2025年03月08日

昭和20年3月18日 桜島上空ドッグファイト

 1945年3月18日午前6時45分、空母フランクリンからコルセア8機とヘルキャット2機が発進。鹿児島と出水の両航空基地撮影と戦闘機掃討の任務を帯びていた。

franklin 19450318 VMF-5 1-45.jpg

 第一撮影目標は出水航空基地だったが、曇りのため撮影できず。そのため、第二目標の鹿児島航空基地へ向かった。同航空基地と鹿児島湾内の船舶を撮影。
コルセアとヘルキャットは、出水上空を後にして鹿児島市上空を目指した。

敵機遭遇
 米軍機が鹿児島市上空へむかう途中、2ヶ所で敵機を発見、交戦している。

@ 5 mile south of Izumi(出水南方5マイルの地点)
 午前7時50分、Oscar(隼)を視認。
 
Three (3) Oscars were observed approximately five miles south of Izumi but they darted into the clouds and were gone.
 抄訳する。3機の隼を出水の南方5マイルで視認したが、敵機は雲の中に飛び込んだ。

A Over volcano in Kagoshima Bay(桜島上空)
 午前8時10分、米軍機は桜島上空11,000フィートで、零戦10機と遭遇。

 The sweep then returned from Izumi and encountered ten (10) Zekes over the volcanic in Kagoshima Bay at 11,000 feet.

A dogfight then continued for about ten minutes in which seven (7) of the ten (10) Zekes were shot down by our planes.
 抄訳する。
約10分間の戦闘で、零戦10機のうち7機を撃墜。

 Many of their pilots were seen bailing out.
 多くのパイロットが脱出するのを目撃した。

 作戦は、1945年3月18日に行われたのだが、空母フランクリンは翌日に被弾。この日に撮られた写真は失われたと、「AIRCRAFT ACTION REPORT」は記す。

 当ブログで、昭和20年3月18日に関する記事を掲載した。鹿児島航空基地攻撃を中心に書いた。同日に行われた空襲のほんの一部である。
昭和20年3月18日の空襲は、四国の一部と九州各地の飛行場が同時多発的に攻撃されている。

 鹿児島市の空襲、鹿屋市の空襲といった地域毎に描くのもよいが、九州全体を意識するのも必要と思う。この日の空襲について、メディアで取り上げられる機会は少ない。
そのため、同ブログでとりあげてみた。

関連ブログ
昭和20年3月18日 錦江湾上の米軍救難機
 (http://burakago.seesaa.net /article/511095623.html

昭和20年3月18日 列車銃撃・鹿児島
 (http://burakago.seesaa.net /article/510725449.html)

昭和20年3月18日 午後の空襲 鹿児島市
 (http://burakago.seesaa.net /article/503381559.html)

鹿児島市田上町の山中に墜落したグラマン機
(http://burakago.seesaa.net /article/503089160.html)

鹿児島市真砂本町の不発弾について
(http://burakago.seesaa.net /article/502692949.html)

鹿児島市真砂本町の不発弾
(http://burakago.seesaa.net /article/502589768.html)

昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市
(http://burakago.seesaa.net /article/489108677.html)
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2025年03月04日

昭和20年3月18日 錦江湾上の米軍救難機

 吉田裕著『日本人の歴史認識と東京裁判』に、次のような記述がある。

 私はこれまで、兵士の回想記などをかなり多く見てみたのですが、その中でよく目にするエピソードがあります。太平洋の孤島で米軍機が日本軍機によって撃ち落されると、搭乗員がパラシュートで下りてくる。そうすると、アメリカの場合は潜水艦や飛行艇等が救助に来るんですね。アメリカというのはやっぱり人命を大切にする国なのだな―そういう実感を持ってその光景を眺めていた人たちがいます。

 吉田先生は、太平洋に浮かぶ小さな島での出来事を戦争体験談から紹介する。撃墜された航空機を救助に向かう米軍。これは1945年3月18日付「AIRCRAFT ACTION REPORT」に記録されている。しかも、錦江湾(鹿児島湾)上である。

■空母ホーネット
 1945年3月18日午前8時15分、空母ホーネットから20機のヘルキャットが発進。
攻撃目標は、鹿屋航空基地と指宿水上基地、鹿児島湾上の船舶。鹿屋基地に対して2度目の攻撃を仕掛けた際、事件は発生した。

