映像であった。生々しい被害状況が映し出されていた。
これからも、惨状を写した映像が発見されるかもしれない。

 筆者のように鹿児島の地方にいると、関東大震災といえば東京府の被害状況ばかりを目にする。同地震の震源地は相模湾とされているから、神奈川県の被害はどうだったろうかと考える。国立国会図書館のサイトで、昭和2年に刊行された『~奈川縣震災誌』を見つけた。
同書の第1章概説で、次のように記している。

kanagawa earthquake1.jpg
 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 大正十二年九月一日に関東一帯の野を震はせる大震災は、其範囲、一府六縣の廣きに渉れるが、其の最も被害の多かりしは、實に我が~奈川縣なりき。

 ここで言う、「一府六縣」は東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城のこと。東京と神奈川については、少しばかり見聞きしている。だが、残る5県については聞いたことがない。ご当地では知られているのでしょうが・・・。
同誌は、関東大震災より前に被った自然災害と大規模な火災を伝えている。

 浦の苫屋に立迷ふ烟淋しき久良岐郡の漁村をして、一躍日東帝國の開港場となし、世界の貿易港となさしむるに至れり。六十餘年の歳月中、時に災害の□れるものなきに非ず。
横濱大火 慶應2年、明治6年、21年、26年、32年
暴風雨  明治3年、6年、13年、17年、20年、23年、35年

被害状況
『~奈川縣震災誌』は、地震による被害状況についてこう記す。

 さしも宏麗殷賑なりし横濱市は六十餘年の間に造り上げたる文物を取りて一期に破壊したり、僅かに残るものとては一望限りなき焦土のみなりき。花晨月夕(かしんげっせき)に歓楽の影を趨ひたる避暑地も温泉地も或は潰れ或は崩れて、見る影もなき姿となれり。獨り震災のみならず、多くは火災を伴ひて破壊に加ふるに焼失を以てし、又海岸地方に在りては、往々海嘯をさへ被るの惨状見るに至れり。

 同県では、建物の倒壊だけでなく大規模な火災が発生したこと。また海岸地帯では津波が発生したことが分る。また、人心不安が高まっていたらしく流言飛語が広がっていた。また、東京府内と同じように自警団まで結成された旨の記述もある。

 戒厳令の發布ありて、警備は厳重を極めたれど、流言蜚語は山間僻陬(さんかんへきすう)の地にまで暄傳(けんでん)せられ、各處に自警團を設け武器を携へて往來し、關(せき)を作りて行人を誰何し、事態頗る穏やかならざるものあり、幸にして横濱市内に於ける残存外米と、大阪府、兵庫縣よりの糧食輸送敏速なりしを以て、秩序の回復に便を得たり。

 同書の統計によると、死者29,614人・行方不明2,245人・重傷6,188人。大きな被害である。同書のほかに、『関東大震災鉄道被害写真集 惨状と復旧 一九二三〜二四』にも目を通した。全編写真のみの構成になっている。道路が亀裂をおびたまま盛り上がったり、橋脚が破壊されたりなど、惨憺たる状況である。とくに、「茅ヶ崎平塚間馬入川東京方面ヨリ見タル橋梁潰滅ノ光景」と題された6枚の写真では、橋梁被害が夥しい。架かっていたはずの線路がない。また、残された線路は歪曲にねじ曲がりつつ持ちあがっている。
『~奈川縣震災誌』にも写真が掲載されているのだが、土地勘がないため被害状況だけを見るだけである。残念なことなり。

 『~奈川縣震災誌』に、驚くべき写真がある。「横須賀軍港に於ける重油の火災により軍艦榛名避難出港の状況」と題された写真である。

yokosuka1.jpg
 (国立国会図書館デジタルコレクション)

 海軍の軍港だけに機密性が高かったろうに、よく掲載できたものである。感心する。
横須賀の被害状況について、作家の内田百閧ェ随筆「進水式」に記している。百關謳カは当時、横須賀の海軍機関学校でドイツ語を教授していたらしい。当地の被害も大きかったようである。

 大正十二年の大地震の後、惨禍の最も甚だしかった横須賀の様子が見たくて、九月下旬にやっと鐡道が動き出すのを待ち兼ねて、私は朝の汽車で出かけた。(途中省略)
 横須賀に着いた時、驛の前の廣場を過ぎて、すぐ崖の下の狭い道にかかる所の様子が變ってゐた。暗い筈の道が妙に明るかった。見上げる崖の山の姿がすっかり變ってしまって、高さがもとの半分にも足りなかった。大地震が、横須賀の自然を變へてしまったのである。

 『~奈川縣震災誌』は、かなり詳しく震災の被害状況を記している。そこには、編集者たちの思いが込められているようである。同書の緒言に記されている。

 此災害應急の處置、救護復舊(旧)の委曲を記録して、對災處務上萬一の日の参考に資するは、古來の成例なり。庶(こいねがわ)くは、當時惨悽(さんせい)の光景を目覩(もくと)し、引續き復舊復興に努力したる跡の生ける記録として、本稿も、亦異日の考覈(こうかく)に資するに足るものあらん歟(か)。

 当時の神奈川県のお役人は、記録を残し次代につなげようと考えていたようだ。記録に対して真剣であった。戦前・戦中と戦後は変わらないものがあると、指摘する研究者がある。記録の作成、保存に関しては、終戦直後あたりから変わったのかもしれない。

■参考文献
『~奈川縣震災誌』(~奈川縣・昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション
『関東大震災鉄道被害写真集 惨状と復旧 一九二三〜二四』(東京鐡道局写真部・吉川弘文館2020年)
「進水式」(内田百閨E『百鬼園随筆』所収、新潮文庫 2002年)
posted by 山川かんきつ at 15:42| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月30日

大正2年6月29日の地震

 東日本大震災を伝える新聞記事を読んでいるうちに、鹿児島の地震について考えた。筆者が記憶する地震は、熊本地震発生時の揺れと平成29年7月11日の揺れとの2回しかない。そこで、『鹿児島県災異誌』(鹿児島県・鹿児島地方気象台、昭和42年刊)を開いた。
明治時代以降に発生した地震を下に記した。

 明治26年9月7日 知覧
 明治27年1月4日 川辺
 明治42年1月5日 鹿児島市
 明治42年11月10日
 明治44年6月15日 奄美大島
 大正2年6月29日 鹿児島市、日置郡市来村
 大正3年1月12日 鹿児島市
 大正4年7月14日 吉松栗野地方
 大正12年7月13日 種子島
 昭和6年11月2日 日向灘 
 昭和33年5月26日 薩摩半島西方沖

 大正3年に発生した地震は、桜島が大爆発後の午後6時29日に起こった。気象庁の資料「平成29年7月11日 鹿児島湾の地震(周辺の過去の地震活動)」によると、地震の規模を表すマグニチュードは7.9であったそうだ。
その前年、大正2年6月29日にも鹿児島湾を震源とする地震が発生していた。
『鹿児島県災異誌』は、次のように記している。
 
 発震時、午後5時23分、震源地は鹿児島湾付近の東経130.5度、北緯31.7度、日置郡市来村湊町にては断崖崩落し、厩舎1棟倒れたり。又鹿児島市内振子時計停止し、住宅及土蔵の壁の崩壊1カ所、日置郡永吉村では土砂崩壊により家屋1棟圧迫す。(験震時報)

 当時の新聞、鹿児島新聞をめくってみた。大正2年7月1日付に地震に関する記事が掲載されている。記事は3本で構成されている。

震源地は湾内 約五里の地点
 二十九日午後五時二十二分急激なる微動起り一秒時を経て弱震となり直ちに最大水平動全振幅幅八厘六毛其周期零秒三を現はし爾後二十秒時間は著明なる急振動を継続し一分三十秒時間を経て制止せり(途中省略)其の後の続震は都合十一回に及び就中六時三十六分仝三十七分及ひ仝(同)九時二十五分の三回は稍顕著なり其他は皆至極微なりし

鹿児島測候所の報告も掲載している。

 廿九日午後五時廿二分最初の弱震以来大小地震頻発し総計十五回に及び第十六回は即ち三十日午後四時五十分の強震にして前日来の地震は総て此の強震の前震と見做すべき者なり

 同紙は翌日の30日に、大きな揺れ(強震)が2回あったことを記している。

 強震頻々として到る 昨日二回の強震
 三十日の如き二回の強震あり最後の午後四時五十五分の地震の如き頗る猛烈にして市内陶器店並に硝子工場の如き多少被害ありたる模様なるが尚ほ西田町常盤日枝神社の後方の崖の如き亀裂を生し崩壊せりと云へるが(以下省略)

 鹿児島新聞の記事を整理してみる。
6月29日
 午後5時22分、6時36分、6時37分、9時25分
6月30日
 午後4時50分、4時55分
 
 新聞記事によると、6月30日に発生した2回の揺れは、相当大きかったようである。この日の揺れが、本震だったかもしれない。
前述の「震源地は湾内 約五里の地点」には、気になる記事が掲載されている。

 鹿児島附近に於ては斯かる局發地震の前例に乏しからず則ち(明治)三十二年六月及三十八年三月の如きは二十回内外頻發せしことあり(以下省略)

 『鹿児島県災異誌』には記されていないが、明治32年6月と明治38年3月にも揺れが頻発していたようである。
また、「鹿児島附近に於ては斯かる局發地震の前例に乏しからず」の記述は、非常に気になる。まだ、他にあるのではないか。
大正2年6月29日から30日にかけて発生した地震は、翌年1月12日の地震の前兆だったかもしれない。これは、筆者の勝手な想像である。

■参考文献
『鹿児島県災異誌』(鹿児島県・鹿児島地方気象台、昭和42年刊)
「平成29年7月11日 鹿児島湾の地震(周辺の過去の地震活動)」気象庁ホームページ
ラベル:地震  鹿児島
posted by 山川かんきつ at 16:21| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする