こうした報道に対して、「周年期報道」と指摘もある。今年は節目の年で、戦争に関する報道や出版物を目にする機会が多くなると思われる。
1月1日付南日本新聞の「終戦へ奔走 2人の鹿児島人」に目がとまった。東郷茂徳と迫水久常に関する記事。両者ともに終戦内閣時に、外務大臣と内閣書記官長にあった人物。
終戦工作にむけて、重要な役割を果たしたことは確かである。
同紙の記事で気になる点がある。
タイトルの「終戦へ奔走 2人の鹿児島人」。もうひとつは、「薩摩人同士、命をかけた仕事ぶりをたたえている」である。
地元メディアが鹿児島県ゆかりの人物を紹介する際、かならず登場する言葉がある。「薩摩人」。
こうした報道に接するたびに、違和感をおぼえる。歴史上の人物を語るのに、「薩摩人」や「鹿児島人」と称するのか理解が及ばない。他県の地方紙でも、このような表現をするのかどうか確かめたい気がする。
同紙の記事で、志學館大学の茶谷誠一教授がインタビューに応えている。
失敗を繰り返さないためにも、検証するばかりでなく、事実を検証し、教訓として学んでいくことが重要だ。
茶谷先生、よくぞ述べて下さいました。感謝に堪えない。近現代史からどのような教訓を得るのか。戦前・戦中と戦後は地続きと考える筆者にとって、人物の顕彰は殆ど意味がない。歴史上の人物を顕彰する態度。そこに、どのような考えがあるか。一度、考える必要があると思う。
■迫水久常
同記事は、迫水久常にも触れている。終戦を担った鈴木貫太郎内閣で、内閣書記官長にあった人物である。同職は、事務方トップ。大物官僚である。
日本大学教授・古川隆久さんが、迫水についてこう指摘している。
優秀な実務家ではあるが、本人が後年語るように終戦の主導的立場にあったとは言いがたい。
戦前の迫水は革新官僚として知られ、天皇支配の下での社会主義体制の実現を思想として持っていた。どちらかといえば戦争には積極的だった。迫水の回想は国会議員だった自身の選挙対策で語った部分もあった。その辺りは割り引いておく必要がある。
古川先生が述べる「迫水の回想」は、『機関銃下の首相官邸』と思う。

機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで (ちくま学芸文庫 サ 27-1) - 迫水 久常
同書は、オーラスヒストリー。目を通していると、すこしばかり違和感をおぼえる部分がある。
同先生がおっしゃるとおり。
戦後80年ということで、さまざまなメディアが先の戦争を取り上げるだろう。
やっかいな時代の理解しにくい日本史である。人気がないのも頷ける。
近現代史の研究者は、一次資料を用いて実証的にアプローチされている。結果を追いかけるだけでなく、アプローチの仕方も学ぶといいかもしれない。
同郷出身の先達を顕彰するのも良いが、時にはクールな歴史的評価も必要と思う。
■参考文献
「終戦へ奔走 2人の鹿児島人」(2025年1月1日付南日本新聞)
『機関銃下の首相官邸』(迫水久常・ちくま学芸文庫・2011年)