 While making the second strafing attack on the field, Ens. John P. WRAY, (A1), USNR, File No. 368879 was evidently hit by enemy anti-aircraft fire. His plane was seen to go down smoking, but he made a successful landing in KAGOSHIMA BAY at last. 31-13-30N, long. 130-44-00E.
Air-Sea rescue procedure was instituted immediately and planes orbiting saw WRAY leave the plane and get into his life raft. Orbiting planes were forced to leave the scene of the crash by gasoline shortage prior to the arrival of the rescue seaplane.
The seaplane arrived and picked up another downed pilot approximately 5 miles SW reported position and searched the area for others with negative results.

 抄訳してみる。
 鹿屋飛行場に対する2度目の機銃掃射中、John. P. WRAY大尉機に対空砲弾が命中。
同機は煙を吐きながら墜落。鹿児島湾の北緯31度13分30秒、東経130度44分00秒に不時着水。救援機が即座に行動し、着水上を旋回しながら大尉の救命ボートを確認。
しかし、救援機はガス欠のため現場を離れなければならなくなった。
飛行艇が現場海域に到着。大尉ではなく別のパイロットを南西5マイル地点で救助。
その後、同エリアを捜索したがWRAY大尉を発見できなかった。悲観的な結果となった。

 WRAY大尉が不時着水した「北緯31度13分30秒、東経130度44分00秒」をグーグルアースで確認する。指宿水上基地と現南大隅町との間の海域だった。

 戦争体験談を読み直せば、この事件の目撃談を見いだせるかもしれない。
空襲被害を調べている先達の研究に目を通していると、戦争体験談を読み込んでいるのが分かる。米軍資料と戦争体験談を照らし合わせながら、戦争の実態に迫るより方法がない。
日本側の資料があればよいのだが・・・。


参考文献
『日本人の歴史認識と東京裁判』(吉田裕・岩波ブックレット・2019年)
「AIRCRAFT ACTION REPORT REPORT No.33」
posted by 山川かんきつ at 06:19| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月24日

昭和20年3月18日 列車銃撃・鹿児島

 前回、西鉄電車銃撃についてふれた。
アメリカ海軍資料の『AIRCRAFT ACTION REPORT』(艦載機戦闘報告書)によると、鹿児島県内でも列車に対する機銃掃射が行われていた。
今回は、昭和20(1945)年3月18日の鹿児島航空基地に対する攻撃を記した文書をもとに記してみる。

19450318 kagoshimaAF battan.jpg

昭和20年3月18日 鹿児島航空基地
 午前5時30分、空母ハンコックから発艦したコルセア16機は、鹿児島航空基地を目指した。13機が機体組立工場を攻撃。この工場は、おそらく第22海軍航空廠鹿児島補給工場と思われる。

 帰路、2ヶ所で汽車に対して攻撃をおこなっている。
@Uzaki
A locomotive at Uzaki, 9miles Southwest of Kagoshima, was strafed and rocketed. Damage was unassessed.
A locomotive was attacked in the station at Uzaki by a two plane section lead by lieut,(Jg)EBERLE.


 直訳すれば、鹿児島市の南西9マイルのUzakiで、汽車に機銃掃射とロケット攻撃。損害は不明。
EBERLE中尉率いる2機が、Uzakiにある駅で汽車に機銃掃射。

 おそらく、鉄道は南薩鉄道と思われる。米軍作成地図をみると、現在の南さつま市周辺に「Osaki」とある。「薩摩万世駅」と考えているのだが、同地は鹿児島市から14マイルから16マイル離れている。同駅でないかもしれない。

kagoshima pref map.jpg

AZuka
A locomotive and freight train was rocketed and strafed at Zuka. The train stopped and clouds of steam was seen to envelope locomotive.

直訳してみる。Zukaで汽車と貨車にロケット攻撃と機銃掃射。汽車は停止し蒸気で覆われた。

 文書のいう「Zuka」が、どの地域を指すのか不明である。この日、伊集院駅に向けて走行中の列車が攻撃を受けたとする体験談がある。それと関係があるかどうか、いまのところ不明である。
「Uzaki」と「Zuka」を確認するために、当時の記録が欲しいところである。

加治木・国分間で機銃掃射
 14時15分、空母バターンを発艦したヘルキャット8機は、鹿児島航空基地を目指した。同飛行場で戦闘機掃討を目的に飛来したのだが、敵機はなかった。出水航空基地攻撃へと向かった。その帰路のことである。

 A train was strafed between Kokubu and Kajiki, Kyushu, with undetermined result.

直訳すると、国分・加治木間で列車に機銃掃射したが、戦果は未定。

 機銃掃射は、午後4時から5時の間であろうと思われる。門司鉄道局鹿児島管理部が、記録を残していたであろうと推測するが、まだ文書を見いだせていない。
できれば、当時の記録が残されていればよいのですが…。

鹿児島市で列車に機銃掃射
 14時30分、空母フランクリンから発艦したヘルキャット2機とコルセア6機は、出水と鹿児島との両航空基地をめざした。これらの基地を撮影するためである。
出水基地を攻撃後、鹿児島市上空に差しかかった時のことである。

 While returning to base two trains were sighted north and east of Kagoshima airfield.
All eight planes strafed and steam explosions of the locomotive resulted.


 直訳する。
 帰還途中、鹿児島飛行場の北と東で2本の列車が目撃。8機が機銃掃射を行い、機関車は蒸気爆発を起こした。

 「鹿児島飛行場の東」は、分かりかねる。大隅半島を走る列車を指しているだろう。
今回は3例あげてみた。当時、鉄道被害を記録した文書が発見されるかもしれない。
米軍の資料と突き合わせることで、空襲の実態が分かってくるだろう。

■関連記事
 「昭和20年8月8日 西鉄電車銃撃
 http://burakago.seesaa.net/article/510513035.html
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2025年02月19日

昭和20年8月8日 西鉄電車銃撃

 先日、毎日新聞で「伝承顔が見えてこそ 終戦直前西鉄電車銃撃犠牲者資料なく」を読んだ。
昭和20年8月8日、福岡念筑紫村(現・筑紫野市)を走行中の電車が米軍機から銃撃され、多くの乗客が亡くなったそうだ。

 記事によると、被害をつづる当時の記録が見当たらないらしい。死傷者数についても明確にならないそうだ。同教委は、事実を掘り起こそうと、電車の乗客や遺族、目撃者の聞き取り調査に乗り出している。
そんなか、市教委は米国立公文書館で作戦報告書を入手。電車を攻撃したのが、沖縄県の伊江島から発進したP51戦闘機マスタングであったことがわかった。

 こうやって、少しずつ空襲の実態がわかってくるのだろう。鹿児島市の空襲被害を聞き取り、犠牲者を明らかにした書物がある。『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』。
同書は、昭和20年4月8日に発生した鹿児島市空襲を記している。
この日、鹿児島市田上町で爆撃があり100余名の死者が出ている。遺族の聞き取りをもとに、氏名や被弾場所などを一覧表にしている。貴重な記録である。

 『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』は、この日の空襲を「米軍機数十機は・・・」と曖昧に記す。アメリカ陸軍第21爆撃機集団の文書『Tactical Mission Report』によれば、B29爆撃機が攻撃していた。
当日の天気は曇り。機影を見た者は、いなかったと思われる。鹿児島日報の記事は、「雲上より盲爆を・・・」と記す。

 『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』によると、当時の田上町は農村地帯。詳細な情報が市民に入らないため、さまざまな憶測が飛び交ったようである。
当時の市民たちが、情報をどのように得ていたか。流言飛語も含めて調べてみたいと考えている。

 昭和20年8月8日に話を戻す。
筆者は、アメリカ陸軍第7航空軍、同第5航空軍の資料を持たない。そのため、沖縄基地を発進した米軍機の動きはわからない。そのため、艦載機とB29の動向をさぐっているところである。

筆者の持つアメリカ第5航空軍の資料に「Strafing mission」題された文書がある。
1945年8月8日に、次のような記述がある。

 9 Sorties. Strafed U/I factory building at Takase RR junction 32°55’N-130°34’E.
Hit on factory at Yatsushiro, 32°30’N-130°37’E.
2 strafing passes on U/I factry at Marushima(32°12’N-130°24’E)

 ご当地の方は、これらの空襲についても調べると良いかもしれない。
当時の米軍は九州をひとつの島と見ていたようである。1945年5月15日作成の文書に、「Kyushu Island」とある。
 九州各地の空襲を調べる際は、九州への攻撃といった視点も必要かもしれない。


