朝日新聞は毎月一回、戦争体験者からの投稿が特集で組まれる。「語りつぐ戦争」である。今月20日付の同紙に、戦争体験が寄せられた。投稿者の年齢は、80代後半から90代。どれもこれも貴重な証言である。今回は戦争体験にまつわる話ではない。
紙面の最下段に掲載された「あの日あの時 過去の投稿から」に関する話題である。これもまた、月にいちどの連載である。
題名には過去の投稿とあるが、これまでの記事は大正、昭和初年頃のものである。昔の庶民たちに触れられる感じがして、掲載を心待ちにしている。
今回は、地名の呼び方が変ったことに対する批難の投稿である。いずれも昭和2年に掲載された記事なのだが、おもしろかった。
■アキハバラ
ペンネーム、無腸居士寄さんは秋葉原に関する投稿である。
「鉄道省はアキハバラを本来の呼唱たるアキハノハラに改むべきである。どこを捜したってアキハバラなんてところがあるものぢやない」
ペンネーム積水生寄さんが、上の投稿に反応している。長野県の人である。
「小生も不快感をもって居る。我長野県下を見ても、カルヰサハ(軽井沢)をカルイザハと濁らせた。製糸で有名なヲカノヤ(岡ノ谷)をヲカヤとした。地名は固有の歴史があってそれがやがて大日本の歴史の一部になって居る訳で、独断で清(す)ませたり濁したり出来まい。駅名制定の主義を承りたい」
投稿を読みながら、鹿児島市の町名を考えた。以前、「加治屋町の読み方」「下荒田町の読み方」と題して書いた。
■加治屋町と下荒田町
『勝目清遺稿集鹿児島つれづれ草』に、「加治屋町の呼び方」と題する随筆がある。勝目清さんは、元鹿児島市長。明治27年生まれである。
私は七十七歳ですが、若いころから「カンヂャマッ」と呼んでいました。「カジヤチョウ」とは言いませんでした。いつごろからともなく「カジヤチョウ」と呼ぶようになったのではありますまいか。加治屋町の呼び方は、鹿児島語では「カンジャマッ」、標準語では「カジヤマチ」と呼ぶのが固有の呼び方であります。
以前、市電停留所は柿本寺通りと呼んでいたのを、西郷、大久保両先輩に縁故深い加治屋町と呼ぶことに変更したとき、昔のとおり「カジヤマチ」と呼ぶようにしたもらったのであります。
筆者が小学生の頃、市電に乗ると「カジヤマチ」と運転手さんが呼んでいたように記憶している。今は、「カジヤチョウ」である。電停の標識にローマ字で書かれている。
「柿本寺」という地名も、今では建物の名前として残されているばかりのようだ。
勝目さんは加治屋町だけでなく、下荒田町についても述べている。
似たようなことが下荒田町にもあります。下荒田もいつごろからともなく「シモアラタ」と呼んでいますが、「シタアラタ」が正しい呼び方であります。上荒田「ウエアラタ」に対して「シタアラタ」が正しい呼び方であります。
勝目さんは、「シタアラタ」と断定しておられる。勝目さんのほかにも、同様のことを書かれた方がおられる。『古地図に見る鹿児島の町』の作者、豊増哲雄さんである。豊増さんは戦前・戦中、高麗町にお住まいだったそうである。「シタアラタ」と呼んでいたことを記している。拙ブログ「下荒田町の読み方」を参照くださるとありがたい。
■西田町
西田町は、城下絵図にも描かれるほどの古い町である。本来は「まち」と呼んでいたのではないだろうか、と考えていたところある本に出合った。昭和46年刊行の『西田町のあゆみ』である。
同書に「回顧特集 戦前の西田町を語る」と題した座談会の模様を記録した記事がある。座談会は、昭和45年9月23日に行われたそうである。西田町の呼び方について、吉原さんという方が貴重な話しをなさっている。
古い西田町であってそれこそ参勤交代の際は西田橋を殿様行列してここの本通りを通ったところです。それで両側に下水があって、その下水の外側に町民はみな土下座をしてお見送りをするものだったと言い伝えられておりました。これを西田町(まち)というとった。のちに西田町も西田町(ちょう)となり(以下省略)
同書では、西田町の「町」に「ちょう」「まち」と読み仮名をふっている。呼び方にこだわりがあったかもしれない。西田町は、上町(かんまち)や加治屋町などと並んで古い町である。やはり「まち」と呼んでいたのではないかと思うが、確実な証拠を筆者はまだ見いだせずにいる。
■樋之口町
『かごしま市史こばなし』は、樋之口町について次のように記している。
ここの町名のよびかたはまちまちです。たいていの人が「たいのくち」とよんでいますが、まともなよび方は「てのくち」とよびます。「たいのくち」と呼ぶのは若い人に多いようで、「てのくち」と発音する人はとよしよりに多いようです。
筆者には大正9年生まれの祖父がいた。祖父は旧塩屋町の生まれ。亡くなる前に、塩屋町や城南町など昔の鹿児島市について話をしたことがある。祖父は「てのくち」と呼んでいた。
城南町にあった火の見櫓の記憶をうっすらとではあるが、持っていた。しっかり尋ねておけばよかったと後悔している。
■参考文献
『朝日新聞』(2021年2月20日付)
『勝目清遺稿集鹿児島つれづれ草』(勝目清遺稿集編さん会 昭和48年)
『古地図に見る鹿児島の町』(豊増哲雄・春苑堂出版 1996年)
『かごしま市史こばなし』(木脇栄 昭和51年)
『西田町のあゆみ』(社団法人西田文化協会 昭和46年)
2021年02月23日
2020年10月22日
みやま池
前回、「萬福池と西郷さんの足跡」について触れた。ついでにもうひとつの言い伝えをお送りする。
萬福池から県道43号を薩摩川内市へ向かう。同市寄田町に至ると、今回触れる「みやま池」がある。

みやま池にまつわる伝説が、『川内地方を中心とせる郷土史と傳説』の「水神人身御供」に記されている。
久見崎を西南に去ること約一里、寄田の入口に可成大きい池がある。とにかく「みやま池」と呼ばれてゐる氣味悪い古池である。併(しか)し池の附近は景色は中々よい。池の周囲亥一帯は白砂と青松に蔽はれてゐる。
天気のよい日には水はきれいに澄んでゐて雨上がりには粘土と混じて朱の血をたたへたるが如く見えるのものぞっとするくらゐ氣味悪い

同書が刊行されたのは、昭和11年5月。旧制川内中學校の生徒が、学校の課題として夏休みを利用して収集した伝説である。
上に記した“みやま池”の様子は、昭和10年のことであろう。
この池には、次のような伝説があったそうである。梗概してみる。
むかし、ある殿さまがこの池で船遊びをすることになった。村の庄屋さんは、大急ぎで船を造り上げた。池に船を下ろそうと、何十人もが手がけるのだが船は動かない。庄屋さんは大いに困ってしまった。
翌日の晩、庄屋さんは不思議な夢をみた。神の使いと称する童子が現れ、こう言った。
「お前の娘に赤の装飾をさせて、その船に乗せたら船はすぐ下りる」
庄屋さんの娘はひとり。泣く泣く腹を決め、一夜を明かしたそうだ。
次の日の早朝、赤い手拭いを被り、赤い襷(たすき)をした娘が、船の真ん中に乗せられた。庄屋さんは船にさわった。
すると、船はスルスルと動き出した。船は池の真ん中あたりまで進むと、沈んでしまった。
それからというもの、夕方になると池の真ん中に赤い少女が船に乗って現れる、と言われるようになったそうである。
今日でもその池のほとりを通る者は、赤いものを着けたり、持ったりしないようになっているそうである。
この土地では池の周辺を通る際、赤いものを身につけないという禁忌が、昭和10年にはまだ残っていたらしい。
もとは、水神が赤いものを嫌うといった話に、高江の人柱伝説が影響したという見方もできるかもしれない。
民俗学的なことは分からないが、何か文献があれば目を通してみたい。
■参考文献
「川内地方を中心とせる郷土史と傳説」(『川内地方を中心とせる郷土史と伝説 西薩摩の民謡』所収(鹿児島縣立川内中学校・昭和54年再刊・歴史図書社)
萬福池から県道43号を薩摩川内市へ向かう。同市寄田町に至ると、今回触れる「みやま池」がある。

