2016年05月05日

加治屋町の読み方

 つい先だって、いづろの電停から「谷山行き」の電車に乗ったところ、高見馬場交差点を直進したのでした。内心焦りつつ、電光掲示板に目をやると「谷山行き」の表示。
乗り間違いではないらしい。十数年ぶりに乗った2系統の電車でありました。
しばらくして、電車が郡元の交差点を右折する段となり、「中央駅経由谷山行き」であることにようやく気づいたのでした。
 
以前、『加治屋町の呼び方』で取り上げたところですが、書き改めてみました。

■ カジヤチョウ
 焦りつつ乗っていた電車が、「加治屋町電停」に差し掛かったときのことである。
運転士さんは「カジヤチョウ」と案内。電停の看板に目をやれば、「kajiya-cho」の文字。
以前乗ったときは、「カジヤマチ」と呼んでいたと思うのですが、そこで加治屋町の読み方について調べてみることにしました。

■ 鍛冶屋町
 『鹿児島市史こばなし』に加治屋町について次のような話が掲載されていました。
「内城即ち大竜寺屋形が慶長七年鶴丸城に移ったころ、この地一帯は鍛冶屋が多く鍛冶町とよばれていた。のちこれがなまって加治屋町となる・・・」

鶴丸城建設と御城下の整備、甲突川の付け替えなどの大規模工事によって、鑿や鉋などの道具の需用はかなり高かったと思われます。相当数の鍛冶職人がいたかもしれません。
加治屋町は歴史ある古い町名のようです。

薩藩沿革図をみると、「上之加治屋町」と「下之加治屋町」に分かれていたようです。
天文館方面から見て、今の電車通りを境に右手が「上之加治屋町」、左手が「下之加治屋町」と記されています。
西郷さんをはじめ、大久保利通や大山巌などの偉人を数多く輩出したのは「下之加治屋町」になります。

■ カジヤマチ
『勝目清遺稿集鹿児島つれづれ草』(昭和48年)に、加治屋町の呼び方について次のように記しています。

「昔は上の加治屋町と下の加治屋町と2つに分かれていて、「ウエン、カンジャマッ」「シタン、カンジャマッ」とそれぞれ呼んでいました。それが合併して「加治屋町」と書くようになって、「カンジャマッ」と呼んだのです。
私は77歳ですが、若い頃から「カンジャマッ」と呼んでいました。「カジヤチョウ」とは言いませんでした。いつごろからともなく、「カジヤチョウ」と呼ぶようになったのではありますまいか。
加治屋町の呼び方は、鹿児島語では「カンジャマッ」、標準語では「カジヤマチ」と呼ぶのが固有の呼び方であります。」

 加治屋町の本来的な読み方は、「カンジャマッ」「カジヤマチ」であるようです。下之加治屋町出身の偉人さんたちも、「カンジャマッ」と呼んでいたかもしれません。
また加治屋町電停の呼び方について、同書は次のように記しています。

「以前、市電停留所名は柿本寺通りと呼んでいたのを、西郷・大久保両先輩に縁故深い加治屋町と呼ぶことに変更したとき、昔のとおり「カジヤマチ」と呼ぶようにしてもらったのであります。」

 筆者がおぼろげながら覚えていた「カジヤマチ」には、上記のようなこだわりがあったようです。

■ 余 談
「カジヤマチ」と呼んでいた証拠はないかと思い、期待をもって、アメリカ陸軍が1945年に作成した鹿児島市地図をみてみました。「KAJIYACHO」とローマ字表記。んー残念。







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2015年08月23日

戦前戦中の鴨池飛行場周辺

飛行場建設前
今では想像もつきませんが、古い地図や書物などによると、現鹿児島市立図書館周辺は白砂青松の風光明媚な海岸であったようです。
また鴨池の浜から南の方に目を移せば、現真砂町から谷山小松原、七つ島まで松林がつづいていたそうです。
飛行場ができまでは、今の真砂町や真砂本町も海岸に接しており、風光明媚なところでした。

現真砂保育園の辺りには、松林に囲まれたサナトリウム境濱海濱院と呼ばれる病院がありました。
療養施設としては、最適な環境にあったようで、『鹿児島案内』」という本に、海浜院の様子を次のように記しています。

「鹿児島境濱海濱病院は市外郡元境濱にあり。明治38年医学士加藤好照氏の創立に係る病院なり。同院の周囲は白砂青松を以て繞らし、其境間実に壱萬三千有余坪の面積を有し、地質は表面砂土より成れるを以て、常に乾燥し水質は清良なり。空気は新鮮にして“オゾン”に富み、加ふるに白砂青松相連なりて気候温暖、風光明媚他に多く其比を見ざる所にして(途中略)濱に貝を拾ふべく、海に魚を釣すべし、其の曠濶にして雄大なる洵に天然の楽境(楽土)と云うべし・・・」

【 鶴ヶ崎温泉 】
昔の真砂町周辺は風光明媚なところであったことから、昭和8年に鶴ヶ崎温泉という施設が造られたようです。
鶴ヶ崎温泉について『鹿児島県温泉案内』(昭和8年刊)は、次のように記しています。

「鹿児島市外、郡元鶴ヶ崎にあり、往時柴立温泉と称して温泉が湧出し居りしも、薩藩の政策により之を閉塞したる事実あるに鑑み、斯道の専門家を聘して種々調査研究の結果、現在の場所を卜して昭和6年5月起工し、翌7年6月掘削深度約2千尺にして、湯量豊富なる好温度の温泉湧出したり。
 同泉は株式組織で、浴場の建設遊園地及噴泉設備等何れも極めて近代的設備をなす等、約半歳を費し漸く本年3月下旬開業の運びとなりたり。殊に本温泉は広大なる敷地を有するを以て、希望の向には土地及び温泉を分譲する等目下着々事業の遂行中である。」

鶴ヶ崎温泉の場所がハッキリしないため、地図に示すことはできませんが、海岸近くにあったようです。「又海岸に接近し、夏季は海水浴に至て便なり」。
泉質は、「無色透明にして臭気なく、塩味を有す」であったそうです。

鶴ヶ崎温泉のアクセス方法について次のように記しています。
「鹿児島駅及西鹿児島駅より電車にて郡元(現在の涙橋)に下車し、徒歩約二丁、鴨池遊園地より約五丁なり、今回会社の直営にて郡元電車停留所より温泉場迄、乗合自動車の認可を得たから不日開通の運びになろう。」

契機の悪い時代であったと思われます。空港建設も計画されおり、それを見込んでの先行投資であったかもしれません。

空の玄関口
第一次世界大戦が終わると、世界的に飛行機による世界一周競争がブームとなりました。
世界一周を目指して初めて日本にやって来たのは、アメリカのスミス機であったそうです。スミス機は東京到着後、上海へ向かう計画を立て、途中鴨池沖に着水しました。
燃料や食料、飲料水補給のための着水でした。
当時の世界一周機はゲタ履き、『紅の豚』に登場する水上飛行機でした。
その後も世界一周を目指す外国の飛行機が、次々と錦江湾に着水するようになったそうです。

昭和に入ると、飛行機の性能は格段に向上して陸上機が主流となってきました。
民間だけでなく軍も飛行場の必要性が高まって来ました。
また、当時日本の空は国防上、外国機が自由に飛ぶことは禁じられていました。
鹿児島の飛行場を外国飛行機の離着陸地とし、内地へは日本の飛行機に乗り換える計画であったそうです。

飛行場建設候補地として吉野高原、紫原、谷山小松原海岸、新川尻などが挙げられました。
水上機のことも考慮しなければならず、吉野高原と紫原は除外されました。
谷山小松原海岸が最適地でありましたが、鹿児島市外であることと県当局に熱意がなかったことから、昭和8年新川尻に決定されたのでした。
『勝目清回顧録』に詳しく掲載されていますので、参照ください。

海軍航空隊鹿児島基地
昭和13年3月、新川尻埋立工事が始まりました。当初13万坪の予定でありましたが、政府の命により飛行場面積は25万坪に拡張されることになりました。
この時から、鹿児島飛行場は国防基地としての役割を期待されたようです。
昭和15年、長さ1500m、幅650mの飛行場が完成。

同16年1月には海軍が徴用(強制的な接収)、海軍の飛行基地としてスタートしたのでした。
同時に、第一航空艦隊の艦攻、水平爆撃嚮導機の錬成基地として使用されました。
真珠湾攻撃後の昭和17年以後、戦闘機隊の錬成基地となりました。

滑走路について
航空隊時代の滑走路について調べてみましたが、判然としません。
昭和47年の南日本新聞「サヨナラ鴨池空港」という連載記事では、滑走路の長さを1200mとしています。
終戦直後の鴨池空港と記された写真が掲載されています。1200mの滑走路が一直線に伸びていますが、いろいろ考えるに昭和20年後半か昭和30年のものかもしれません。
ダイエー郡元店1階、電車通り側で昔の鴨池周辺の写真展示を行っています。
前述の新聞記事に掲載されている写真と同じものが展示されていますので、ご覧になってみてください。

『鹿児島市議会史100年あゆみ』によると、昭和28年5月25日付、運輸省は鹿児島飛行場の設置許可を公示。滑走路の長さ550m、幅30mで民間飛行場としてスタートしたそうです。
滑走路の長さ1200m、幅30mに整備されたのは、昭和31年のことでした。

『薩摩パールハーバーの男たち』、『アジア・太平洋戦争と鹿児島戦跡調査 鹿児島市と県央部編(生協コープかごしま)』も航空隊について触れています。
滑走路については、「幅25mの1基、特設:北側に空母着艦訓練用の滑走路」と記述され、長さについては触れていません。
奇襲 南日本ブックス (薩摩パールハーバーの男たち)』によれば、作者は昭和16年8月海軍航空本部がまとめた「航空基地一覧」を参考にしたようです。
筆者は「航空基地一覧」を探し出せずにいます。お持ちの方がおられましたら、拝見させてください。

鴨池飛行場の名残
掲載した写真は、鴨池飛行場の東端に当たると思われる所です。
場所は、”おいどんが市場”近くになります。

kamoikehikoujou101.jpg

今では使用されない、古い石垣と思われます。飛行場建設当時のものかどうか、ハッキリわかりません。
昭和26年10月14日のルース台風がもたらした高潮によって、飛行場の護岸が一部決壊したそうです。(鹿児島市政だより1951・10・31 31)
この頃に補修されているかもしれません。

鹿児島航空基地については史料が少なく、分からぬことばかりです。
参考資料、情報がありましたらお寄せくださると有難いです。
次回は、予科練について触れてみます。
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2015年08月01日

明治以後の真砂本町周辺

前回から真砂町や真砂本町周辺について触れています。
太平洋戦争より以前に関する史料が少ないため、漠然とした記述になりそうです。

明治初めごろの郡元村
『鹿児島県地誌』(明治17年頃)によると、藩政時代から明治22年まで郡元村と呼ばれていたそうです。
郡元村は中村と宇宿村の間に挟まれた地域で、村の中央には新川が流れていました。
当時の戸数310戸、内訳は士族101戸・平民209戸。
人口は、男771人(士族124人・平民547人)、女759人(士族241人・平民517人)。
その他、牝牛6頭・牡馬84頭がいたそうです。

生業としては、「男女皆農を業とす。商を業とする者90戸」あったそうです。
米・糯米(もちごめ)・大麦・小麦・粟・大豆・ソバ・甘藷・塩が作られていました。
郡元村には谷山街道が通っており、人馬の往来も多かったと思われ、人力車6両記録されています。
商家は涙橋から鴨池方面にかけて、街道沿いに並んでいたとおもわれます。
谷山街道、「宇宿村の界(さかい)に至る長さ93町6間(約10.1`)、広さ2間(約3.6m)」であったそうです。

自然物
郡元村の景観に関する記述があり、郡元村には鶴ヶ崎と満ヶ崎と呼ばれる二つの砂州があったようです。
鶴ヶ崎
「長沙、村の東にあり海中に出ること凡二丁、田上川海に注ぐ所なり。其地形、円なり。」
鶴ヶ崎は今の鴨池中学校もしくは、その先の三和町の一部にかかっていたかもしれません。
現在、交差点や公園、橋、バス停の名前として残っています。

満ヶ崎(みつがさき)
「鶴ヶ崎に対す、長沙海中に出る、凡一丁地形尖形」
満ヶ崎は、現在の東郡元町から新栄町の一部であったと思われます。
昭和10年、この辺りには競馬場が鴨池町から移転してきています。

中郡宇村の時代
明治22年(1899)、町村制が施行されると鹿児島近在のうち、郡元村・宇宿村・中村、3つの村が合併して「中郡宇村(なかこおりうむら)」が誕生しました。
これによって、藩政期の郡元村は中郡宇村の大字、「郡元」となり、村役場は一之宮神社付近に設置されました。

中郡宇村が注目されるのは、鹿児島紡績鰍ェ出来る大正6年のことになります。

鹿児島紡績
第一次世界大戦のよる戦争特需によって、日本経済は活況を呈し始めました。
船はいくら造っても足りないという状態で、海運業はもっとも繁昌し、成金と呼ばれる経営者が現れるようになりました。
それに伴い、他の国内産業も勢いを得て、大戦中の四年間に銑鉄の生産は2倍に跳ね上がりました。
重工業や化学工業を中心に、軽工業にいたるまで大きく発展したのでした。

好景気の波は鹿児島県下にも波及し、会社や工場の設立が相次ぐといった具合でした。
それまでの鹿児島県、消費需要は小さい上に工場立地に有利ではないとことから、本格的な会社・工場は少ないものでした。
しかし、好景気の波に乗って零細な会社や工場が次々と設立されていきました。
中には実態のない、投資目的のみの企業もあったようです。
それでも投資意欲は増すばかりで、バブル経済という側面もありました。

こうした経済環境のなか、東京で一財産築いた鹿児島出身の宇都宮金之烝が資本金200万円で、大正6年鹿児島紡績鰍郡元に建設しました。
工場には30mを超える鉄筋コンクリートの大煙突がそびえ、勢いよく煙を吐き始めました。
女工2000人、男工400人という鹿児島県下では前例のない、大規模な工場でした。
鹿児島市史T(昭和44年刊)によると、「郡元町消防分遣隊から鴨池小附近のへんにあった」とあります。
昭和40年の地図と現在のものを見るに、大勝病院から鴨池小近くまでの敷地、真砂本町のほとんどが工場敷地であったようです。

城山のドン、鴨池のピー
西郷竹彦さんの『城山のドン』というエッセーに、この工場と思われる記述がでてきます。
「わたしの小さいころのことですが、城山のてっぺんに、一門の大砲がすえてありました。(途中略)それこそ雨の日も風の日も、正午になると、その砲台から、ドーンと空(くう)をうちならして刻(とき)を知らせました。
城山のドンがなると、それにこたえるように、鴨池浜の紡績工場の汽笛が、ピーとなりわたるものでした。
すると、お台所で水仕事などしていた母親は、仕事手をとめ、そしていそいで柱時計の針を、チンチンチン…と12時にあわせました。
遊びに夢中になって、おひるをたべるのも忘れていたわたしたちは、そのとたん、母親のしたくしてくれるお昼のお膳が目にうかび、いっぺんにお腹がペシャンコにすいてしまうのです。そうなると、もう、遊びどころではありません。
“ドンがなった、ピーがなった、飯(まま)たもれ…”と歌いながら、わが家の台所へかけて帰っていくのです。」

鹿児島紡績から大日本紡績鹿児島工場へ
鹿児島紡績の時代、原料のアメリカ綿は大阪から転送されていました。製品の地元消費は少なく、大部分は加工してインドネシアやインド、エジプト方面に出荷されたそうです。
労働力は得やすかったのですが、原料の綿や運賃は高いものでありました。
原料のアメリカ綿は大阪に輸入されると、それを鹿児島港に回していました。
そして鹿児島港から郡元の工場までは、荷馬車で運ばれていたそうです。

こうしたコスト高と県内消費力の弱さと大戦不況によって、大正13年(1923)3月をもって大日本紡績鰍ニ合併することになりました。
大日本紡績且ュ児島工場となった後も、経済不況によって経営合理化・操業短縮といった縮小ばかりであったそうです。

郡元沖が埋め立てによって飛行場が完成すると、この地は海軍航空隊が接収することとなりました。
昭和16年大日本紡績且ュ児島工場は閉鎖となり、航空隊の基地となりました。
紡績機の大部分は上海工場に移され、従業員は中京地区の各工場に転居となったそうです。

次回は、鹿児島飛行場建設と海軍航空隊について触れてみたいと思います。
posted by ぶらかご.com at 23:38| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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