2025年11月12日

エビデンス教育

 今年は戦後80年とあって、メディアは盛んに戦争関連の記事や番組を報じていた。
おおかた、鹿児島大空襲をはじめ特攻、対馬丸など従来通りの報道だった。なかには、首を傾げたくなる内容もあった。
その理由を考えているところに、日本経済新聞に面白い記事があった。
「エビデンス教育早急に」2025年9月10日付である。

 慶応大学名誉教授の今井むつみさんの論考である。先生は言う。

専門家が100%の確証がない状況であっても批判を恐れず、ベストを尽くして意見を述べることが大切です。重層的に検討して、現段階での蓋然性を示すようにする。 

 情報を受け取る側も心がけるべきことがあります。エビデンスの中身を考えることです。
安易な手法で集め、多角的で丁寧な検討もないデータをエビデンスだと信じてしまう。


 論考を読み進めていると、鹿児島市の空襲に関する記述を思った。同市の空襲に関する記述は、本田斉氏「あれから十年」をベースにしている。同氏は、戦中に鹿児島市防空課長。おそらく、内容の検証をせずに『鹿児島市史』に掲載したと思われる。
肩書だけで信用したのだろう。内容を検証することなく、報道し続けるメディアも問題がある。

 今井先生はつづける。
 AIやSNSの時代です。「情報リテラシー」という授業だけでなく、小学生になれば、日頃からデータをどう読み解くのか、データの危うさなどについてしっかりと子供たちに伝える。「エビデンス教育」を早急に整えるべきです。大人も学ぶ機会が必要です。

 せんだって、南日本新聞で曽於市にある小学校の記事を目にした。岩川航空基地に関する記述に目がとまった。

 基地だと悟られないために昼間は滑走路に刈り草を敷いて牛を放牧し、移動式家屋や樹木を立てていたこと(以下省略)

 どのような文脈で書いただろうか? 同航空基地は終戦まで米軍に知られなかったという意味だろうか。今井先生の言う「エビデンス教育」を考えるうえで頃合いの問いが立つ。
ひとつ目。
「岩川飛行場は終戦まで米軍に見つからなかった」という言説は、どういった記録を基にしているのか。

 二つ目は、米軍資料を集めること。
 岩川飛行場について、どのような記述があるか。「IWAKAWA AF」という言葉をみいだせるかもしれない。また、慶応大学の安藤先生の意見も合わせて考えみてはどうだろう。
米軍資料に目を通すと、1945年5月15日に岩川航空基地を認識している。滑走路の形、寸法、航空施設などに関する記述もある。

iwakawaAF1.jpg


 今井先生はこうも言われる。

 SNSの影響で、我々の思い込みの塊は強まる傾向にあります。科学技術は発達しても、客観視して様々な視点から検討して本質をつかむ力は弱いままです。

複雑で答えがひとつでない問題に対し、経済優先のコスパやタイパに引きずられ、適切なプロセスを経て導き出されたエビデンスとは言えないデータや見解に安直に飛びついてしまいがちです。
じっくりと検討して物事を見極めて判断する大切さを置き去りにする傾向には、常にブレーキをかけなければいけません。


 情報番組やマーケティングに関する情報に接していると、「バズる」「バエ」いった言葉を目にする。これらの言葉に、「至上の価値」を置いているようだ。
分からなくもない。それは、瞬間的な流行を追っている姿にしか見えない。
数日経てば、廃れる情報のような気がしている。情報の内容が、軽く薄くなっているのかもしれない。

参考文献
「エビデンス教育早急に」2025年9月10日付日本経済新聞
posted by 山川かんきつ at 06:52| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年11月04日

無知学とは なんでせう?

 無知学と称する学問があるらしい。今年10月29日付朝日新聞「無知学から見える世界」に目を通した。話者は、鶴田想人氏(東北大DEI推進センター特任助教)。

現代思想2023年6月号 特集=無知学/アグノトロジーとは何か−−科学・権力・社会 - 隠岐さや香, 塚原東吾, 石井ゆかり, 石倉敏明, 小川眞里子, 鶴田想人, 納富信留, 野家啓一, 弓削尚子
現代思想2023年6月号 特集=無知学/アグノトロジーとは何か−−科学・権力・社会 - 隠岐さや香, 塚原東吾, 石井ゆかり, 石倉敏明, 小川眞里子, 鶴田想人, 納富信留, 野家啓一, 弓削尚子

ここ最近、Post-truthに注意しているのだが、うまく整理できないでいた。記事を読んでいるうちに、少しばかり整えられた気がする。

「無知」を広辞苑で引くと、@知識がないこと。A知恵のないこと。おろかなこと。
ネガティブな意味を持つ言葉である。「無知の恥」といったところだろうか。

 無知学は、「知らない」ことを、個人の問題ではなく、社会や集団の問題として捉えるそうだ。「私たちは何を知らないのか? なぜ知らないのか?」を基本に置き、その原因と意味を考える。同時に、社会や歴史事象をも分析していく学問であるそうだ。

 無知学は、「個人の知識の欠如」と「人為的に作られる無知」に分ける。
作られる無知は、「意図的に作られる無知」と「構造的に生み出される無知」に分けられる。意図的に作られる無知は、研究が進んでいるそうだ。

意図的に作られる無知
 特定の誰か、あるいは企業や国家などが情報を隠したり、攪乱してきたために生じてきた無知。また、不都合な科学論文に疑念を呈したり、独自のメディアで紛らわしい情報を発信する。本当に知られたくない事実を、あの手この手で注意をそらす。

 財務省の赤木ファイルの件は、これに当てはまりそうだ。当初、財務省は文書の不在を主張していた。裁判後、膨大な文書が赤木さん宛てに届いた。報道に接していて、なんだそれといった感想である。
 他にもある。日本学術会議や歴史修正主義、陰謀論、原発と活断層などは、意図的に作られる無知にカテゴライズできそうだ。

 注意をそらすやり方は、無知を作り出す典型的な手法のようだ。主流メディアを攻撃し、生きづらさや不安の原因を特定の集団に向けることで真の原因から人々の目をそらす。
「Scapegoat スケープゴート」を作り出すようだ。これは、関東大震災時の朝鮮人や中国人への虐殺、暴力を考えるうえで参考になるかもしれない。

構造的に生み出される無知
より複雑で構造的な要因が絡み合い、いつの間にか生まれてしまう無知。
ジェンダーや人種など不平等のある所では、知識の偏りが生じやすい。
誰かが意図的に隠蔽したわけではないが、小さな無視や後回し積み重ねで生じてしまう「構造的な無知」。

 これを読んでいると、鹿児島市の空襲に関する記述に思いが至った。
毎年6月17日になると、地元メディアは鹿児島大空襲を報じる。鹿児島市はつごう8回の空襲を受けたとする内容である。
昭和45年に刊行された『鹿児島市史第2巻』の記述を、今年も報道していた。

米軍資料や日本海軍の資料などに目を通すと、少なくとも10回の空襲を受けている。
当時書かれた個人の日記を読むと、20回近く空襲があったようだ。いま、その記述を検証するべく米軍資料に当たっているところである。

 戦後80年の節目とあって、地元メディアは戦争に関する報道が盛んだったように思う。
特攻、対馬丸、芙蓉部隊、鹿児島大空襲など。内容はいつも通りといったところであろうか。

 メディアに共通して報じる内容がある。「戦争の記憶の風化」である。
例えば、鹿児島市は空襲を8回と報ずるが、6月17日を伝えるだけである。残り7回を報じない。

無知学の定義を基にして考える。小さな無視や後回しの積み重ねで生じてしまう「構造的な無知」に当てはまりそうだ。
報道されないから、6月17日以外の空襲を知らない。鹿児島の歴史観は、薩摩藩時代中心である。幕末・明治維新を頂点にした歴史観である。
「明治維新150周年」で、それを強く感じた。大日本帝国の始まりと考えれば、明治維新の視点も変わってくると思うのだが、薩摩藩中心の歴史観に多様性はない。