みやま池にまつわる伝説が、『川内地方を中心とせる郷土史と傳説』の「水神人身御供」に記されている。
久見崎を西南に去ること約一里、寄田の入口に可成大きい池がある。とにかく「みやま池」と呼ばれてゐる氣味悪い古池である。併(しか)し池の附近は景色は中々よい。池の周囲亥一帯は白砂と青松に蔽はれてゐる。
天気のよい日には水はきれいに澄んでゐて雨上がりには粘土と混じて朱の血をたたへたるが如く見えるのものぞっとするくらゐ氣味悪い

同書が刊行されたのは、昭和11年5月。旧制川内中學校の生徒が、学校の課題として夏休みを利用して収集した伝説である。
上に記した“みやま池”の様子は、昭和10年のことであろう。
この池には、次のような伝説があったそうである。梗概してみる。
むかし、ある殿さまがこの池で船遊びをすることになった。村の庄屋さんは、大急ぎで船を造り上げた。池に船を下ろそうと、何十人もが手がけるのだが船は動かない。庄屋さんは大いに困ってしまった。
翌日の晩、庄屋さんは不思議な夢をみた。神の使いと称する童子が現れ、こう言った。
「お前の娘に赤の装飾をさせて、その船に乗せたら船はすぐ下りる」
庄屋さんの娘はひとり。泣く泣く腹を決め、一夜を明かしたそうだ。
次の日の早朝、赤い手拭いを被り、赤い襷(たすき)をした娘が、船の真ん中に乗せられた。庄屋さんは船にさわった。
すると、船はスルスルと動き出した。船は池の真ん中あたりまで進むと、沈んでしまった。
それからというもの、夕方になると池の真ん中に赤い少女が船に乗って現れる、と言われるようになったそうである。
今日でもその池のほとりを通る者は、赤いものを着けたり、持ったりしないようになっているそうである。
この土地では池の周辺を通る際、赤いものを身につけないという禁忌が、昭和10年にはまだ残っていたらしい。
もとは、水神が赤いものを嫌うといった話に、高江の人柱伝説が影響したという見方もできるかもしれない。
民俗学的なことは分からないが、何か文献があれば目を通してみたい。
■参考文献
「川内地方を中心とせる郷土史と傳説」(『川内地方を中心とせる郷土史と伝説 西薩摩の民謡』所収(鹿児島縣立川内中学校・昭和54年再刊・歴史図書社)
2020年10月17日
萬福池と西郷さんの足あと
米軍が作成した「HASHIMA」の地図を眺めていたら、「萬av「Mampuku」と書かれていることに気がついた。
池も描かれている。今回は、その池にまつわ話である。
いちき串木野市羽島から県道43号線を薩摩川内市へ向かう途上に、「萬福池」がでてくる。

『川内地方を中心とせる傳説の研究』(昭和11年刊)で、旧制川内中學校の生徒が古老に聞いた話を記している。
千年も前、萬bフ集落は何年にもわたって飢饉が発生したそうだ。年を経るごとに村を去る人も出始めた。そこで村人は氏神様に願を掛けたところ、七日目に社の方から神の声があったそうだ。
「皆の衆よく聞け、明朝早く、此の村より半里北に行って見よ、そこに半里の池を作った」
翌朝、村人たちは神様のお告げのあった所に行ってみた。そこには、広々とした池があった。一方から水が溢れ出で、村の田圃に流れていた。半日も経たぬうちに、村の田んぼは甦ったそうだ。不思議なことに、その池は少しも水が減ることはなかった。
それからというもの、村人たちは幸福に恵まれた。そうして、この池を「萬福の池」と呼ぶようになったそうである。

現在、「萬福池」について書かれた案内板が立っている。
「萬福池は弘化4年(1847)11月14日薩摩藩直営の工事として始められました。」と案内板に書かれている。藩政期の一次史料は豊富にあるから、案内板の記述が正しいのだろう。
萬福という地名の由来譚としては、旧制中学の生徒が聞き取った話はおもしろい。
この池には、もうひとつ言い伝えが残されている。
案内板の脇に、「西郷隆盛のあしあと」と言われる石である。

それを眺めたのだが、人の足跡なのかどうかは分からない。

『川内地方を中心とせる傳説の研究』(昭和11年刊)に、この足跡に関する言い伝えが記されている。
弘化元年西郷隆盛十六歳の時、鹿児島縣日置郡串木野町羽島萬wュ池新設工事に書役として務められた。工事は完成して、今は四十三町歩の田地が立派に實つて居ます。
今其の溜池の側の石に大きい足跡が残って居ます。これは西郷さんの足跡だと言ひ傳へて居ます。

案内板によると、西郷隆盛がこの池の工事に携わったのは事実らしい。だが、十六歳ではなく二十歳であったそうだ。
伝説や昔話を読んで楽しんでいるご仁にとって、歴史的な史料から解明されると興ざめさせられる。
伝説や昔話は、あまり詮索せずに読むほうが楽しい。
池も描かれている。今回は、その池にまつわ話である。
いちき串木野市羽島から県道43号線を薩摩川内市へ向かう途上に、「萬福池」がでてくる。

『川内地方を中心とせる傳説の研究』(昭和11年刊)で、旧制川内中學校の生徒が古老に聞いた話を記している。
千年も前、萬bフ集落は何年にもわたって飢饉が発生したそうだ。年を経るごとに村を去る人も出始めた。そこで村人は氏神様に願を掛けたところ、七日目に社の方から神の声があったそうだ。
「皆の衆よく聞け、明朝早く、此の村より半里北に行って見よ、そこに半里の池を作った」
翌朝、村人たちは神様のお告げのあった所に行ってみた。そこには、広々とした池があった。一方から水が溢れ出で、村の田圃に流れていた。半日も経たぬうちに、村の田んぼは甦ったそうだ。不思議なことに、その池は少しも水が減ることはなかった。
それからというもの、村人たちは幸福に恵まれた。そうして、この池を「萬福の池」と呼ぶようになったそうである。

現在、「萬福池」について書かれた案内板が立っている。
「萬福池は弘化4年(1847)11月14日薩摩藩直営の工事として始められました。」と案内板に書かれている。藩政期の一次史料は豊富にあるから、案内板の記述が正しいのだろう。
萬福という地名の由来譚としては、旧制中学の生徒が聞き取った話はおもしろい。
この池には、もうひとつ言い伝えが残されている。
案内板の脇に、「西郷隆盛のあしあと」と言われる石である。

それを眺めたのだが、人の足跡なのかどうかは分からない。

『川内地方を中心とせる傳説の研究』(昭和11年刊)に、この足跡に関する言い伝えが記されている。
弘化元年西郷隆盛十六歳の時、鹿児島縣日置郡串木野町羽島萬wュ池新設工事に書役として務められた。工事は完成して、今は四十三町歩の田地が立派に實つて居ます。
今其の溜池の側の石に大きい足跡が残って居ます。これは西郷さんの足跡だと言ひ傳へて居ます。

案内板によると、西郷隆盛がこの池の工事に携わったのは事実らしい。だが、十六歳ではなく二十歳であったそうだ。
伝説や昔話を読んで楽しんでいるご仁にとって、歴史的な史料から解明されると興ざめさせられる。
伝説や昔話は、あまり詮索せずに読むほうが楽しい。
ラベル:いちき串木野市