参考資料
「伝承顔が見えてこそ 終戦直前西鉄電車銃撃犠牲者資料なく」(2025年2月11日付毎日新聞)
『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』(田上の空襲を記録する会・1984年)
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2025年02月13日

戦前・戦後の断層

 昭和43(1968)年に、鹿児島県明治百周年記念式典が行われたそうだ。
想像するに、大きなイベントだったのではないか。地元メディアは、維新の大業として連日にわたって報道したと思われる。

 そのような中で、明治維新を冷静に見ていた人物が2人いた。『明治百年と鹿児島』と題する一冊に掲載されている。
ひとりは、篠崎五三六さん。当時、鹿児島女子短期大学で教鞭をとられていた方である。略歴を見ると、旧制中学校長を歴任するなど長く教育に携わっている。

戦前戦後の断層 篠崎五三六
 政府は、国としての明治百年記念行事を、「過去百年の事績を回顧し、次の百年への希望をこめて国民の決意を新たにする機会とする」という立場で企画実施するという。そして「封建時代から脱却し、近代国家建設という目標にむかってまい進した、世界史にも類例をみぬ飛躍と高揚の時代であった。この百年における先人の勇気と聡明と努力」を、従って、これら先人に対する「敬意と称賛の念」を強調する。

 このことは「維新の主役たち」を先輩としてもち、「その原動力は、当時の鹿児島の人々の先見的知識と、生生躍動する地域社会の総合的エネルギーであった」とするわが鹿児島のようなところでは、まことにわが意を得たものといえよう。


 明治維新に対する解釈は、現代も変わらない。篠崎の指摘どおりである。同氏は戦後20数年を経た社会に対して、疑念を抱く。

 主権在民の憲法をもち、人間性の尊厳と個人の自由とを基調とする、基本的人権が認められたのは、それから八十年も後のことである。それも、われわれ自身の努力ではなく、敗戦という全く予想もしなかった外部からの力に支えられて、そしてようやく二十年、古いものはまだ力強くその根を残し、新しい生命はまだろくに根を張ってもいない。
これが明治百年の現状ではなかろうか。

 
 このような現状の中で、その古き時代の、時には封建の世界の中で生まれ育った、伝統や精神や行事などの幾つかが強調されようとしている。

 そうして、篠崎氏は維新礼賛の風潮に対して釘をさす。

 過去においてすぐれていた、意義があったという評価だけから、これを安易に現代に再現することは、慎むべきである。
明治百年は、戦前戦後の断層の認識と、その評価から始めるべきだと考える。


 もうひとり、維新礼賛に批判的な論考をつづった人物がいる。作家の島尾敏雄である。

琉球弧を目の中に 島尾敏雄
 私は歴史を流動するすがたでとらえたいと考えています。仮にある期間を区切るとしても、それはひとつの便宜的な手段としえのことだと考えたい。
 明治百年を言うにしても、明治の初年が基点であるのではなく、その時期は流動する日本の歴史の川の流れの中で、顕著なひとつの曲がりかどになったところだと理解したいのです。


 島尾はつづける。

 明治初年の鹿児島県の栄光を菊人形のように固定させたくはありません。そこのところにばかり気を奪われると、歴史は死んでしまうでしょう。目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまうような気がします。

 筆者は昭和43年の祭典を知らない。明治150周年記念事業は目にした。メディアが明治維新をどのように報ずるか注視していた。
明治維新を絶対化するばかり。別な視点で相対化する姿勢は見られなかった。
島尾氏の指摘どおり、「目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまう」だったと思う。

 篠崎氏と島尾氏の冷静な論考は、維新礼賛に沸く人々の心に届かなかったかもしれない。
イベントに水をさす位の評価だったと思われる。その後も、2人の論考が顧みられた様子はない。
鹿児島の場合、歴史的評価が一つだけという風潮は、これからも変わらないかもしれない。

参考資料
『明治百年と鹿児島』(南日本新聞社・昭和42年)


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2025年02月07日

維新ふるさと館

 先日、地元紙で面白い記事を目にした。
2025年1月31日付南日本新聞「維新ふるさと館刷新へ 26年度、展示物や動線工夫 西郷生誕200年に向け」である。

 鹿児島市加治屋町の維新ふるさと館は、2026年度に館内をリニューアルする。展示物や動線を工夫し、幕末維新期の薩摩の偉人の功績をより分かりやすく紹介。28年に迎える西郷隆盛生誕200年に向けて機運を盛り上げる。

 情報を整理し、偉人の個性や功績を分かりやすく示すことで、「薩摩の人のチカラ」を再発信する。


 記事を一通り読んで、鹿児島の典型的な歴史観を描写した記事である。おそらく、行政もメディアも同じであろう。「明治維新150周年」の際、筆者は痛感した。
幕末・維新を絶対化する態度に辟易する。この時代を相対化する姿勢が見られない。
『昭和という国家』で、司馬遼太郎は幕末・維新を次のように評している。

「昭和」という国家 - 司馬 遼太郎
「昭和」という国家 - 司馬 遼太郎

 明治維新はいろいろ素晴らしいものを持っていました。幕末のひとびとも素晴らしいものを持っていました。しかし、思想は貧困なものでした。尊王攘夷だけでした。
明治維新は立派な革命なのに、尊王攘夷という思想しか持っていなかった。

 昭和期になって明治のひからびた思想を利用した。
そのひからびた尊王攘夷を持ち込み、統帥権という変な憲法解釈の上にのっけたのではないかと。


 作家、永井荷風も『断腸亭日乗』で戦中期に記している。
 
 昭和18年6月3日付
 鎖国攘夷の弊風いつまで続くにや。

 以前、鹿児島の歴史観は「島津に暗君なし」と「維新の大業」であると記した。
これらが答えであって、別な視点からの考察はない。出版物や報道を目にした際の感想である。

 筆者は15年戦争時の歴史に関心を寄せている。大日本帝国の始まりとして幕末・維新期を見れば、先述の新聞記事と異なる感想をいだく。
司馬遼太郎氏も『昭和という国家』で述べる。

 やっぱり明治憲法はまずかったのでしょうね。その理由を探すと、明治維新そのものにあったのではないかと思うのです。

 幕末・維新の歴史を絶対化する態度の裏側に、どのような考えがあるのか掘り下げてみたい。観光用だろうか、エンタメ用だろうか。
南日本新聞の記事を読んで思う。行政とメディアは、連続した歴史として捉えていないと思われる。個別の歴史事象を取り上げているだけのようだ。

 そろそろ、幕末・維新の歴史を相対化して描いてもらいたい。

関連記事
 「子どもたちの問い」
 http://burakago.seesaa.net/article/507779380.html

参考資料
「維新ふるさと館刷新へ」2025年1月31日付南日本新聞
『昭和という国家』(司馬遼太郎・NHK出版・1998年)
posted by 山川かんきつ at 12:40| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月01日

1944年12月26日 米軍機飛来 南九州

 先日、知覧特攻平和会館のホームページを行った折、研究紀要を閲覧した。
いくつかの論文のうち、「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡)の一文に目がとまった。

 知覧に初めて偵察機が飛来したのは1944年12月26日である。

 同論文に、偵察機が飛来した一覧表もある。1944年12月26日は、「作戦番号4MR50」とある。
これは、1945年5月15日作成の米軍文書に、同じ作戦番号の偵察写真が掲載されている。
「Sortie 444BG/4MR50/XXBC ,26 Dec 1944」。
 第20爆撃機集団第444軍団、作戦番号4MR50 1944年12月26日。
同文書に掲載された写真は、宮崎県と鹿児島県にあった飛行場と軍需工場をとらえている。

@KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
AKANOYA EAST AIRFIELD(笠之原飛行場)
BKORIMOTO AIRFIELD(都城東飛行場)
CMIYAKONOJO AIRFIELD(都城西飛行場)
DNITTAGAHARA AIRFIELD(新田原飛行場)
EUnidentified Plant, MIYAZAKI(川崎航空都城工場)
FUnidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
GKAGOSHIMA CITY
HMIYAZAKI CITY
IMIYAKONOJO CITY

 ここでいう南九州は、米軍の設定地域である。現在の南九州と若干異なるかもしれない。
同文書に知覧飛行場の写真が掲載されているが、1945年3月18日撮影である。
八巻さんの研究で、1944(昭和19)年12月26日、米軍偵察機が知覧に飛来した事実があった。上に記した飛行場や軍需工場、市街地の写真は同日に撮影されたのであろう。
第20爆撃機集団の偵察に関する文書を、収集する必要がある。