 地元メディアの空襲に関する報道に接していて、首を傾げる瞬間がいくつもあった。
第一復員省作成の戦災地図を鵜のみにした記事。
鹿児島市史と鹿児島市戦災復興誌にある記述をそのまま報じる。
岩川航空基地に関する言説を従来通り報ずる。
悲劇のナラティブで展開する点は、従来通りである。そこに、冷静な視点はない。

認知のクセ
 人間の心理や認知のあり方にも、「無知」を生み出すメカニズムがあるそうだ。
 人間は見たいものを見て、信じたいものを信じやすい。
 個人が群集化して集団に埋没すると、冷静な判断を失う。

 この説明は、昭和初期の時代に当てはめると分かりやすい。明治維新150年の際、メディアは同のように報じ、市民はどう行動したか振り返るのも良いかもしれない。
また、認知バイアスに「権威バイアス」といった考え方がある。権威のある人に指示や説明をされると受け入れてしまう。

 鹿児島市の空襲に話を戻す。鹿児島市史と鹿児島市戦災復興誌に権威を感じているのだろう。なにせ、鹿児島市の公式記録だから。編集委員は大学教授といった人たちであっただろうと思われる。
また、第一復員省戦災地図をそのまま使用した記事は、同地図が公式記録としての権威を感じたからだと思われる。

 鹿児島の空襲に関する報道に接していると、行政誌を基にした内容であることに気付く。
様々な視点から検証した様子はない。やはり、公式記録という権威を鵜のみにする様子がうかがわれる。
鹿児島の空襲を描こうとすると、従来のやり方では描けないということが分かった。
やはり、米軍や日本軍、当時の日記など一次資料を使わなければ、客観性のある内容にならない。

 メディア論の学者が言われる通り、疑いつつ報道に接したほうが良いようだ。
無知学は新しい学問らしい。研究がすすむにつれて、色々な歴史事象を解明する糸口を見いだしてくれるかもしれない。
 

参考文献
「無知学から見える世界」(2025年10月29日付朝日新聞Re:Ron×インタビュー)
posted by 山川かんきつ at 16:55| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年10月02日

終戦直後の発疹チフス

 朝日新聞「写真は語る1946(昭和21年)」に見入った。2025年9月29日付である。
国政選挙投票の様子、日本国憲法公記念祝賀大会、東京裁判の法廷、日本軍機のスクラップが山積みされた傍に立つ露天、引き揚げ孤児など終戦翌年をとらえた写真は、どれも貴重な一次資料である。

 一枚の写真に目がとまる。横浜市の桜木町駅前で殺虫剤DDTを女性に散布する一枚である。「発疹チフスが流行し、患者数は1946年の1月から7月で約3万5000人に及んだ」と、説明されている。
写真と記事を読むうちに、作家の日記を思い出した。内田百閧ニ山田風太郎である。

百鬼園戦後日記I (中公文庫 う 9-12) - 内田 百
百鬼園戦後日記I (中公文庫 う 9-12) - 内田 百

百鬼園戦後日記T 
 内田百閧フ日記、昭和21年4月13日(土)十夜は次のように記す。

 電車は相不変(あいかわらず)こむ。人ごみに揉まれると発疹窒扶斯(チフス)こはし。昨日は近所の土手沿いの市ヶ谷駅へ出る一寸手前のバラックに二人の患者が出たる由。新聞によれば十一日には板橋区の八百人を筆頭に下谷王子世田谷目黒の各区に新患者続出し、累計四千二百六十八人とあり。しかし空襲よりはこはくない。音がしないだけでもいい。

 いつも強きで我儘な百關謳カ。チフスに戦々恐々としていたらしい。先生は、空襲体験をさらりと描いている。空襲と音である。空襲体験談に目を通すと、爆弾が落ちる時と着弾後の音を書き残す人が多い。焼夷弾が落ちる際は、ザーザーと雨が降るような音がしたともある。百關謳カは貴重な記録を残してくださった。
もうひとりの作家は、山田風太郎である。当時、医学生。その視点で描かれる。

戦中派焼け跡日記: 昭和21年 - 山田 風太郎
戦中派焼け跡日記: 昭和21年 - 山田 風太郎

戦中派焼け跡日記
 @昭和21年3月24日(日)晴
 電車の座に横たわれる三十余りの浮浪女を見る。唇の傍に泥色のパン三つ転がれり。傍に坐りてこくりこくり眠れる七、八つの男の子蓬々たる髪に頬かむりに、無意識の中に、股ぐらに手をつっこみては虱(しらみ)を撮み出して、毛の出たる座席に棄つ。都内に猛威をふるう発疹チフスの媒介者の姿歴々たり。

A昭和21年4月4日(木)曇(昨夜大雨)夕晴
 渋谷駅にて臨時種痘を受く。現行の方法は既に時代遅れにて米国にては注射也と。
 高円寺の界隈発疹チフスの猖獗地なれば夜更けて長き筒持ちたる男たち、白き粉を噴出せしめつつ各家々を廻るが見ゆ。これ発疹チフス防遏(ぼうあつ)の特効薬米軍持参のDDTなり。


 ふたりの作家は、東京都内の様子を記したのだが、鹿児島はどうだったろうか。
『鹿児島年鑑昭和23年版』を開いてみる。

鹿児島年鑑 昭和23年
保健と衛生
 終戦後在外縣民の引揚に伴って、従来縣内では殆どその例をみなかった発疹チフスの発生をはじめコレラ、天然痘、赤痢など各種の法定伝染病が二十、二十一両年度にわたって縣下各地に流行、戦災の結果、環境衛生も極めて悪かったためこれらの防遏は相当の困難を伴ったが、予防接種の励行、DDTの撒布などによって次第に減少し、発疹チフスコレラは全く終息、二十二年は前年より疫痢と流行性脳髄炎の若干増発をみただけで総体的には激減して大体十九年程度の平時状態に帰った。戦争病といわれる結核はその死亡者数からみると下向となっているが・・・
 以上何れも伝染系統は海外引揚者と関連し二十年、二十一年は特に各種伝染病の発生を見たが二十二年に至り漸く十九年の状態に帰った。


 Kagoshima military governmentの文書に、鹿児島保健所が昭和23(1948)年11月10日に作成した「統計図表」がある。そのなかに、「鹿児島市昭和17−22年法定伝染病発生死亡数」と題された文書がある。
発疹チフスは、昭和21(1946)年に28人が発症し2人が死亡されている。昭和18(1943)年に1人が発症した以外は、発疹チフスの記録がない。

 チフスの名前を冠している2つの感染症がある。腸チフスとパラチフスである。両感染症は1942年から1947年まで、毎年感染者を出している。
腸チフスは、1943年に90人が発症。1946年に53人が発症。
パラチフスは、1944年に40人が発症。いずれも、感染者数が多いもの記した。
腸チフスとパラチフスは、発疹チフスと異なるらしい。医学知識が必要になると、お手上げである。

 先述の「鹿児島市 昭和17−22年法定伝染病発生死亡数」を眺めていて、感染者数が極端に多い伝染病がある。赤痢とジフテリアである。
@赤痢
 1944年240人発症、34人死亡。
 1945年596人発症、43人死亡。
 1946年166人発症、19人死亡。

Aジフテリア 
 1943年103人発症、死亡3人
 1944年447人発症、死亡15人
 1945年218人発症、死亡8人
 1946年190人発症、死亡7人
 1947年117人発症、死亡12人

 赤痢について、戦争体験談や個人の回想録に書き残されている。戦時中、鹿児島市助役を務めた勝目清氏が、『勝目清回顧録』に記している。赤痢は昭和19年に激増し、昭和20年にピークを迎える。ジフテリアもまた昭和19年に激増している。

原因は何であったろうか。思うと同時に、
戦時中の鹿児島市民は、敵国アメリカだけでなく感染症とも戦わなければならなかったようである。

参考文献
百鬼園戦後日記T(内田百閨E中央公論社・2019)
戦中派焼け跡日記(山田風太郎・小学館文庫・2011年)
「統計図表」(鹿児島保健所 昭和23(1948)年11月10日作成)
posted by 山川かんきつ at 23:14| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする