2016年07月22日

永吉と”なげし”

今年1月22日付朝日新聞に、大崎町の「永吉天神遺跡」で中世の地下式坑が発見されたという記事が掲載されていました。この時代の地下式坑が確認されたのは、南九州で初めてだそうです。
遺跡もさることながら、永吉という地名が気になったため、すこしばかり調べてみました。

1.曽於郡大崎町永吉
『角川日本地名大辞典46鹿児島』(角川書店・昭和58年)は、次のように記しています。
「田原川支流持留川右岸の台地上に位置する。西南部の上永吉・中永吉の一帯は、上古愛之原と唱来ると申伝」とあって(大崎名勝志)、『三国名勝図会』に見える藍之原と呼ばれる平原に当たり、土地の人は可愛原(えのばる)と呼んでいる。
牧之内・舟迫・干草など、牧にちなんだ地名が多く残り、往古より牧場の盛んな地帯であった。」

また、永吉という地名は南北朝期から見られるようですが、地名の由来については不明のようです。
前掲の地名辞典は、「当地は天正元年、肝付の乱の功で都城領主北郷時久に加封された。その後、天正15年伊集院忠棟に与えられたが、庄内の乱後は島津氏直轄となり、垂水島津家の持切在となった。村高は天保郷帳によると1,346石余、旧高旧領では2,094石余。」とあります。
おそらく、この地は早くから経済的価値のある土地であったかもしれません。

『寛政十二申年写之 諸郷村附浦附 盛香』によれば、「なげし」と読み仮名がふられています。前述の朝日新聞では、「ながよし」とルビがふられていたことから、今では「なげし」という呼び方はなくなっているのかもしれません。

 この際なので、永吉の地名と読み方についてあと二つほど触れてみます。

2.日置市吹上町永吉
『日本歴史地名大系47鹿児島県の地名』(平凡社1998年)によれば、「中世日置南郷の地で、天文2年島津忠良と貴久が、当地の南郷城城主桑波田孫六を攻略した際、永吉と改めた。永吉は美称であろう。直ちに貴久の弟が領主となり、以後戦国島津氏の直轄地で、有力武将が地頭となった」とあります。

また、『鹿児島大百科事典』(南日本新聞社1981)によると、「16世紀のはじめここを領有した島津忠良が“永久に吉地たれ”とこの名をつけたという。」
ここの「永吉」という地名もまた、鹿児島市永吉町と同じく美称のようです。
つらつら考えるに、永吉という地名は古くから豪族たちが争うほどの経済的価値の高い土地であったかもしれません。

さて、ここの「永吉」の読み方です。
『寛政十二申年写之 諸郷村附並浦附 盛香』によれば、「ながよし」と読み仮名がふられていました。この地では「ながよし」と呼び、「なげし」ではなかったようです。
余談になりますが、当地は意外な食べ物の故郷であったそうです。

【ハヤトウリ】
筆者にとって苦手な食べ物、ハヤトウリ。てっきり、鹿児島原産の食材と思っていましたが、メキシコ原産だそうです。
また日置郡吹上町永吉は、ハヤトウリを日本で初めて栽培した地でもあるそうです。
『鹿児島大百科事典』は、次のように記しています。

「メキシコ原産のウリ科・ハヤトウリ属の多年生草木である。熱帯では果実および塊根を食用あるいは飼料用として利用する。(途中省略)
わが国での栽培は1917年(大正6)に本県の矢神という人が米国から持ち帰って日置郡永吉村で試作したのが最初である。この種子を鹿児島市の島津隼彦が譲り受け邸内で試作したところ多数の着果を見た。
当時設立されていた鹿児島園芸談話会に紹介したところ、同会の会長であった鹿児島高等農林学校長・玉利喜造博士はこれに薩摩隼人にちなんで隼人瓜と命名し、この名が生まれた」

筆者が抱く当地のイメージは、田園風景の広がるのどかなものでありました。同地には埋もれた歴史のようなものがまだまだあるかもしれません。
同地のことを調べるうち、「おもいで館」のソバを食べたくなってきました。

3.指宿市の新永吉
鹿児島市内から国道226号線を南へくだり、指宿市の田口田交差点を右折。道なりに進み、山道を走りメディポリス入口を通過し、池田湖方面へすこし下ったところに「新永吉」という集落があります。

当地では、「新永吉」と書いて「しなげし」と呼ぶそうです。
指宿市在住の親戚5人(いずれも70代)に新永吉の読み方を尋ねたところ、全員が「しなげし」と答えてくれました。

集落の裏手には、切り立った断崖がそびえています。地学に興味のある人は、いいフィールドワークになるかもしれません。

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市内巡回バスのバス停を見ると、「しんながよし」と読み仮名がふられていました。
どうも行政の方は、「しんながよし」と呼んでいるのかもしれません。残念な気がする。

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南九州の地名』(青木昌興・2008年)によれば、地名には地籍地名と通称地名に分けることができるそうです。
地籍地名は地籍図に載っているもので、さらに自然地名と文化地名に分けることができるそうです。
通称地名は地図に載っていないが、人々が日常的に俗称と使っているものであるとありました。

「なげし」や「しなげし」は通称地名になると思われますが、時とともに無くなってしまうものかもしれません。
できることなら、庶民たちが言い伝えてきた呼び名を残してもらいと思うのです。

















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2016年06月12日

永吉町の読み方

鹿児島市小野町に、「水車館機織場跡」と刻まれた石碑が建っています。
旧藩時代に永吉村にあったことから、多くの書物が「永吉水車館機織場跡」として紹介しています。

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たとえば、『鹿児島市の史跡めぐり』(鹿児島市教育委員会・平成11年)では、「永吉水車館機織場跡(ながよしすいしゃかんはたおりばあと)と記しています。
鹿児島市の史跡に関する書物の多くは、この呼び方をしているようです。
変わったところでは、『鹿児島市西部の歴史』(四元幸夫・平成13年)で、「ながよしすいしゃかんきしょくじょうあと」と記しています。

この石碑、昭和15年(1940)の紀元二千六百年を祝して建てられたものだそうです。この祝典行事は大規模な国家行事であり、その意義は小さくありません。これについては、後日改めて触れることにします。
この石碑は、江戸時代の水車館機織場跡と支那事変以後の歴史を物語っているものと言ってもよいかと思います。

さて、話を水車館機織場跡に戻します。
「水車館機織場跡」の名称は、どうも行儀が良すぎるような気がします。学者や官僚が
昭和4年の「鹿児島市史跡地図」には、永吉・田上ともに水車館機織場跡の記載がありません。昭和15年以前には、石碑のようなものはなかったかもしれません。
庶民たちは、なんと言い伝えてきただろうか?

『鹿児島之史蹟』(林吉彦・昭和5年)によれば、「ハタ場」と呼んでいたようです。
また、『郷土はらら』(原良小学校編・1968年)では、「水車館(すいしゃやかた)」と記されています。
とくに「すいしゃやかた」という呼び方は、庶民たちが言い伝えてきた名称と思われます。
用水路の水の力を使って回る水車は、人々の記憶に残りやすかったと思われるからです。
今では、そば茶屋の店先で見るばかりとなってしまいました。

さて、古い南日本新聞に“鹿児島ならでは”の呼び方が掲載されていました。

なげしすいしゃんやかたあと 
昭和45年2月17日付南日本新聞夕刊に、「鹿児島あちこち」というコラムが掲載されています。「永吉水車館跡」、“なげしすいしゃんやかたあと”と読み仮名がふられていました。
おそらく、この読み方も庶民たちが呼び習わしたものであったかもしれません。