 鹿児島市の空襲について考える。『鹿児島市史第2巻』で、昭和20(1945)1月1日に関する記述がある。

 鹿児島市に初めて敵機が飛んで来たのは、昭和20年(1945)1月1日である。勝目清回顧録によると・・・。

 同書は、昭和20(1945)年1月1日と断定している。
これは、『勝目清回顧録』(1964年刊)の記述をもとにしている。終戦から19年後に刊行され、個人の回想録を根拠にしている。
米軍文書に掲載された写真と矛盾してくる。

KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
 19450318 kagoshimaAF 1.jpg

Unidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
 tanabe1.jpg

KAGOSHIMA CITY
 kagosimaAF19441226.jpg

 終戦から80年が経つ。
これまで常識とされてきた空襲の記述を、今年は見直す機会になればと思う。

■関連記事
 「1944年米軍機飛来
 burakago.seesaa.net/article/499012410.html

 「昭和20年1月1日 鹿児島日報の記事から
 burakago.seesaa.net/article/502204394.html

 「鹿児島市にB29が初めて姿を見せた日
 burakago.seesaa.net/article/504149507.html

 
■参考文献
「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡・知覧特攻平和会館HP・2025年1月20日閲覧)
posted by 山川かんきつ at 22:44| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月25日

昭和の戦争への関心度

 昨年8月29日付毎日新聞の「開かれた新聞委員会2024」を読み返した。「戦後80年へ記憶共有」である。
記事冒頭、東京社会部長の談話に考えさせられた。

 毎年8月15日を前に連載企画を展開していますが、なかなか読まれないのが課題です。戦後80年を迎えますが、新聞社の目的は、次世代に戦争の記憶をつなぎ、二度と戦争が起きないようにするにはどうするかであり、これは何年たっても変わらないところです。

 当ブログは、十五年戦争を軸に記事を書いている。感心の低さを痛感している。
個人のブログではあるが、一次資料をもとに記事を書いている。少しばかり読まれてはいるようだが、反応はない。要因を少しばかり考えてみた。

 ひとつは、十五年戦争に関する情報が圧倒的に少ない。
地元メディアの報道に接していると、特定の事象に偏っている。たとえば、特攻や鹿児島大空襲など。報道される空襲体験談に耳を傾けていると、体験者の話をそのまま伝えている。それも貴重な記録に変わりないが、検証した形跡がない。
終戦から80年近く経ってからの証言である。記憶違いもあるだろう。
何より、尋ねる側がその日の空襲について、どれだけ知っているかも問われると思う。

 2024年8月31日付毎日新聞に、「8月ジャーナリズム」と題するコラムがある。

 そうでなくてもメディアの8月報道は低調だった。
だが、嘆くまい。我々は戦争記憶の語り方、伝え方、受け取り方を見直す転機にいるからだ。(途中省略)
 8月ジャーナリズムも、記憶の偏りと改変を免れない生存者の証言を「真正かつ神聖」とあがめすぎる惰性から、自覚的に脱却すべき時を迎えている。


 記事のいう通りだろう。
戦争体験者の語る内容をそのまま伝えるのも、ひとつの方法だろう。そこから、検証できる。ここで、ひとつ困難にぶつかる。
それは、当時作成されたであろう記録を容易く見つけられないという現実である。「資料の発掘」という作業が必須である。
地元メディアの報道に接していると、この点を理解しているか否か疑わしくなる。
 
 毎日新聞の記事を読んで思うに、同紙の記す戦争体験談は従来と少しずつ変わっていくかもしれない。

参考文献
「開かれた新聞委員会2024」 2024年8月29日付毎日新聞
「8月ジャーナリズム」 2024年8月31日付毎日新聞・土記
posted by 山川かんきつ at 12:06| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月15日

『教育の国有化』 清澤洌の著作から

 清澤洌は、昭和初期に活躍した外交評論家。同氏の論考や日記は、15年戦争時に関心をもつ者にとって、有り難い一次資料である。
清澤の論考は、アメリカ戦略爆撃調査団資料と相性が良い。また、鶴見俊輔や司馬遼太郎の論考などとも繋がる。
それだけでなく、清沢の指摘は現代にも通じるところがある。やはり、戦前・戦中と戦後は変わらぬ点が多々あるのかもしれない。

 前回にひきつづき、清澤が昭和10(1935)年に著した「教育の国有化」をとり上げる。当時の雰囲気をうかがえる内容にして、現代にも通じそうな内容である。今回は、2つに絞って記す。

暗黒日記: 1942-1945 (岩波文庫 青 178-1) - 清沢 洌, 山本 義彦
暗黒日記: 1942-1945 (岩波文庫 青 178-1) - 清沢 洌, 山本 義彦

注入主義教育の結実
 近頃どこに行っても、一番目につく現象は国家と社会を憂うる人士が非常に多くなったことだ。こんな人がと思う人まで口を開くと、国家の前途を如何とか、社会の改革を断行せねばならぬとかいってまわっている。

 
 昭和10年の大きな事件といえば、天皇機関説と国体明徴宣言。前年に陸軍パンフレットが発行され、すこしずつ国家主義へと舵を切り始めた頃だろう。巷では、不安をあおる言説が目につくようになったのであろう。
寺田寅彦が『天災と国防』(昭和9年)で、こう記す。

天災と国防 (講談社学術文庫 2057) - 寺田 寅彦
天災と国防 (講談社学術文庫 2057) - 寺田 寅彦

 「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳(ようえい)していることは事実である。

 清澤はある役人から聞いた話をつづる。数人の大学生が、その役人のもとに訪れたそうである。当時の大学生といえば、知識階級である。
役人が学生たちに訪問の趣旨を尋ねると、日米間の経済問題についてだった。

 日米間の貿易は近頃、日本にとって非常に入超になっている。それが毎年毎年増加して行っているのだ。昭和七年の入超は六千五百万円ばかりであったのが、八年は二億三千万ばかり、昨年は実に三億四千万円にもなっているのだ。
「日本はアメリカからこんなに買越しになっています。一体、外務省などは何をしているんですか」と、その学生代表者は卓をたたいていうのである。


 役人は学生たちに聞き返す。

「それならお聞きするが、アメリカから輸入する何を止(よ)したらいいというんですか」
アメリカから来るものは、綿花と鉄と油と機械だ。日本が産業的発展を期するために、その内のどれを排斥出来るのだ。


役人は学生たちに答える。

「僕も学生時代があった。だがわれらの学生時代は諸君のように、上すべりではなくて、今少し内容も研究しましたね」。
 日米両国の貿易が、日本側の不利になっている。その事実に気がつく事は、テンで気がつかないものよりどれだけいいか分らない。しかし既にこの事に気がつく以上は、更にその内容がどうなっているかを研究して、その事実の上に立脚して、真面目な建設的対策を研究すべきはずである。その心構えが、現在の学生にあるだろうか。


 清澤は、こう結論づける。

 注入主義教育の果実は、一つの問題を概念的に受け入れて、かつてこれを掘り下げることをしないことだ。国を憂うることは結構だが、その内容の検討と、それから生まれる対案がない。

 清澤の結論は、現代にも通じるように思う。表面だけを取り上げて、深掘りしない。報道でも見受けられる。そうなると、自分で資料に当たるほかない。ネット上の情報は玉石混淆と言われるが、つぶさに見ていくと、玉のようなサイトはゴロゴロしている。情報流通業のメディアは、こうしたサイトにも目を向けるべきだろう。

 「日米両国の貿易が、日本側の不利になっている」。これと似た発言をされる次期大統領がおられる。「deal」がお得意のようだが、彼も表面だけ取り上げて深掘りしないタイプの人物かもしれない。
 清澤は、この論考でもうひとつ指摘する。

学問に対する尊敬の問題
 学問に対する侮辱が近頃ほど甚だしい時代はない。かつて学問というものが、法外に尊重されたこともあった。その反動かもしれないが、しかし最近は何十年間、学者が研究した学説などというものも、酒屋や八百屋の小僧さんたちの侮言を買う材料にしかならない程度である。

 清澤の言う「軽侮される学問」は、社会科学や人文科学を指すようである。原因についてこう指摘する。
@科学はその結果が実験によって直ちに明らかになるからである。これに対して、広い意味の社会科学は、その結果がなかなか明白にならい。
Aかれらといえども憲法の問題や、政治の問題や、国際関係の問題について、その知識において、何十年もそれだけを研究している人々に比し
て、自分が優っていると考えない。だがそれにかかわらず、その意見だけは自身が絶対に正しいと考えるのである。

 「理高文低」は、現代だけでなく昭和初期にまで遡れそうだ。日本学術会議任命
問題も、こうした意識が根底にあるかもしれない。
清澤が指摘する「その意見だけは自身が絶対に正しいと考える」は、現代でも見受けられる。とくに、太平洋戦争開戦に関してそうした考えを述べるサイトを見かける。

 そこには、納得できる客観性が乏しい。一次資料を用いた説明がない。
すくなくとも、『杉山メモ』くらいは引用しつつ論を進めて欲しい。 

参考文献
『清沢洌評論集』(清沢洌・岩波文庫・2014年)
『現代日本論』(清澤洌・千倉書房・昭和10年)
『天災と国防』(寺田寅彦・講談社学術文庫・2011年)
posted by 山川かんきつ at 16:49| Comment(0) | 清沢洌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月10日

教育の話 清沢洌の論考から

 ここ数年、新聞に目を通していると「教育」に関する記事に出くわす。勉強が苦手な筆者は、こうした記事を既読スルーしている。
先月15日付毎日新聞の「時代の風」は、思うところがあった。
藻谷浩介さんの「ネットが共有させた虚構」と題する寄稿である。

 人間の本性がそうであればこそ我々は、「正解」とされるものの丸暗記をやめ「正解のない問い」に対し、少しでも蓋然性の高い解答を推論する練習をしなくてはならない。

 この指摘は、これまで新聞記事で繰り返し報じられている。たとえば、2024年2月18日付讀賣新聞の「あすへの考」である。

 人間は今後、AIが代替できない分野で力を発揮し、正解のない問題に力を合わせて対処することが求められている。そこで注目されているのが、創造性や協調性など人間ならではの能力だ。これらは「非認知能力」と呼ばれ、文部科学省も学力の要素として重視している。
日本では長年、「学力とは知識量」という考え方が主流だった。


 記事を読み進めるうちに、清沢洌の論考を思い出した。昭和10(1935)年に著された「教育の国有化」である。

清沢洌評論集 (岩波文庫 青 178-2) - 清沢 洌, 山本 義彦
清沢洌評論集 (岩波文庫 青 178-2) - 清沢 洌, 山本 義彦

清沢は、当時の学校教育を「注入主義」として批判。その弊害について述べる。

 注入主義の教育は、何が善であり、何が悪であるかということを内容を検討せずに教え込む。そこには周囲の変化と、経験によって自己の意見を変更する余裕はない。また学問の研究から生れる「真理」に対する尊敬というものはない。その傾向は、日本の現在の教育にいちじるしく見られるものだと思う。

 つづけて、清沢は注入主義教育の弊害について3点挙げる。

@ 現代のように団体的行動を必要とする時世においては、国民全体が強く固まることは、確かに必要なことだ。しかしそれと同時に、これからくる危険は、創造と自由と独立を、教育と社会から奪うことだ。
統一ということと進歩ということとは本質に於て異なるところの二つのものである。進歩というものは、元来異説によって生まれるのだから、上からの命令のみに動く社会には内容的な進歩は期しがたい。

A 今一つ教育の国有化からくる危険は、国家が謬(あやま)る場合に、これを正すことが困難なことだ。
 命令で動いている習癖がついていると、とかくにこれに気づかないし、また気がついても批評は許されないのが常だ。国家に争臣なく、社
 会に批判なし、如何に危険であるかが分かるはずだ。

B 最後に詰込教育の危険なのは、物を批判的に見ず、ある既成観念を固守する結果、社会的に討議して、漸進的進歩の道をとるということが困難だ。


 清沢の論考「教育の国有化」は、昭和10(1935)年に著されている。教育に関して、90年前と変わらない点が多いかもしれない。最近の新聞記事が伝える教育の問題は、清沢が活躍していた90年前と変わらないかもしれない。

 
参考文献
「時代の風」2024年12月15日付毎日新聞
「教育の国有化」(清沢洌・岩波文庫『清沢洌評論集』所収・2013年)
posted by 山川かんきつ at 11:28| Comment(0) | 清沢洌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする