毎年9月1日ともなると、地震に関する報道があったのだが、今年は寂しいほどだ。パラリンピックとコロナウイルス、衆議院選挙などで話題に事欠かぬのかもしれない。
今年4月に、NHKの映像の世紀プレミアム「東京破壊と創造の150年」を見た。関東大震災が取り上げられ、新たに発見された映像が紹介されていた。火災旋風で多大な被害者を出した旧陸軍被服廠跡の映像であった。生々しい被害状況が映し出されていた。
これからも、惨状を写した映像が発見されるかもしれない。
筆者のように鹿児島の地方にいると、関東大震災といえば東京府の被害状況ばかりを目にする。同地震の震源地は相模湾とされているから、神奈川県の被害はどうだったろうかと考える。国立国会図書館のサイトで、昭和2年に刊行された『~奈川縣震災誌』を見つけた。
同書の第1章概説で、次のように記している。

(国立国会図書館デジタルコレクション)
大正十二年九月一日に関東一帯の野を震はせる大震災は、其範囲、一府六縣の廣きに渉れるが、其の最も被害の多かりしは、實に我が~奈川縣なりき。 ここで言う、「一府六縣」は東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城のこと。東京と神奈川については、少しばかり見聞きしている。だが、残る5県については聞いたことがない。ご当地では知られているのでしょうが・・・。
同誌は、関東大震災より前に被った自然災害と大規模な火災を伝えている。
浦の苫屋に立迷ふ烟淋しき久良岐郡の漁村をして、一躍日東帝國の開港場となし、世界の貿易港となさしむるに至れり。六十餘年の歳月中、時に災害の□れるものなきに非ず。横濱大火 慶應2年、明治6年、21年、26年、32年
暴風雨 明治3年、6年、13年、17年、20年、23年、35年
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被害状況『~奈川縣震災誌』は、地震による被害状況についてこう記す。
さしも宏麗殷賑なりし横濱市は六十餘年の間に造り上げたる文物を取りて一期に破壊したり、僅かに残るものとては一望限りなき焦土のみなりき。花晨月夕(かしんげっせき)に歓楽の影を趨ひたる避暑地も温泉地も或は潰れ或は崩れて、見る影もなき姿となれり。獨り震災のみならず、多くは火災を伴ひて破壊に加ふるに焼失を以てし、又海岸地方に在りては、往々海嘯をさへ被るの惨状見るに至れり。 同県では、建物の倒壊だけでなく大規模な火災が発生したこと。また海岸地帯では津波が発生したことが分る。また、人心不安が高まっていたらしく流言飛語が広がっていた。また、東京府内と同じように自警団まで結成された旨の記述もある。
戒厳令の發布ありて、警備は厳重を極めたれど、流言蜚語は山間僻陬(さんかんへきすう)の地にまで暄傳(けんでん)せられ、各處に自警團を設け武器を携へて往來し、關(せき)を作りて行人を誰何し、事態頗る穏やかならざるものあり、幸にして横濱市内に於ける残存外米と、大阪府、兵庫縣よりの糧食輸送敏速なりしを以て、秩序の回復に便を得たり。 同書の統計によると、死者29,614人・行方不明2,245人・重傷6,188人。大きな被害である。同書のほかに、『関東大震災鉄道被害写真集 惨状と復旧 一九二三〜二四』にも目を通した。全編写真のみの構成になっている。道路が亀裂をおびたまま盛り上がったり、橋脚が破壊されたりなど、惨憺たる状況である。とくに、「茅ヶ崎平塚間馬入川東京方面ヨリ見タル橋梁潰滅ノ光景」と題された6枚の写真では、橋梁被害が夥しい。架かっていたはずの線路がない。また、残された線路は歪曲にねじ曲がりつつ持ちあがっている。
『~奈川縣震災誌』にも写真が掲載されているのだが、土地勘がないため被害状況だけを見るだけである。残念なことなり。
『~奈川縣震災誌』に、驚くべき写真がある。「横須賀軍港に於ける重油の火災により軍艦榛名避難出港の状況」と題された写真である。

(国立国会図書館デジタルコレクション)
海軍の軍港だけに機密性が高かったろうに、よく掲載できたものである。感心する。
横須賀の被害状況について、作家の内田百閧ェ随筆「進水式」に記している。百關謳カは当時、横須賀の海軍機関学校でドイツ語を教授していたらしい。当地の被害も大きかったようである。
大正十二年の大地震の後、惨禍の最も甚だしかった横須賀の様子が見たくて、九月下旬にやっと鐡道が動き出すのを待ち兼ねて、私は朝の汽車で出かけた。(途中省略)
横須賀に着いた時、驛の前の廣場を過ぎて、すぐ崖の下の狭い道にかかる所の様子が變ってゐた。暗い筈の道が妙に明るかった。見上げる崖の山の姿がすっかり變ってしまって、高さがもとの半分にも足りなかった。大地震が、横須賀の自然を變へてしまったのである。 『~奈川縣震災誌』は、かなり詳しく震災の被害状況を記している。そこには、編集者たちの思いが込められているようである。同書の緒言に記されている。
此災害應急の處置、救護復舊(旧)の委曲を記録して、對災處務上萬一の日の参考に資するは、古來の成例なり。庶(こいねがわ)くは、當時惨悽(さんせい)の光景を目覩(もくと)し、引續き復舊復興に努力したる跡の生ける記録として、本稿も、亦異日の考覈(こうかく)に資するに足るものあらん歟(か)。 当時の神奈川県のお役人は、記録を残し次代につなげようと考えていたようだ。記録に対して真剣であった。戦前・戦中と戦後は変わらないものがあると、指摘する研究者がある。記録の作成、保存に関しては、終戦直後あたりから変わったのかもしれない。
■参考文献
『~奈川縣震災誌』(~奈川縣・昭和2年)国立国会図書館デジタルコレクション
『関東大震災鉄道被害写真集 惨状と復旧 一九二三〜二四』(東京鐡道局写真部・吉川弘文館2020年)
「進水式」(内田百閨E『百鬼園随筆』所収、新潮文庫 2002年)
posted by 山川かんきつ at 15:42|
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