筆者は「なげし」という呼び方に心当たりもあり、調べてみることにしました。
筆者よりかなり年上の先輩方に尋ねたところ、3人の方が「なげし」という呼び方を覚えておられました。
原良町出身70代のご婦人二人、上荒田町出身60代半ばの紳士一人。
原良町出身のご婦人によれば、「原良ン〇〇、なげしン〇〇」といった子供同士の諍いもあったそうです。

「なげし」に関する史料を探してみることにしました。
手始めに『鹿児島県の地名』(平凡社)と『角川日本地名大辞典46鹿児島県』にあたってみました。

なげし
『角川日本地名大辞典46鹿児島県』によれば、永吉の「地名は永遠に肥沃な土地であることを願ってつけられた」とあります。
残念ながら、同書は出典先を書いておりません。

『鹿児島県の地名』(平凡社)によれば、文保二年(1318)三月十五日、島津忠宗(道義)は嫡子の貞久に鹿児島郡と同郡「なかよし」などをゆずっている(島津道義譲状・島津家文書)とあります。
また同書では、弘治四年(1558)正月吉日の島津氏老臣連署坪付(旧記雑録)には、池上権現領弓場の返地として浮免「永よし名」二反などがみえる。とあります。
『鹿児島県地誌』(明治17年)では、「ナガヨシ」とカタカナで読みがふられています。

最後に『寛政十二申年写之 諸郷村附並浦附 盛香』という本をめくってみました。
永吉村の項に、「なげし」と読み仮名がふられていました。
少なくとも、1800年頃には「なげし」という呼び方はあったようです。

同書で読み仮名をつけている村名は、以下のようになります。
「犬迫村」−「いざこ」
「草牟田村」−「そんた」。 
草牟田は「そむた」という呼び方もあったようですので、「む」が「ん」へと変化したのかもしれません。
「郡元村」−「くいもと」
「比志嶋村」−「ひちしま」
「皆房村」−「けぼ」
「西之別府村」−「にしのびゅう」
「華野村」−「けの」

上に記した読み仮名は、当時の村人たちが使っていた呼び名を記載していると思われます。
以上のことから、官の方では「ながよし」と呼び、庶民の方では「なげし」と呼んでいたと言っていいかもしれません。

さて、「なげし」という呼び方を覚えている年齢的なボーダーはどの辺か知りたいと思うのですが、筆者一人では無理なので、地元メディアで調査してもらえると嬉しい限りです。

昭和45年2月24日付南日本新聞
古い南日本新聞の記事のおかげで、「なげし」に出会うことができました。
記者さんは、どういった思いでコラムを書かれただろうか。
ヒントとなるかもしれない記事が、昭和45年2月24日付南日本新聞南風録に掲載されていました。

当時、高麗橋の“架け替え”と“保存”で大きな問題になったそうです。
保存となったのですが、南風録は当時の世相を次のように記しています。

「開発優先という意識が露骨に感じとられる。困ったことに、このような開発第一の風潮は、国民の間にも広まりつつあるのではないか。
経済の発展が、そのまま自然の破壊、文化財の消滅につながるのが、戦後の特徴といえる。」

“なげしすいしゃんやかたあと”とわざわざ読み仮名をつけたコラムを書いた記者さんも、南風録の執筆者と同じような心持ちであったのではないか。
高度成長期といわれる時代にあって、二人の新聞記者は失われていくものを敏感に感じ取っていたのかもしれません。
これは、筆者の勝手な想像にすぎません。
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2016年06月02日

下荒田町の読み方

鹿児島市の町名のなかには、上伊敷町(かみいしきちょう)と下伊敷町(しもいしきちょう)のように「かみ」と「しも」で対になっているものがあります。

『寛政十二申年写之 諸郷村附浦附』という書物に「上伊敷村(かみいしき)」「下伊敷村(しもいしき)と読み仮名付きで掲載されています。
寛政十二年は西暦1800年、この時代には「かみいしき」「しもいしき」と呼ばれていたようです。

また「上町(かんまち)」と呼ばれる地域がありますが、藩政期にはそれに対して「下町(しもまち)」もありました。「下町(しもまち)」という呼び方は、現在なくなってしまいました。
二つの町名は、『寛政十二申年写之 諸郷村附浦附』に読み仮名付きで掲載されています。
西暦1800年頃には、「かんまち」と呼んでいたようです。
また、「かんまち」の「かん」は、「かみ」が変化したものでしょうから、ふたつの町は“対(つい)”になっています。

江戸期の加治屋町は、「上之加治屋町」と「下之加治屋町」に分かれていました。
それぞれ「うえんかんぢゃまち」「したんかんぢゃまち」と読み、「うえ」と「した」で対になっていました。

漢字では“対”になっているものの、読み方がそうでない町名が鹿児島市内にあります。
「上荒田町」と「下荒田町」です。それぞれ「うえあらたちょう」「しもあらたちょう」と呼んでいます。
前々から気になっていたことから、この際、少しばかり史料に当たってみました。

荒田村
『鹿児島県地誌』や『鹿児島城下 下荒田郷土史』(昭和11年)によれば、上荒田町・下荒田町は荒田村と呼ばれるひとつの村であったそうです。
「藩政時代には荒田村と呼ばれてゐたが、古くから地形上中央に横はる八幡田圃を隔てて、上荒田・下荒田と呼んで居た」(鹿児島城下 下荒田郷土史)

江戸期には上荒田・下荒田という呼び方はあったようですが、八幡田圃のことがよく分かりません。「八幡田圃」という言葉は、筆者の不勉強のため『鹿児島城下 下荒田郷土史』以外では見つけきれていません。

『薩藩沿革地図』や『鹿児島市街実測地図』(明治30年)などを見ると、加治屋町から高麗橋を渡れば、目の前に広大な田畑が現郡元町まで広がり、高麗本通となる道が鴨池1丁目辺りまで走っていたようです。
高麗本通と荒田八幡神社の間に広がっていた田畑のことではないか、と考えているところです。「荒田んたんぼ」という呼び方もあり、まだまだ史料に当たる必要があるようです。

上荒田町・下荒田町の読み方
@『古地図に見る鹿児島の町』(豊増哲雄)
同書で上荒田町と下荒田町に関する記述があります。
上荒田町には読み仮名が付けられていませんが、下荒田町には「したあらた」とあって、次のように記しています。

「武の橋を渡って南下した武家屋敷群は、谷山街道を軸として左右を占めるようになり、武村と荒田村をえぐるような形で広がり、のちに下荒田(現在は下荒田(しもあらた))と呼ばれるようになった。」

作者の豊増さんは、戦時中、旧交通局の西側に住んでいたそうです。下荒田は隣町ですから、古い呼び方を知っていたと思われます。
また、わざわざ「したあらた」と読み仮名をつけ、「現在は下荒田(しもあらた)」と記していることから、何らかのこだわりがあったのかもしれません。

A勝目清遺稿集つれづれ草 「加治屋町の呼び方」
 同書にも下荒田町に関する記述があり、次のように記しています。
「似たようなことが下荒田町にもあります。下荒田もいつごろからともなく、シモアラタと呼んでいますが、シタアラタが正しい呼び方であります。上荒田(ウエアラタ)に対して下荒田はシタアラタが正しい呼び方であります。」(昭和42年1月)

 最近、筆者がとくにお世話になっている、1945年にアメリカ陸軍が作成した鹿児島市の地図を見てみます。「SHITA−ARATACHO (AREA NAME)」、「UE−ARATACHO(AREA NAME)」と記載されています。
これらのことを考えると、下荒田町は「したあらた」と読むことが本来的なものかもしれません。
そうして、上荒田町と下荒田町は、「うえ」と「した」で対(つい)になることができると言えそうです。



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