2024年09月19日

昭和20年8月15日の神話

 昭和20年8月15日は終戦記念日。疑う余地がないほどの常識である。
昭和史に関する書物に目を通していると、違和感をおぼえ始めた。
太平洋戦争は、いつ終わったのだろうか?

8月15日 昭和天皇の玉音放送がラジオから流れる。
8月19日 降伏条件受取の使者を乗せた緑十字機が、木更津飛行場を出発。沖縄県の伊江島で米軍機に乗り換え、夕方にマニラに到着。
8月20日 連合軍最高指揮官要求第二号を交付。マニラを出発し伊江島に到着。
8月21日 東京に到着
9月2日  ミズーリ艦上で降伏文書調印式

 京都大学名誉教授・佐藤卓己先生の論考が参考になった。2024年7月27日付朝日新聞である。先生は述べる。

 1945年8月15日に終わった戦争は存在しないからです。
『終戦』は相手国のある外交事項です。降伏文書に調印した9月2日が国際法上の終戦日であり、翌3日をロシアも中国も対日戦勝日としています。交戦国ではなく、あくまでも『臣民』に向けた『玉音放送』があった日を節目としていること自体、極めて内向きの論理に基づいています。




 昭和日本史〈8〉終戦の秘録 (1978年)
『昭和日本史〈8〉終戦の秘録 (1978年)』に、元外交官の加瀬俊一さんが著した「ミズリイ艦上の降伏文書調印」と題する文書が掲載されている。同氏は、外務大臣重光葵とともに調印式に立ち会っている。式典にむかう心情をつづっている。

 いまでこそ実感は湧かぬが、われわれ一行は、あるいは生きて帰れまい、という気持ちだったし、見送る人々も同じ思いだった。なにしろ、八月十五日の終戦決定から、まだ日が浅く、意気盛んな少壮軍人のなかには、なお抗戦を叫ぶ者もあったから、一行が途中で襲撃を受けることも十分にあり得ると考えられた。

 8月15日は日本政府が終戦を決定した日であったと、外交官は記す。終戦を決め、日本臣民に広く知らしめたのが8月15日だったと言ってよいかもしれない。佐藤先生が述べるように、「内向き論理」に基づいているようだ。
 先生は、内向きの論理がもたらす弊害について述べる。

 8・15終戦記念日は、周辺国との歴史的対話を困難にしてきました。いくら私たちが平和憲法にコミットする姿勢を示しても、その前提となる内向きの『あしき戦前』と『良き戦後』の断絶史観は外国と共有されていない。他者に開かれていない空間で、いくら自己反省を繰り返しても、対話なきゲームです。

 歴史戦や情報戦という不穏な言葉を使うのは適切ではないでしょうが、私たち自身が内向きな『記憶の55年体制』に閉じこもっている限り、こうした他国の歴史利用に対峙できません

 新聞紙上で、戦闘のつづく地域の記事に目を通していると「プロパガンダ」や「情報戦」といった言葉が目につく。しっかり反論するために、しっかりしたデータや記録を示すほかない。第二次大戦中の日本側の公的記録は、数が少ない。終戦前後に文書を焼却したといわれる。
当時の記録が少ないことが、情報戦にしっかり対応できていない要因のひとつかもしれない。また、歴史修正主義に対しても同様である。

 先の戦争が終わった日は、いつだろうか? 
筆者の場合、長く刷り込まれた影響だろう。終戦日は、昭和20年8月15日の意識が強い。9月2日の降伏調印式が頭にあっても。
先の戦争が終わった日はいつか? 考え直して良い時機かもしれない。


参考文献
「戦争認識 抜け落ちたもの」(2024年7月27日付朝日新聞・耕論)
『昭和日本史8 終戦の秘録』(暁教育図書・昭和51年)
posted by 山川かんきつ at 23:32| Comment(0) | 逆縁の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年11月13日

終戦直後 牛を牽く男性の写真

せんだって読売新聞に目を通していると、「2025年度大学入学共通テスト試作問題」に目がとまった。「歴史総合、日本史探求」に終戦直後の写真が掲載されていた。3人の男性が並んでいる。左から日本人警官、MP、牛を牽く男性である。牛は丸太を満載した荷車を牽いている。
試作問題は写真と解説文をもとにして、疑問と検証方法の組み合わせで最も適当なものを選ばせる出題である。
試作問題に興味のある方は、同紙に目を通されたい。筆者は感心がない。

 勉強の話は苦手なためだろう、「National Archives photo no.111-sc-215790」と記された写真に目が行く。見覚えのある写真に、『昭和日本史9占領下の時代』を開く。



やはりあった。説明文によると、「占領軍にとって牛車は好奇の的であった」とある。牛が荷車を牽く姿は、欧米人にとって珍しい光景であったのだろう。

敗者と勝者が描く強烈な風景
『東京の記憶 焦土から出発』に、牛を牽く青年の写真が掲載されている。なんと、マッカーサー元帥専用のキャデラックのそばを、地下足袋をはいた青年が牛を牽いている。




写真の説明文によると、昭和20年9月に日比谷で撮られたそうである。
撮影者は写真班員のクリフォード・マッカーシーさん。
同氏によると、GHQ前でマッカーサー元帥の専用車を撮ろうとしていた時、牛車が近づいてきたそうである。次のように回想している。

元帥の車と通りがかった牛車の男性、これを何としても一緒に撮りたくて、あわててカメラを向けた。彼が右へ曲がる前になんとか映すことができたが、大きなスピグラを構え瞬時にピントを合わせるのは大変なことだった

 同書はいう。
 絶対的な権威を秘めた勝者と敗戦国の貧しき民。一瞬の偶然とシャッターによって終戦直後の日本を象徴する歴史的光景がこうして記録されたのである。

 個人的感想になる。メディアは勝者と敗者といった構図にしがちである。確かにそういった面もあっただろうが、庶民たちの心持ちはどうだったろうか。勝者と敗者といった構図の記事に接するたびに、違和感をおぼえる。

 牛を牽いた青年は健在で、東京新聞社に連絡があったそうである。写真の青年は16歳。
その方はこう回想している。

 敗戦の衝撃で何をしていいかわからない。ぼうぜんとしていたら、近所で牛の運送屋をやっていた伊藤さんという方が牛引きをやれ、と。長男として弟妹を食わせる必要があるし、前にも牛引きを手伝った経験があるので、お願いしますと・・・」

 記事では牛を牽く農民とあったが、あれは農民ではなくて牛車を引く運送屋なんです。当時はトラックはないし運送はすべて牛か馬。ゲートルに地下足袋を履き、日比谷のGHQ前なんかよく行き来しましたよ。でも写真を撮られたのは知らなかった。

 牛引き運送業のさいに、米兵とこんなやり取りもあったそうである。
疲れて坂道で立ち往生していると米軍トラックが押し上げてくれた。また、坂道で牛が止まっていた時、ムチで叩いたら米兵が飛んできて「ノー、虐待するな」と言われたこともあったそうである。

 終戦後の庶民たちは、生きるために必死だっただろう。祖父母や戦争体験者の話に接してきて、強くそう思う。


参考文献
讀賣新聞西部本社版 2022年11月10日(木)付
『昭和日本史9占領下の時代』(暁教育図書・昭和52年)
『東京の記憶 焦土からの出発』(東京新聞・2010年)
posted by 山川かんきつ at 16:48| Comment(0) | 逆縁の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月26日

こころの復興

 今月はじめ、父が治る見込みのない病で入院した。病名と余命宣告を聞いて卒倒した。
以来、なにもする気にならない。コロナ禍のために、見舞いができない。病院からの連絡で、父の状態を尋ねるといった具合である。まだ亡くなっていないにもかかわらず、喪失感が大きい。なぜ気がつかなかったと、悔やむばかりである。

 先日、新聞を読む気になった。3週間ぶりである。読むスピードは遅くなったうえに、目にとまる記事が見当たらない。目を通しているうちに、ある新聞記事を思い出した。
「心のレジリエンス」(2021年1月3日付朝日新聞GLOBE)である。

 相次ぐ災害や事件・事故、そして新型コロナウイルス。人は不条理ともいえる悲しみにどう向き合い、再生していこうとしているのか。悲嘆にくれ、喪失感を抱えながらも、前を向いて生きていく。そんなレジリエンス(再生力)をさがして。

 記事は、東日本大震災で家族を亡くされた方々の思いを記す。肉親や子供を亡くされた方のなかには、時が止まったままの人もある。「漂流ポスト」や「風の電話」は、自身の気持ちを吐露する場になっているようだ。

 人の心には自然治癒力がある。言葉にすることで心の欠けた部分を埋め、自分で自分をケアしている。大切な人を失うことで途切れてしまった物語を新たにつむぎ直してほしい

心のケア
 日本で「心のケア」という言葉が使われ始めたのは、阪神・淡路大震災からだそうである。
同地震の映像は、ニュース番組でみた。インフラが整備されていくにつれ、報道も少なくなったような気がする。気がつけば、震災から何年目といった報道になっていった。
「心のケア」を扱った報道に接した記憶がない。この言葉を知ったのは、5年ぐらいのこと。新聞記事で知った。

 上智大学に「グリーフケア研究所」があるそうだ。名誉所長の高木慶子氏は、グリーフケア(悲嘆)という言葉を日本に根付かせた第一人者。30年以上にわたって、終末期患者や家族を亡くし心に深い傷を負った数千人に寄り添ってきたそうである。
高木氏は述べる。

 グリーフケアにマニュアルはなく、とにかく相手の気持ちに寄り添うことが大事だ。
大切な人を失った悲しみは大きいが、子どもの死がどんな死別よりも大きい。


以前、「逆縁の時代」と題する記事を書いた。東日本大震災で、子供に先立たれた御夫婦の新聞記事をもとにした。平成30年3月11日付朝日新聞「もう一度 母になりたかった」。
夫婦間で葛藤した様子が記されている。筆者などは言葉もない。

 「心の復興」や「グリーフケア」に関する記事を読んでいると、戦時中に思いをはせる。前線で夫や息子を亡くされた家族は、どのような思いだったろうかと。また、空襲で家族の命を奪われた人もあったろう。残された家族は、悲しみをいかにして乗り越えただろうか。
論点はいくらでも出てきそうである。

参考文献
「GLOBE」 朝日新聞2021年1月3日付
「もう一度 母になりたかった」朝日新聞(平成30年3月11日付)
posted by 山川かんきつ at 23:00| Comment(0) | 逆縁の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする