2014年12月11日

垂水丸の顛覆

これまで数回、海難事故をとりあげてみましたが、今回は昭和19年2月に発生した垂水丸について。
この事故は垂水の沖合約200mのところで起きた転覆遭難で、446人の死体があがり、2人が行方不明となったものでした。
ただ、大幅な定員オーバーで出港したため、正確な数は分かっていないようです。
しかし、この事故は日本海難事故史上2番目といわれるほどの大惨事でありました。
民心を動揺せしめるという理由から、報道管制が敷かれたため事故の詳細をつかめていないようです。

■ 垂水丸
昭和19年2月6日午前9時55分のことです。
垂水汽船所有の第六垂水丸122トン・定員350名が、乗客およそ700名以上を乗せて垂水港を出発。
桟橋を離れ、エンジンを前進に切り換え鹿児島に向けて転舵。
船体は傾き復元できず、ついに横倒しとなってしまいました。
さらに半転、赤い船底を海面に出すと、出向直後の桟橋はたちまち修羅場と化したのでした。

転覆と同時に上甲板にいた人は海に放り出され、岸まで泳ぐ人、漁船に救助された人もありました。
しかし、船室内にいた殆どの人たちは脱出できず命を落としてしまいました。

当時、「ガソリン一滴は、血の一滴」というスローガンのもと、自動車は木炭ガスで走り、船は航海数を極限まで制限させられていました。
また、この日はちょうど鹿屋・垂水に航空隊が、鹿児島市に西部十八部隊、県内に積兵団が駐屯していました。
関係者や応召兵の面会人などで人の往来が多く、そのうえ日曜日であったことから垂水丸は船室から上甲板まで超満員であったそうです。

船長以下船員たちは、定員以上の乗船は危険と知っていました。
しかし、日限に制約のある応召軍人などのため、少々の定員超過は公認とされていました。
定員350名の船に倍以上の700名を超える人々が乗船したことで、垂水丸は転覆してしまったのでした。
先にも触れましたが、戦時中のこともあり、正確な遭難者の数が発表されることはありませんでした。
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2014年12月08日

黒島流れ 明治28年7月24日

明治28年7月24日、鹿児島の海難史上、最悪で最大の事故が枕崎で起こりました。
この災難は「黒島流れ」または「六月流れ」とも呼ばれました。
枕崎は遠洋漁業発祥の地でしたので、昔から漁船の遭難はつきものでした。
明治時代に発生した大きなものだけでも、明治6年・17年・38年がありました。
しかし、明治28年に発生したものは、被害の規模は桁外れでした。

当時、南薩一帯の漁場は枕崎沖の黒島や宇治群島に集中していたそうです。
折からの鰹シーズンに入っており、漁船の殆どが海に出ていました。
残っていたのはわずかに片浦の半五郎船一隻だけでした。
半五郎船は、たまたま修理の最中で出漁できず、結果的に難を逃れることができたのでした。

災難の発生した日は、北東風の大漁日和でした。
が、午前10時頃、急に南東の強風に変わりました。
台風は西南海上で急速に発達、黒島付近を通過すると猛スピードで対馬海峡を抜けていきました。
このときの状況が枕崎警察署沿革史に掲載されているようすが、ここでは『鹿児島百年明治編』のものを記してみました。

「明治28年7月24日暴風あり。陸上の損害特筆すべきものなし。海上の椿事は聞くだに旋律措く能わざるものあり。これ実に509人の生霊を海底に葬りたる惨事にして、即ち東南方村枕崎、中村吉次郎外12人の所有漁業帆船13隻は出漁中、大島郡黒島近海に於いて風波のため難破し、溺死を遂げたるもの360名、同村小湊篠原益雄外2名の鰹漁業帆船3隻、また同海に於いて風波のため破船し、溺死を遂げたる者99名、西南方村泊、早水直次郎外2名の鰹漁業帆船3隻、なお黒島近海において破船し溺死を遂げたる者50名以上の死体は大部分黒島に漂着したるを以て、

南方警察分署長伊集院警部は、同島へ出張し検視をなしたるも、腐乱に近き数多の死体は其誰たるを識別するに由なく、山なす死体は石油を注ぎ焼却し、遭難者の遺族はその骨灰を分配して土葬をなしたり。
これを称して黒島流れといい、東西南方村に寡婦多きを見るはこれに基づくもの多し」

【 被害状況 】
難破した船の乗組員のなかには、黒島に泳ぎ着いたり外国船に救助された者もあったようです。それは本当にわずかでありました。
そうして、坊津165名・枕崎411名・野間池と片浦137名の計713名の命が海に飲まれてしまいました。
黒島には死体が折り重なるようにして、毎日のように打ち寄せられたそうです。
2つの悲運が重なってしまいました。
ひとつは県庁への急報が遅れたこと。もうひとつは、当時鹿児島港に救助用の汽船がありませんでした。やむなく海軍省に電報を打ち、おりから入港中の軍「海門」が現場にむかいました。
海門が現場に向かったのは、4日後の28日、すべてが遅すぎたのでした。

この大惨事に、明治天皇は枕崎・坊泊に侍従を派遣。惨状を視察させ、下賜金を賜りました。
また、鹿児島新聞は全国に広く義援金を募った結果、二千円余が寄せられたそうです。

【 残された家族 】
カツオ漁業に従事していた人々の家族は、一瞬にして男手を失い、生計の道を断たれてしまいました。
残された女たちに“人手を借りず、強く生き抜け”と励ました人物がいました。
大願寺の住職、兼広鏡真という人でありました。
当時の船主はたいてい鰹節製造も兼ねていたため、遺族救済のため彼女たちに販売(カツオ節バラ売行商)いっさいを任せることにしました。

カツオ行商は主として、枕崎の小湊地区の婦女子が多かったそうです。
当時、この一帯は大願寺の門徒が多かったからであると考えられているようです。
軒先を回る彼女たちは、「かつお節どま、おいいやはんどかい〜」と言いながら、7・80sの荷を担いで鹿児島だけでなく九州一円を回っていたそうです。
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2014年12月05日

明治45年6月15日の水害

明治44年、鹿児島市は6月と9月に2つの台風に襲われ大きな被害が発生しました。
およそ1年後の明治45年6月15日鹿児島市は大雨に襲われました。
この大雨によって甲突川と稲荷川が氾濫、西田・草牟田方面で258戸が浸水しました。
この水害の様子が、「鹿児島市史(大正5年)」に記されていました。

明け方から雨強く、正午を過ぎた頃から車軸を流すような大雨となりました。
強い雨が3時間ほど降り続いたため、甲突川は氾濫。
新上橋付近から西田方面へ濁流が流れ出し、武の田圃は湖水のようになりました。
草牟田町では堤防から水が溢れ出し、家屋は浸水し国道は急流のようになりました。
大雨によって、稲荷川も氾濫。濁流が上町一帯を襲いました。

鹿児島市は各地に職員を派遣して、被災者の救護にあたりました。
また警察と協力して西田町に2隻の船を浮かべ、通行人の保護に当たるなどしたそうです。
この水害で犠牲者はありませんでしたが、水に浸かった家屋は666戸にのぼりました。
家屋浸水が発生したのは、西田・鷹師・薬師・新照院・草牟田・池之上・皷川の七町・
市は被害に遭った200世帯に、白米8斗を支給したそうです。
被害状況は次の通り。

【 被害状況 】
床上浸水423戸・床下浸水234戸。
堤防の決壊1ヶ所、堤防の破損1戸
道路の破損30ヶ所
山崩れ2ヶ所

海老原清熙のメッセージ
明治に入ると台風や大雨のたびに甲突川が氾濫、そのたびに川沿いの町は水浸しとなりました。
甲突川の氾濫や水害は、明治初期には見られていたようで、当時冷静に見ていた人物がありました。海老原清熙といいます。
江戸時代、調所笑左衛門のもとで天保改革を実践した人物でありました。
海老原は「海老原清熙履歴概略」という文書を明治15年に著していますが、“城下河川洪水ト岩永三五郎ノ教訓等ノ事”のなかで次のように記しています。

「甲突川橋々を架し終わり、小野村・原良永吉村・伊敷村・犬迫村等より出る小川の水流堤防皆修繕し、新田溝の小川も小太鼓橋を架し、西田村水吐等皆修繕して、右の村々山野の川に沿ひたる所は開拓を禁じ、竹木を植えて修繕の要に供すべしと令じたるは、沿川の開地は雨ごとに土砂を洗い出し、川床高くなり水害となることなれば、後年にいたりこれを禁ずべしと岩永が言うことにて、それ村々へ堅く禁じたる。

御一新の際より山林開拓ということ流行して、山野皆開の法行われ、川下の浚えは廃し、川底の高くなりたるゆえ、新屋敷より沖ノ村辺りの害を生じたり。
それより遡らば新上橋辺西田みな水害を及ぼし、天神馬場・二本松馬場・山ノ口馬場・加治屋町・新屋敷、従前の溢れたる比よりも一層水難に及ばんかと思うことなり。」

海老原の指摘は、現代にも強いメッセージ性を持っているように思われます。
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