毎日新聞が報じた「無差別爆撃 沖縄から九州へ」を読みつつ、違和感をおぼえた。
記事は、沖縄を拠点にしたアメリカ第7航空軍と第5航空軍について記す。両航空軍は、極東航空軍とも呼ばれる。同軍についての記述であろう。
記事は次のように語る。
沖縄戦の大勢が決すると、航空部隊は九州各地へ飛び、日本軍の飛行場や港湾施設といった軍事目標の他、駅や列車などを攻撃するようになった。日本を降伏に追い込むために45年11月に予定していた九州南部への上陸作戦(オリンピック作戦)に向け、日本軍の機能や輸送網を破壊するのが目的だったとみられる。さらに市街地にも無差別爆撃を加えるようになった。
この記事で2点気になった。
ひとつは、記事前半の「航空部隊は九州各地へ飛び、日本軍の飛行場や港湾施設といった軍事目標の他、駅や列車などを攻撃するようになった」である。
米国戦略爆撃調査団文書に、これに関連する記述がある。
「Pacific War Report No.53, The Effect of Strategic Bombing on Japanese War Economy」である。
直訳すれば、「太平洋戦争報告書53番、日本戦争経済に対する戦略爆撃の効果」。
同文書は「日本戦争経済の崩壊」と題されて、昭和25年に出版されている。
同書「極東空軍」に、「第五及び第七航空軍の投弾両の分布(1945年6月―終戦まで)と題された表がある。
攻撃目標 トン数 百分比
軍事目標 2,242 31.5%
対船舶攻撃 1,287 18.1
船舶629隻
港湾640ヶ所
海軍施設18ヶ所
地上運輸施設 1,103 15.5
都市区域 1,514 21.3
雑(主として工業目標) 507 7.1
その他 458 6.5
同紙の記事でもっとも気になった箇所がある。
「日本を降伏に追い込むために45年11月に予定していた九州南部への上陸作戦(オリンピック作戦)に向け、日本軍の機能や輸送を破壊するのが目的だったとみられる。
■オリンピック作戦との関係性
米国戦略爆撃調査団文書に、「Summary Report」がある。国会図書館は、「太平洋戦争総合報告書」と訳している。「要旨報告書」ではないかと思うが、同図書館の訳に従う。
同書は、「日本本土に対する空襲」で次のように記す。
米国の基本戦略は、対日戦の最終目標は日本本土への侵攻によって達成できると考えられていた。
戦略爆撃行動の成否を判定する主要な標準は、上陸時において味方の水陸両用部隊への反抗能力と戦意をいかに弱められるかにあった。
はじめから攻撃の重点は、日本の社会的、経済的および政治的構造の破壊よりも、航空機工場や陸海軍工廠、エレクトロニクス工場、製油工場などを破壊するようにしていた。
それらの破壊は、後々1945年11月の九州上陸の際、日本軍の抵抗力を弱めるためだった。
ちなみに、「九州侵攻作戦(オリンピック作戦)」の決定は、1945年6月29日。統合幕僚会議は九州侵攻作戦の期日を1945年11月1日と決定。
もうひとつ考えることがある。船舶輸送の件である。
日本は石油やボーキサイト、食料などを輸入しなければ経済が立ち行かない構造をもっている。これは現代も変わらない。
戦争経済を考慮すると、海外からの船舶輸送は生命線である。アメリカ軍は、日本経済のアキレス腱への攻撃を重視していた。対馬丸や富山丸などの悲劇は、船舶攻撃のさなかに生まれた。
これらを踏まえつつ、先述の新聞記事を読み返す。極東航空軍の攻撃が、オリンピック作戦と直接つながるとする内容に懐疑的になる。米軍資料でオリンピック作戦に関する文書に目を通す必要がある。
鹿児島県の空襲に関する言説に目を通していると、「オリンピック作戦」と繋げた記事が見られる。
そのたびに、違和感をおぼえる。
今回は、良い機会であったと思う。
戦争経済に対する知識不足を痛感しつつ、記事を書いた。
■参考文献
「無差別爆撃 沖縄から九州へ」(2025年2月11日付毎日新聞)
『日本戦争経済の崩壊』(正木千冬・日本評論社・昭和25年)
2025年03月22日
2025年03月16日
アメリカ戦略爆撃調査団の文書
今月9日付朝日新聞の「戦後80年 空襲消えない爪痕」に目を通して、違和感をおぼえる記事があった。
戦後、日本の空襲被害を詳細に記録したのは米国戦略爆撃調査団だった。空爆がどのように日本を敗戦に追い込んだのかを政治、経済、軍事などを多角的に調べたが、あくまで空襲の「戦果」をはかる目的だった。
記事を書いた記者さんは、調査団作成文書に対してネガティブな評価を下しているようだ。「あくまで空襲の戦果をはかる目的だった」に違和感をおぼえる。
■USSBS文書
米国戦略爆撃調査団は、「United States Strategic Bombing Survey」の日本語訳。
単語の頭文字をとって、「USSBS」と呼ぶ。
1945年9月から12月にかけて日本各地で調査をおこなっている。日本関係者への資料提出と尋問などで集めた膨大な資料をもとにして1946年7月にかけて報告書を作成している。その数108巻。
同調査団が作成した「Summary Report」と題する文書がある。
国会図書館は、「最終報告書」と訳しているが、「要約報告」または「概報」とした方が良いのではないかと筆者は考えている。
108巻の報告書のうち数巻に目を通したのだが、「Summary Report」は全文書の要約版といった印象を受ける。
「Summary Report」の緒言で、文書作成の目的を記す。抄訳してみる。
この調査団の使命は、ドイツに対する米軍の空爆効果を公正にして専門的に研究すること。それを対日空爆にも適用して、軍事戦略上空軍の重要性と可能性を評価すること。
米軍のこれからの進歩発展に役立てること。国防に関する将来の経済政策を決める上で、必要な基礎を作ることにあった。
同文書はつづける。
こうして調査団は、戦時日本の軍事計画と実施の多くを再現した。また、各産業や各工場に関して日本の戦争経済や戦時生産について、正確な統計を入手できた。
日本の国家戦略計画や戦争突入の背景、無条件降伏の受諾にいたるまで、国内の論議や交渉、民衆の健康と戦意の推移、民防空組織の効率性、原子爆弾の効果など各種の研究が行われた。
調査団は日本の武官、文官、産業人など700名以上に証言を求めた。多くの文書を接収し翻訳。これらは調査団にとって有益なだけでなく、他の研究にとって貴重な資料となるだろう。
緒言はこう結ぶ。
その企図は、民間人の職員として調査団の収集した事実の資料を分析し、将来のために全般的評価を下すだけである。
同調査団の報告書「Summary Report」は、読み応えがある。咀嚼するのに時間がかかっている状態である。108巻もあるのだから、めまいがしてくる。
また、同調査団が報告書を作成するために集めた文書(作成用資料)に貴重な資料がある。
たとえば、門司鉄道局鹿児島管理部が作成した文書である。
昭和20年4月8日から同年7月31日までの間に受けた、空爆被害を記した文書がある。
また、昭和20年9月・10月時点の列車運行状況を記した文書など。
鹿児島県内の図書館で目にすることのできない資料である。
USSBS文書は、同時性をもった貴重な一次資料である。
先述の朝日新聞の記事である。同紙は低い評価を下している。USSBS文書に劣らぬ報告書を日本側が作っていれば記事に納得するかもしれない。
残念ながら日本側に、こうした報告書を作成した様子はない。
朝日新聞の記事は、こう結ぶ。
戦後80年となり空襲を知る人が減る中、その実態や真実を伝えていく上で記録に基づいた調査はより大切になってくるだろう。
この文章は納得いく。
「記録に基づいた調査」をするため、USSBS文書は欠かせぬ第一級資料である。
■参考文献
「戦後80年 空襲消えない爪痕」2025年3月9日付朝日新聞
戦後、日本の空襲被害を詳細に記録したのは米国戦略爆撃調査団だった。空爆がどのように日本を敗戦に追い込んだのかを政治、経済、軍事などを多角的に調べたが、あくまで空襲の「戦果」をはかる目的だった。
記事を書いた記者さんは、調査団作成文書に対してネガティブな評価を下しているようだ。「あくまで空襲の戦果をはかる目的だった」に違和感をおぼえる。
■USSBS文書
米国戦略爆撃調査団は、「United States Strategic Bombing Survey」の日本語訳。
単語の頭文字をとって、「USSBS」と呼ぶ。
1945年9月から12月にかけて日本各地で調査をおこなっている。日本関係者への資料提出と尋問などで集めた膨大な資料をもとにして1946年7月にかけて報告書を作成している。その数108巻。
同調査団が作成した「Summary Report」と題する文書がある。
国会図書館は、「最終報告書」と訳しているが、「要約報告」または「概報」とした方が良いのではないかと筆者は考えている。
108巻の報告書のうち数巻に目を通したのだが、「Summary Report」は全文書の要約版といった印象を受ける。
「Summary Report」の緒言で、文書作成の目的を記す。抄訳してみる。
この調査団の使命は、ドイツに対する米軍の空爆効果を公正にして専門的に研究すること。それを対日空爆にも適用して、軍事戦略上空軍の重要性と可能性を評価すること。
米軍のこれからの進歩発展に役立てること。国防に関する将来の経済政策を決める上で、必要な基礎を作ることにあった。
同文書はつづける。
こうして調査団は、戦時日本の軍事計画と実施の多くを再現した。また、各産業や各工場に関して日本の戦争経済や戦時生産について、正確な統計を入手できた。
日本の国家戦略計画や戦争突入の背景、無条件降伏の受諾にいたるまで、国内の論議や交渉、民衆の健康と戦意の推移、民防空組織の効率性、原子爆弾の効果など各種の研究が行われた。
調査団は日本の武官、文官、産業人など700名以上に証言を求めた。多くの文書を接収し翻訳。これらは調査団にとって有益なだけでなく、他の研究にとって貴重な資料となるだろう。
緒言はこう結ぶ。
その企図は、民間人の職員として調査団の収集した事実の資料を分析し、将来のために全般的評価を下すだけである。
同調査団の報告書「Summary Report」は、読み応えがある。咀嚼するのに時間がかかっている状態である。108巻もあるのだから、めまいがしてくる。
また、同調査団が報告書を作成するために集めた文書(作成用資料)に貴重な資料がある。
たとえば、門司鉄道局鹿児島管理部が作成した文書である。
昭和20年4月8日から同年7月31日までの間に受けた、空爆被害を記した文書がある。
また、昭和20年9月・10月時点の列車運行状況を記した文書など。
鹿児島県内の図書館で目にすることのできない資料である。
USSBS文書は、同時性をもった貴重な一次資料である。
先述の朝日新聞の記事である。同紙は低い評価を下している。USSBS文書に劣らぬ報告書を日本側が作っていれば記事に納得するかもしれない。
残念ながら日本側に、こうした報告書を作成した様子はない。
朝日新聞の記事は、こう結ぶ。
戦後80年となり空襲を知る人が減る中、その実態や真実を伝えていく上で記録に基づいた調査はより大切になってくるだろう。
この文章は納得いく。
「記録に基づいた調査」をするため、USSBS文書は欠かせぬ第一級資料である。
■参考文献
「戦後80年 空襲消えない爪痕」2025年3月9日付朝日新聞
2025年03月11日
変わりつつある戦災報道
昭和20年3月10日の東京大空襲に関する新聞記事である。
今月7日付讀賣新聞の編集手帳と今月9日付朝日新聞に目を通して考えた。
従来ならば、「1945年3月10日未明、米軍機による焼夷弾断の投下で・・・」と、報道されていたのだが、今回は具体的な日時を記した。
1.編集手帳
午前0時15分、空襲警報が発令された。だが、その7分前、深川ですでに火の手があがっていた。東京大空襲はこうして始まった。警報解除は午前2時37分。
2.朝日新聞「黒こげ遺体そこら中に」
空襲警報が鳴ったのは、B29が最初の焼夷弾を投下した7分後、1945年3月10日午前0時15分。
空襲警報発令時刻は、『東京大空襲戦災誌第3巻』の通りである。これらの時刻は、どのような記録をもとにして記事を書いたのだろうかと。記事に引用先を記されていない。
このような記事は、他紙でも見受けられる。字数制限もあって引用先を明記しないかのか、新聞記事の場合は記さなくても構わないのか。違和感をおぼえる。
■東京大空襲戦災誌第3巻
『東京大空襲戦災誌第3巻』に、昭和20年3月10日の空襲について日本側の記録を基にした記述がある。
3月10日
空襲 0時8分
空襲警報発令 0時15分
解除 2時35分
警戒警報解除 3時20分
警戒警報発令 10時10分
解除 10時50分
第21爆撃機集団の作戦任務報告書40番から少しばかり引用する。同文書の「集約統計表によると、初弾投弾時刻 0時7分 最終投弾時刻は午前3時。
空襲警報が2時35分で解除されている。違和感が残る。
平均爆撃高度
第73航空団 7,400フィート(約2,200メートル)
第313航空団 6,400フィート(約1900メートル)
第314航空団 5,400フィート(約1600メートル)
昭和20年3月10日は、これまでの高高度爆撃から低高度爆撃の開始日だった。
『Tactical Mission Report no.40』の前書きに、低空爆撃のメリットが記されている。
@気象上の条件がよくなる
Aレーダー装置が使いやすくなる
B爆弾搭載量が増える
C整備が一層簡単になり改善される
D爆撃精度がよくなる
前書きはつづける。
この計画の奇襲的な要素を生かすため、可能な限り低高度飛行に対する防御対策を施させないため、爆撃目標に4つの都市を選び一晩おきに空爆することにした。
選ばれた目標は、東京・名古屋・大阪・神戸の市街地である。
これらの都市が爆撃を受けた日は、3月10日から19日までの連続5回。夜間に行われている。これから、4都市の空襲を調べようとする方にとって参考になればと思う。
空襲被害を伝える報道が、具体的な数字を記すようになった。実証的に描こうとする兆しかもしれない。
■参考文献
2025年3月7日付讀賣新聞・編集手帳
2025年3月9日付朝日新聞・「黒こげ遺体そこら中に」「空襲消えない爪痕」
『東京大空襲戦災誌第3巻』(東京空襲を記録する会・1975年)

東京大空襲・戦災誌 全5巻セット - 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会
『東京を爆撃せよ 米軍作戦任務報告書は語る』(奥住喜重・三省堂・2007年)

東京を爆撃せよ 新版: 米軍作戦任務報告書は語る - 奥住 喜重, 早乙女 勝元
『Tactical Mission Report no.40』(アメリカ第21爆撃機集団)
今月7日付讀賣新聞の編集手帳と今月9日付朝日新聞に目を通して考えた。
従来ならば、「1945年3月10日未明、米軍機による焼夷弾断の投下で・・・」と、報道されていたのだが、今回は具体的な日時を記した。
1.編集手帳
午前0時15分、空襲警報が発令された。だが、その7分前、深川ですでに火の手があがっていた。東京大空襲はこうして始まった。警報解除は午前2時37分。
2.朝日新聞「黒こげ遺体そこら中に」
空襲警報が鳴ったのは、B29が最初の焼夷弾を投下した7分後、1945年3月10日午前0時15分。
空襲警報発令時刻は、『東京大空襲戦災誌第3巻』の通りである。これらの時刻は、どのような記録をもとにして記事を書いたのだろうかと。記事に引用先を記されていない。
このような記事は、他紙でも見受けられる。字数制限もあって引用先を明記しないかのか、新聞記事の場合は記さなくても構わないのか。違和感をおぼえる。
■東京大空襲戦災誌第3巻
『東京大空襲戦災誌第3巻』に、昭和20年3月10日の空襲について日本側の記録を基にした記述がある。
3月10日
空襲 0時8分
空襲警報発令 0時15分
解除 2時35分
警戒警報解除 3時20分
警戒警報発令 10時10分
解除 10時50分
第21爆撃機集団の作戦任務報告書40番から少しばかり引用する。同文書の「集約統計表によると、初弾投弾時刻 0時7分 最終投弾時刻は午前3時。
空襲警報が2時35分で解除されている。違和感が残る。
平均爆撃高度
第73航空団 7,400フィート(約2,200メートル)
第313航空団 6,400フィート(約1900メートル)
第314航空団 5,400フィート(約1600メートル)
昭和20年3月10日は、これまでの高高度爆撃から低高度爆撃の開始日だった。
『Tactical Mission Report no.40』の前書きに、低空爆撃のメリットが記されている。
@気象上の条件がよくなる
Aレーダー装置が使いやすくなる
B爆弾搭載量が増える
C整備が一層簡単になり改善される
D爆撃精度がよくなる
前書きはつづける。
この計画の奇襲的な要素を生かすため、可能な限り低高度飛行に対する防御対策を施させないため、爆撃目標に4つの都市を選び一晩おきに空爆することにした。
選ばれた目標は、東京・名古屋・大阪・神戸の市街地である。
これらの都市が爆撃を受けた日は、3月10日から19日までの連続5回。夜間に行われている。これから、4都市の空襲を調べようとする方にとって参考になればと思う。
空襲被害を伝える報道が、具体的な数字を記すようになった。実証的に描こうとする兆しかもしれない。
■参考文献
2025年3月7日付讀賣新聞・編集手帳
2025年3月9日付朝日新聞・「黒こげ遺体そこら中に」「空襲消えない爪痕」
『東京大空襲戦災誌第3巻』(東京空襲を記録する会・1975年)

東京大空襲・戦災誌 全5巻セット - 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会
『東京を爆撃せよ 米軍作戦任務報告書は語る』(奥住喜重・三省堂・2007年)

東京を爆撃せよ 新版: 米軍作戦任務報告書は語る - 奥住 喜重, 早乙女 勝元
『Tactical Mission Report no.40』(アメリカ第21爆撃機集団)