2015年07月24日

近代産業の先駆け 郡元村・中村周辺

『写真でみる鹿児島市の明治・大正・昭和』という写真集に、「大日本紡績鹿児島工場」の写真が掲載されています。
志学館周辺の山から撮られたものと思われ、工場は現在の真砂本町にあったようです。

製綿紡績所址の碑
 国道225号線、郡元交差点下に、「製綿紡績所址の碑」が建っています。碑は折れたことがあったようで、補修がなされています。
bousekijo1.jpg

裏面に説明文が刻まれており、次のように記されています。

「島津斉彬公、綿布ノ自給自足ヲ計ランガ為メ、安政ノ始、海浜字浜ヶ崎ニ綿ヲ栽培シ、手繰式及足踏式器機□テ綿ヲ紡ギ、之ヲ田上村ニ在ル水車動力ノ機場ニ送リテ、綿布帆布ヲ織ラシメタル、是即、我日本ニ於ケル紡績工場ノ濫觴ナリ 
昭和九年七月一日 中郡宇村□之」

説明文が刻まれたところは、摩耗が進み読めぬ所もあります。文章中の□は、文字を逸して不明なことを表しています。
『鹿児島市史V』に碑文が掲載されていますが、2ヶ所ほど分からないようです。
ただ、文章最後の「中郡宇村□之」の□部分には、「建」が入るのではないかと筆者は考えています。

『薩藩沿革地図』で、現在の真砂町周辺を見ると、お武家さんの屋敷が4軒描かれています。
屋敷以外は田畑なのか、空き地なのかよく分かりません。
この地図ではお武家さんの屋敷は描かれているものの、町人やお百姓さん家は描かれていないため、詳細が分かりません。
藩政時代、この辺りは人家もまばらな寂しい所であったかもしれません。

島津斉彬の近代化政策
【 紡績工場 】
斉彬公が紡績所を最初に建てたのは、現在の真砂交差点下のガソリンスタンド前あたりで、当時は「濱ヶ崎」と呼ばれていました。

建物は十間(18メートル)と四間(7.2メートル)ほどの木造平屋3棟であったそうです。
中村紡績所と呼ばれ、手織り木綿が製造されました。
これが薩摩における機械紡績工場の始まりでありました。
前述の碑文は「我日本ニ於ケル紡績工場ノ濫觴ナリ」とあり、ここが紡績工場の始まりであることを記しています。

『鹿児島市の史跡めぐり』によると、紡績所の附近一帯や鶴ヶ崎一帯で綿を栽培し、それを農家の子女が足踏機械4台によって木綿を織らせたそうです。
ただ、綿の栽培は天保の財政改革から、調所笑左衛門によって奨励されたもののようです。
安政4年(1857)になると、田上村と永吉村に水力を利用した本格的な紡績所がつくられました。
2年間操業した中村紡績所は、閉鎖することになったそうです。

田上の水車館、斉彬公が亡くなる2,3年前には男の職工だけで40人おり、技術者も河内国から呼ぶなどして技術の向上に力をいれていました。
田上の水車館には2台の織機が設置され、一日に百反と十反を織りあげるほどで、藩内の原料がなくなるほど、生産力が向上していたそうです。
1867年(慶応3)、洋式工場鹿児島紡績所が磯に完成すると、田上と永吉は役目を終えることになりました。

紅硝子製造所
磯に集約されたのは、紡績だけでなく鴨池2丁目の福祉館周辺にあった「紅硝子製造所」もそうでした。

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嘉永4年斉彬公は、騎射場にあった製薬局のそばに紅硝子製造竈を建設したそうです。
斉彬公は、宇宿彦右衛門、中原猶介、市来四郎に命じて紅硝子・透明紅硝子の製造の研究を命じました。
また江戸から四本亀次郎を呼び、試作すること数百回。

嘉永5年、遂に成功。これが日本における紅硝子製造の始めとなりました。
研究はその後も行われ、芸術性を加えた紅硝子器や透明な紅硝子の製造にも成功。
これらの紅硝子は、薩摩紅硝子として各藩から注文が殺到し、研究費はたちまちペイしたそうです。
安政3年、紅硝子製造は磯の集成館に移されると薩摩切子や板ガラスなどが盛んに製造されたそうです。

磯の異人館や集成館などが世界遺産に認定されましたが、その基礎は旧中郡宇村、永吉村、田上村にあったのです。

製糖所
『中郡宇村誌』によると、現真砂本町辺りでは白糖の研究製造が行われていたそうです。
「斉彬公は薩藩の製糖粗悪なるのみならず、世の進運に伴いて黒糖の需用は漸次に減少し、遂には白糖の世となるべし。従て氷砂糖の需用も亦大なるに至らん。今に於いて宜く製糖法を研究改良すべしとなし、和蘭より書籍を購入し、川本幸民をして之を翻訳せしめ、氷砂糖は製錬所に於いて、白糖は中村の海浜字鶴ヶ崎にて研究製造せしめ、共に良好の成績を挙げたり。」

「島津斉彬は氷砂糖の製造と共に、郡元の海浜字鶴ヶ崎に支那及び台湾種の甘藷を栽培し、新川の水力による製糖所を創設し、琉球人をして製糖法によりて白砂糖の製造をなさしめ優良品を製出するに至りたり。当時斉彬左右に曰、薩藩の国産は第一砂糖、第二櫨蝋、第三樟脳なりと」

『鹿児島市史T』によると、郡元村にも水車館を設けたとあります。郡元水車館では砂糖の精製、綿実の油しぼり、漁網の製造、軍用糒米の搗き方などを行っていたそうです。
人家まばらであった現真砂町や真砂本町。江戸時代後半には、斉彬公の事業によって俄に忙しいものとなったようです。

鶴ヶ崎
鶴ヶ崎入口交差点、鶴ヶ崎橋、鶴ヶ崎公園など、「鶴ヶ崎」という地名を南郡元町や三和町などで見かけますが。
鶴ヶ崎という地名の由来について、『中郡宇村誌』によると次のように記しています。

「鶴ヶ崎とは、安政年間まで新川尻に鶴群の渡来したるに由る俗称なり」


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2015年06月26日

昭和20年、連合軍のうごき

1945年3月、連合軍はフィリピンのルソン島と硫黄島攻略をほぼ完了させました。すでに日本上陸作戦である「ダウンフォール作戦」も立案し、沖縄本島に狙いを定めました。
当初、連合軍は台湾を攻略、拠点化して沖縄へ進攻する予定でした。
ルソン島を占領すれば、台湾を無力化できると考え、攻略を中止しました。
連合軍は、日本本土空襲をするための拠点を沖縄本島に求めたのでした。

アイスバーグ作戦(沖縄攻略作戦)
連合軍が沖縄に注目したのには、大きく二つの理由があったようです。
ひとつ目は、沖縄を確保すれば、台湾・中国沿岸・日本本土のすべてをB29はじめ、中距離・重爆撃機などあらゆる種類の航空機の行動範囲内に入ることを意味していました。
二つ目は、当時沖縄は日本の重要な中継地であったこと。
アメリカ軍は開戦当初から、「戦争経済」という観点から戦略を立てていたようです。
と言うのも、アメリカ軍は日本経済に対して次のような認識を持っていました。

「世界の大国のなかで、日本ほど海上輸送に依存している国は他に例がない。日本は島国であり、しかも需要が国内生産をはるかに超えている。そのため日本は、その経済生活を維持するには常に海外から大量の物資を運ばなければならない。さらに日本は大小の島々からなっているので、国内の物資移動も大部分を海上輸送に頼らざるを得ない。加えて人口が多く、資源が乏しいため資源の海外依存度はきわめて大きい。」

アメリカ軍は、開戦当初から日本の輸送船を執拗なまでに攻撃し、沈めていきました。
南方からの資源を断たれれば、日本の軍需生産は簡単に滞ってしまうことを見抜いていたようです。
アメリカ軍の戦略は、日本経済のもつ弱点を徹底的に突くことにありました。

昭和20年3月18日以降、日本の各地で米軍戦闘機による爆撃や機銃掃射が行われるようなりました。
『私の町も戦場だった』をご覧になった方もおられるかと思います。
列車や鉄道施設など輸送施設に対する、機銃掃射はアメリカ軍の戦略のひとつでありました。
この頃の米軍による爆撃の目的は、沖縄攻略支援にありました。
しかし沖縄攻略が完了すると、鹿児島・宮崎への空爆は、オリンピック作戦に向けてのもに変わっていったようです。

■ 艦載機の出現
昭和20年3月14日、空母12隻を基幹とするアメリカ第58機動部隊はウルシー環礁を出撃。3月18日、日本近海に現れると九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対して、空襲を開始しました。
また、マリアナ諸島のB29の部隊にも九州各地の飛行場への爆撃命令が届いていました。
特攻隊の出撃基地となっていた大刀洗(たちあらい・福岡県)や鹿屋など九州各地の飛行場への攻撃を、3月27日から5月11日までおこなっています。

【 3月18日、鹿児島県の空襲 】
鹿児島県下では、鹿屋・笠野原・串良・国分・鹿児島・知覧・出水・種子島の航空基地や高山町波見・内之浦町岸良・垂水の海潟造船場・今和泉(指宿市)・山川港・阿久根・西之表などが空襲されました。

なかでも海軍最大の特攻出撃基地であった鹿屋は、この日だけで20回もの攻撃を受け、最大の被害を受けたようです
鹿屋基地は徹底的に攻撃を受け、終戦までに286回もの空襲を受けたそうです。

鹿児島市内では、郡元町にあった鹿児島海軍航空隊が空襲を受けています。
予科練生の体験記によると、この日、6、7回の攻撃を受けたそうです。
次回は、昭和20年3月18日の鹿児島航空隊に対する空襲について触れてみます。
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2015年06月10日

今からちょうど70年前の元旦

今からちょうど70年前の正月元旦、この日は晴れ上がった青い空が広がっていたそうです。
当時、大東亜戦争の勝利に備え、ほとんどの物資には強力な統制が布かれていました。
手に入りにくくなった食糧を求めて、農村に出向く人たちもありました。
この年は、特別配給のモチ米で正月のモチを食べ、配給の焼酎で屠蘇を祝うなど、町では正月らしさを味わといった、のんびりした雰囲気であったそうです
また、この日は学校や職場の拝賀式に出かけようと、隣組同士「おめでとう」を言い交わす、正月気分にひたっていました。

■ 拝賀式
戦前、元旦は、全国の学校で拝賀式が行われていたそうです。
当時の学校には、奉安殿と呼ばれる祠が備わり、そこには天皇・皇后両陛下の写真が納められていました。
鹿児島市史によると、鹿児島市内の学校で初めて奉安殿が設置されたのは、大正14年10月、鹿児島第一師範学校であったと考えられているそうです。
昭和時代前期になると、鹿児島市内の殆どすべての学校内に奉安殿を建てられたそうです。

各学校で拝賀式の式次第は異なると思われますが、一例をあげてみます。
純白の手袋をした校長先生は、奉安殿から御真影を取り出すと、両手で持って、厳粛に講堂まで歩くものであったそうです。
講堂の正面に設けられた神棚の中に、御真影を奉掲するまで最敬礼をして迎えるのでした。
講堂に御真影をかかげた後、ひもで下から自由に開閉できる幕式の白いカ−テンを閉じるまで、1時間ほどかかったそうです。

そうして午前10時、講堂に入って、ようやく拝賀式が行われるのでした。
式次第は、小学校の教務(現在の教頭)が進行係で、「掲帳」と言うと、幕式のカーテンを開けるのでした。
向かって左側に天皇陛下、右側に皇后陛下の御真影が現れたそうです。
その間、参列者は全員、最敬礼をすることになっていました。
君が代斉唱のあと、来賓、校長、教職員、生徒たちが御真影の前で礼拝するものであったそうです。
この後、校長が代表して壇上で新年の挨拶及び訓話をし、正月の歌をうたい、ようやく拝賀式が終わるものであったそうです。
式が終わると、子供たちには2個のパンが配られるところもありました。

鹿児島市立山下国民学校でも、拝賀式の後、「愛国パン」と呼ばれるラグビーボール型の黒いパンが2個ずつ生徒たちに配られたそうです。
(本の題名を度忘れしてしまいました。後日、記述します。)

昭和20年1月1日午前十時ごろ、ちょうど拝賀式が始まろうとした頃(山下国民学校では終わっていたようです)、これまで聞いたことのない爆音が聞こえてきました。

■ B29、鹿児島市に初めてお目見え
この日は、鹿児島市に初めてB29が飛んできた日でありました。
戦争体験などによると、このB29は志布志方面から鹿屋、垂水を経て、国分上空で旋回した後、鹿児島市上空へと飛んできたようです。

@終戦六十周年戦争体験文集、伝えたい私からあなたへ 戦争の悲惨さと平和の尊さを(コープかごしま)、「no more sensou」から。
昭和20年1月1日の朝、鹿屋航空隊から16キロの地点にある西俣国民学校校庭では、拝賀式に臨むため全校生徒が整列していた。
すると異様な爆音と共にキラキラと翼を光らせて飛行機が飛んできた。皆、一斉に空を見上げた。「米軍機だぞー」誰かが叫び、どよめきが起こった。

A同文集;「私の命を救った祖母ハツ」より
代用教員で国分から霧島神宮近くの小学校に通学していた。
元旦は新年の祝賀行事で恒例の式を行い、生徒たちを帰校させてひと休みしていたとき、いきなり空襲警報が鳴った。
その内、聞きなれない「ウォン、ウォン」という音がして、雲の間からB29の編隊が現れたのである。キラキラ光り、飛行機雲をはき、それはゆうゆうと飛んで行った。
どこからか日本軍が撃ったであろう高射砲が、空に花火のようにひらめいて、とてもきれいだった。しかし、とてもB29のところまで届くものではなかった。

国分上空で旋回したB29は、10時頃、吉野方面から鹿児島市街地上空へ飛んできました。
市内各地に設置されていた高射砲や高角砲が、いっせいに火を噴き始めたそうです。
体験集などによると、高射砲が設置された場所は次のようになるようです。まだ、他にもあると思われますが、筆者が気づいたところだけ列記しました。
多賀山・天保山・武岡・鴨池航空隊と練兵場・旧鹿児島女子短・丸支天山(唐湊)・伊佐ノ原(広木)など。

天保山は海軍の12糎高角砲、武岡高射砲陣地は現長島美術館の辺りにあったそうです。
唐湊の丸支天山は、摩利支天のことかもしれません。
アメリカ第21爆撃集団司令部、45年6月18日付の指令書(作戦任務第206号)によると、鹿児島の対空防衛について、次のように分析していました。

1.対空防衛
写真の解析から得られた鹿児島の防衛体制の全体的な戦力は以下のとおりである。
重対空砲32基、中対空砲59基、サーチライト2基。
2.爆撃軸と高度
 鹿児島市街地に対する夜間爆撃については、防衛力が比較的手薄なことにより、まずレーダーによるもっとも適切な接近方法を与えるルートによって、爆撃軸が決定された。目標市街地に対する接近は、存在が確認されているすべての高射砲を避けるために、7000フィートの最低高度が計画された。

この日、鹿児島に現れたB29は、マリアナ諸島から飛んできた写真偵察専用に改装された飛行機であったようです。
写真偵察専用に改装されたB29を、F−13と呼んでいたそうです。
絶対国防圏最後の砦であったサイパン陥落後、日本列島はB29の射程圏内に入ったのでした。
B29の試作1号機・2号機が初飛行したのは1942年9月と12月のこと。
1943年になると、B29は対日戦のみに使用することが確認されたのでした。
試作機の初飛行から1年後の1944年11月には、9機のF−13が配備されました。
それ以降、日本各地を飛び回って偵察と撮影を行ったようです。

ネット上に、1945年米軍作成の鹿児島市の地図が掲載されていました。
Isiki Station(伊敷電停)、45infantry Regiment(45連隊)、satsuma cotton spinning mill(薩摩紡績工場)、probable aviation(予科練)、ibusuki line(指宿線)、power plant(発電所)など、重要な施設は殆どお見通しだったようです。

また、原良町や郡元町、宇宿町など市内各地の名前も正確に掲載されています。
なかには、「KAJIWARASAKO」という小字まで書かれたものもありました。
おそらく鹿児島にゆかりのある日系人や、滞在経験のある人などを総動員して作ったと思われます。
地名のなかに「MURASARI-BAI」というのがあり、位置からすると、紫原(むらさきばる)のことのようです。土地の名前を聞かれた人が「むらさっばい」と答えたと思われ、地図の作成者は「MURASARI-BAI」と書いたのかもしれません。
「むらさっばい」、なかなか耳にすることはありませんが、意外なところで出くわしてした感じがします。
ただ、この地図ひとつとってみても、アメリカ軍は総力戦の意味がよく分かって日本軍と戦っていたようです。

■ 初めて見るB29に対する、不思議な気持ち
この日、鹿児島市内の各地でB29を目撃した体験談が残されていますが、防空壕に入る人、はたまた空を見上げ続けている人など、様々であったようです。
見上げていた人は、一様に“怖さ”よりも“不思議な感動”と“友軍の不甲斐なさ”を感じたようです。
『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』の一部を引用しました。

@遂に私の家も焼けた 初めて敵機現れる
 昭和20年1月1日、洲崎国民学校(現城南小学校)の運動場では拝賀式が始まろうとしていた。全員2000名近い児童の前に担任がならび新しい決意に燃えている。折しも上空に爆音が聞こえる。見上げると“30センチ位の大きさ”に、見慣れない型の一機が飛来。
上空に鴨池航空隊からの発砲の爆裂音、ポンポンポンと空に丸く白煙が打ち上がる。
(途中略)
敵機はゆうゆうと去って行った。B29、高度1万メートル。これが鹿児島市に初めての敵機だった。
“少しも恐ろしく感じなかった。余りに美しい重量感のある飛行機に、ただ見とれていたのだった。そしてやがて全身に恐怖が走った”。

A敵機、初めて鹿児島の上空に現れる 初めて見る敵機に感動 
はじめて見る敵機(それがB29であると知ったのは後のことだった)にただ感動を覚えた。日光を受け、銀色に輝いていた。今まで見た日本の軍用機が鼠色をしているのに、米機が白銀色であることも初めて知った。
敵機の来襲の恐ろしさとか、敵機に対する憎しみということなどを乗り越えた、感動である。胸の高鳴るのを抑えることができない。それが何の為であるとか理由はない。
高射砲の打ち上げられる数も多くなったが、敵機の左右または前方と炸裂する煙がよく見えるが、なかなか当たらない。むしろ届かないのである。
“なぜ日本空軍はあの敵機を撃墜しないのかと、腹立たしくさえ思った。」

鹿児島市上空を飛んでいたB29は、旧山川町上空から南方へと去って行ったそうです。

B空襲の日々 
アメリカの飛行機が初めて山川港の上空に飛んできたのは、昭和20年1月1日の朝であった。私達はちょうど拝賀式に出ようとしていた。かなりの高度を飛んでいるためだろう、ほとんど爆音も聞こえず白く光りながら、流れるように南の方へ飛んで行った。
日本の飛行機が迎え撃つとか、後を追うということも全くなかった。「どこに何があるか偵察に来たに違いない」と私達は言い合った。
不気味な年の明け方であった。

これ以後、鹿児島の上空にはB29や艦載機などが通過し、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くようになりました。が、爆撃はなく、警報が鳴っても急いで避難する人もなかったようです。
しかし、アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)と特別攻撃に対処するため、アメリカ軍にとって南九州は重要な攻撃目標となっていきました。
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