2025年10月17日

日本学術会議と清沢洌の論考

 新聞を読んでいて、さっぱり分からぬ記事がある。日本学術会議の法人化に関する話題である。何のために法人化するのか分からない。
日本弁護士連合会を始めとする様々な団体が意見を表明している。目を通すのだが、専門すぎて理解が追いつかない。学力の低さを呪う。
そのため、放っておくことにした。

 先日、目を通した清沢洌の論考は参考になりそうだ。
『混迷時代の生活態度』である。今から90年前、昭和10年の著作である。

 最近の学問に対する各国家の傾向は、その学問を自由にすることに非常な努力をして居ります。どこの国でもその国家のために利用するということが方針になって居る。近頃の大学教授の説などは政府の方針弁護のために出来ているようなものだ。

 一方また国家機関の方でも、政府に反対するようなことをいえば、あくまで圧迫するというのが、殊に最近のような時代の現象であります。ところが学問というものの本質としては真理を尊ぶものであります関係から、旧習に捉われたり、時の権力者の為に都合のいい、解釈をすることを、あくまで忌避しようとする。
ひつような場合には仮説を設けても真理をあくまで追おうとするのが学問の前提であります。


 例えば日本の歴史は自由に学者が研究できるでありましょうか。たまに何か歴史のことについて自由に討議をする者がありますとひどい目にあう。大学を追われた人もあります。袋叩きにあった人もあります。
そうなると学問の範囲というものは非常に狭くなって、真理探究の役が出来なくなる。そこに学問をした者が非常なる不満を感じ、不安を感ずるのであります。自由に討議研究をしてこそ学問の役が出来るのに、それが最近の情勢に於て出来なくなった。そこから不安というものが、生まれるのであります。


 清澤は、当時の社会に漂う不安を4つに分類する。経済的、政治的、国際的そして教育的な不安。上に記した論考は、「教育から来る不安」からの抜粋である。
「大学を追われた人」と「袋叩きにあった人」は、滝川事件や天皇機関説を指している。
教育に関して、その他にも迫害を受けた人があったかもしれない。

 清澤は教育に関する著述を幾つか残している。目を通していると、現代と変わらぬ印象をたびたび受ける。タレントのタモリさんは、「新しい戦前」と言われた。
清沢洌や石橋湛山、永井荷風などの著作に目を通していると、現代は戦前・戦中と変わらないのでは? と感じることが多い。
これら3人は、当時の社会を冷静に見つめている。

 清澤の著作は、読みやすい文章ではない。だが、その指摘は現代にも通じる点が多い気がする。近現代史に関心をお持ちの方は、いちど目を通されたい。参考になると思う。

参考文献
『混迷時代の生活態度』(清沢洌・千倉書房・昭和10年)
posted by 山川かんきつ at 07:56| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年10月13日

原爆投下後の廣島刑務所に関する報道

今月6日付南日本新聞で、「原爆投下後 広島刑務所記録」を読んだ。
1945年8月6日の原爆投下直後に、広島刑務所の受刑者たちが遺体の収容作業に従事したとする内容である。
2冊の文書が見つかった。『昭和五十年起 広刑開設100年記念事業 原爆投下前後の広刑記録綴』と『昭和四十年 原爆戦災記録綴 廣島刑務所』。

終戦から20年、30年経って作られた文書であるが、証言をもとにした内容は貴重である。同紙の記事で受刑者数と死傷者数を読んでいて、アメリカ戦略爆撃調査団文書を思い出した。
『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』である。

 同文書に、「四、刑務所囚人並ニ留置人ノ措置」と題する記述がある。
廣島空襲必至下市内警察署ニ於ケル留置人等ナク 廣島刑務所ニハ當時囚人六百名アリ
死者四二名 重傷一五二名 行衛不明一名ノ人的被害發生セルモ現在損壊建物ヲ修理シ収容ナシ居レリ。

 南日本新聞の記事によると、死者は職員5人と収容者12人。負傷者は職員100人と収容者500人とある。死傷者数に違いがある。
『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』は、昭和20年8月20日現在の状況を記す。
広島県知事から内務省防空総本部長官や中国地方総監などに宛てた文書。混乱のなかで急ぎ作成と思われる。そのため、同文書の数字は実際と異なっているかもしれない。

 今回発見された2冊の文書と㊙防第九一號の内容を検証する必要がある。少しずつ、被害の実態に迫れると思う。
また、これらの文書をどのように評価し、活用していくのか専門家の意見を聞きたい。

ちなみに、『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』は、アメリカ戦略爆撃調査団も入手して英訳されている。

Management of Prisoners and Persons In Custody.
At the time of the air attack on Hiroshima there were no persons in custody in the police stations within the city. However, there ware 600 prisoners in HIROSHIMA prison.
Of these 42 died, 152 were severely injured, and 1 missing. At the present time the damaged buildings have been repaired and prisoners are being admitted.

■参考文献
『㊙防第九一號 昭和二十年八月二十一日 廣島縣知事』(国立国会図書館デジタルコレクション)
「原爆投下後 広島刑務所記録」(2025年10月6日付南日本新聞)
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posted by 山川かんきつ at 10:52| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年10月09日

情報リテラシー 90年前の提言

今年の参院選後の新聞に目を通していると、情報リテラシーに関する記事が目立つように感じる。SNSが選挙に影響を及ぼしているらしく、無視できないほどであるらしい。
新聞紙上で、学者を始めとした専門家が、それぞれの立場から考えを述べている。

 共通する点がある。それは、情報を鵜呑みにしない。いろいろな視点から検証し、その情報の根拠を求めよということにある。
SNS上では、情報の中身よりも影響力を持つ人の発信が重んじられるらしい。
各専門家は、「情報リテラシ―」の必要性を繰り返し述べている。
これらの記事を読んでいるうちに、戦前・戦中のジャーナリスト清沢洌の著作を思い浮かべた。昭和10(1935)年に著された『混迷時代の生活態度』である。

 清澤曰く。
行動主義が法外に高く買われている現在の世の中では、対手(あいて)の立場や理屈は聞く必要がないかのように思われています。問答無用といって、事故の我意を力で通そうとする気風が、近頃は特に濃厚であります。

 清澤が述べる「行動主義」は、議論よりも行動を第一とする主義のこと。おそらく、「5・15事件」や「2・26事件」を意識していると思われる。そうして、この時代は言論の自由に対する圧迫がひどくなったようである。

 元来日本に於て言論が自由であった時代があるかどうか存じませんが、殊に最近苦しくなって来ております。新聞や雑誌に現れる意見も極めて限られた一部であって、まして、自分の考えている通りのことを発表するということは全然できない。

 こうした時代にあって、清澤は情報の取り方について次のように述べる。

 できるだけ物事を信ずるな。つまり一応疑ってかかれといふことであります。あまり簡単に吾々は物を信じすぎて来て居る。批判的精神がない。「何しろ新聞に書いてあったかなあ」といふと、もうそれが批判なく最後の結論なのであります。

 吾々は、新聞に書いてあったが本当にそうかどうか。こういうことが昔から習慣になって居るが、それは本当に正しくて合理的なことであるかどうかということを、まづ立ち上ってもう一度考えてみる必要があるのであります。
そして新しい証拠が提供されるまではそれを信じない習癖を養うということが必要じゃないかと考える。

 なるべく先程の「窓をあけて」あらゆる材料を集めて批判の種にする。神様の問題、社会の問題、すべての問題について、吾々の周囲のできるだけの証拠調べをして、それが提供されるまでは信じない。そういふ習癖を養うことが、私共には極めて大切であると考えるのであります。

 『混迷時代の生活態度』は面白い。90年前に書かれているのだが、現代とよく似た事象を描写している。その処方箋は、現在の新聞紙上で専門家が述べる内容とほぼ同じである。

この著で清沢は、政治や外交、教育などに関して論をすすめる。
内容は、司馬遼太郎『昭和という国家』や丸山眞男『超国家主義の論理と心理』に繋がる記述がある。
また、メディア論に関する記述は、佐藤卓己氏の論述と繋がるところが多い。

 清澤の著作は、現代の事象と繋がるかのように感じる。
現代日本人の考え方や常識は、90年前と変わっていないのかもしれない。

参考文献
『混迷時代の生活態度』(清沢洌・千倉書房・昭和10年)
「エビデンス教育早急に」(今井むつみ・慶応大学名誉教授、2025年9月10日付日経新聞)
「戦争支持の底流」(益田肇・2025年10月1日付朝日新聞・インタビュー)
「AI社会個人の尊重」(2025年9月20日付朝日新聞・対談)
posted by 山川かんきつ at 21:51| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年10月02日

終戦直後の発疹チフス

 朝日新聞「写真は語る1946(昭和21年)」に見入った。2025年9月29日付である。
国政選挙投票の様子、日本国憲法公記念祝賀大会、東京裁判の法廷、日本軍機のスクラップが山積みされた傍に立つ露天、引き揚げ孤児など終戦翌年をとらえた写真は、どれも貴重な一次資料である。

 一枚の写真に目がとまる。横浜市の桜木町駅前で殺虫剤DDTを女性に散布する一枚である。「発疹チフスが流行し、患者数は1946年の1月から7月で約3万5000人に及んだ」と、説明されている。
写真と記事を読むうちに、作家の日記を思い出した。内田百閧ニ山田風太郎である。

百鬼園戦後日記I (中公文庫 う 9-12) - 内田 百
百鬼園戦後日記I (中公文庫 う 9-12) - 内田 百

百鬼園戦後日記T 
 内田百閧フ日記、昭和21年4月13日(土)十夜は次のように記す。

 電車は相不変(あいかわらず)こむ。人ごみに揉まれると発疹窒扶斯(チフス)こはし。昨日は近所の土手沿いの市ヶ谷駅へ出る一寸手前のバラックに二人の患者が出たる由。新聞によれば十一日には板橋区の八百人を筆頭に下谷王子世田谷目黒の各区に新患者続出し、累計四千二百六十八人とあり。しかし空襲よりはこはくない。音がしないだけでもいい。

 いつも強きで我儘な百關謳カ。チフスに戦々恐々としていたらしい。先生は、空襲体験をさらりと描いている。空襲と音である。空襲体験談に目を通すと、爆弾が落ちる時と着弾後の音を書き残す人が多い。焼夷弾が落ちる際は、ザーザーと雨が降るような音がしたともある。百關謳カは貴重な記録を残してくださった。
もうひとりの作家は、山田風太郎である。当時、医学生。その視点で描かれる。

戦中派焼け跡日記: 昭和21年 - 山田 風太郎
戦中派焼け跡日記: 昭和21年 - 山田 風太郎

戦中派焼け跡日記
 @昭和21年3月24日(日)晴
 電車の座に横たわれる三十余りの浮浪女を見る。唇の傍に泥色のパン三つ転がれり。傍に坐りてこくりこくり眠れる七、八つの男の子蓬々たる髪に頬かむりに、無意識の中に、股ぐらに手をつっこみては虱(しらみ)を撮み出して、毛の出たる座席に棄つ。都内に猛威をふるう発疹チフスの媒介者の姿歴々たり。

A昭和21年4月4日(木)曇(昨夜大雨)夕晴
 渋谷駅にて臨時種痘を受く。現行の方法は既に時代遅れにて米国にては注射也と。
 高円寺の界隈発疹チフスの猖獗地なれば夜更けて長き筒持ちたる男たち、白き粉を噴出せしめつつ各家々を廻るが見ゆ。これ発疹チフス防遏(ぼうあつ)の特効薬米軍持参のDDTなり。


 ふたりの作家は、東京都内の様子を記したのだが、鹿児島はどうだったろうか。
『鹿児島年鑑昭和23年版』を開いてみる。

鹿児島年鑑 昭和23年
保健と衛生
 終戦後在外縣民の引揚に伴って、従来縣内では殆どその例をみなかった発疹チフスの発生をはじめコレラ、天然痘、赤痢など各種の法定伝染病が二十、二十一両年度にわたって縣下各地に流行、戦災の結果、環境衛生も極めて悪かったためこれらの防遏は相当の困難を伴ったが、予防接種の励行、DDTの撒布などによって次第に減少し、発疹チフスコレラは全く終息、二十二年は前年より疫痢と流行性脳髄炎の若干増発をみただけで総体的には激減して大体十九年程度の平時状態に帰った。戦争病といわれる結核はその死亡者数からみると下向となっているが・・・
 以上何れも伝染系統は海外引揚者と関連し二十年、二十一年は特に各種伝染病の発生を見たが二十二年に至り漸く十九年の状態に帰った。


 Kagoshima military governmentの文書に、鹿児島保健所が昭和23(1948)年11月10日に作成した「統計図表」がある。そのなかに、「鹿児島市昭和17−22年法定伝染病発生死亡数」と題された文書がある。
発疹チフスは、昭和21(1946)年に28人が発症し2人が死亡されている。昭和18(1943)年に1人が発症した以外は、発疹チフスの記録がない。

 チフスの名前を冠している2つの感染症がある。腸チフスとパラチフスである。両感染症は1942年から1947年まで、毎年感染者を出している。
腸チフスは、1943年に90人が発症。1946年に53人が発症。
パラチフスは、1944年に40人が発症。いずれも、感染者数が多いもの記した。
腸チフスとパラチフスは、発疹チフスと異なるらしい。医学知識が必要になると、お手上げである。

 先述の「鹿児島市 昭和17−22年法定伝染病発生死亡数」を眺めていて、感染者数が極端に多い伝染病がある。赤痢とジフテリアである。
@赤痢
 1944年240人発症、34人死亡。
 1945年596人発症、43人死亡。
 1946年166人発症、19人死亡。

Aジフテリア 
 1943年103人発症、死亡3人
 1944年447人発症、死亡15人
 1945年218人発症、死亡8人
 1946年190人発症、死亡7人
 1947年117人発症、死亡12人

 赤痢について、戦争体験談や個人の回想録に書き残されている。戦時中、鹿児島市助役を務めた勝目清氏が、『勝目清回顧録』に記している。赤痢は昭和19年に激増し、昭和20年にピークを迎える。ジフテリアもまた昭和19年に激増している。

原因は何であったろうか。思うと同時に、
戦時中の鹿児島市民は、敵国アメリカだけでなく感染症とも戦わなければならなかったようである。

参考文献
百鬼園戦後日記T(内田百閨E中央公論社・2019)
戦中派焼け跡日記(山田風太郎・小学館文庫・2011年)
「統計図表」(鹿児島保健所 昭和23(1948)年11月10日作成)
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2025年09月26日

岩川航空基地に関する記事

 慶應大学、安藤広道教授に関する記事を読み返した。今年8月15日付南日本新聞「戦跡は文化財 保存活用を」である。
独学で米軍文書に目を通しているのだが、専門家の意見は気づきを与えてもらえる。
記事の以下の部分が気になった。

 基地は空襲被害を最小限に抑えるため、敵の偵察から存在や全貌を隠す「秘匿性」と、司令部や兵舎、弾薬庫といった重要施設を広範囲に配置する「分散化」が徹底された。
米軍は45年3月に基地を撮影し分析しているが、本格的な攻撃は受けなかった。


 1945年5月15日の日付が記された米軍文書がある。九州南部にあった飛行場をまとめた文書である。飛行場と水上基地が、22ヶ所とある。岩川航空基地も含まれる。

iwakawaAF1.jpg

文書は基地の位置をはじめ滑走路、設備、用途などについて記す。
そこに、「Dispersal」と記された項目がある。「分散(化)」と訳している。

 Dispersal: Area under construction. South of the field seven revetments are completed.
Areas northwest of the runways could accommodate added dispersal areas.


 分散
一帯は建設中。飛行場南側にある7基の掩体(もしくは防壁)は完成。
滑走路北西側の一帯は、分散地区を広げらる。

「revetments」は、掩体(壕)と思われる。それが分かる写真や地図、スケッチなどが見当たらないため、仮訳として「掩体(壕)」にしている。
文書は、こうも記す。

 No aircraft present on 18 March 1945.
1945年3月18日時点で、航空機なし。

iwakawaAF19450318.jpg

芙蓉部隊は、航空機を巧妙に隠したらしい。昭和20年3月18日時点で、航空機の秘匿に成功したといえる。
米軍文書は、次のように結ぶ。

 Limited photo coverage precludes a more detailed interpretation of the airfield.
直訳する。写真からわかる範囲が限られているため、飛行場に関する詳述は難しい。
 新聞記事は、後半にこう記す。
 「戦争の歴史は立場によって多様化する。」

 客観性を持たせるために、一次資料を探し出す。そして、様々な視点で検討して現時点での蓋然性を示すようにする姿勢が必要と思う。
歴史学は社会科学の一分野。科学だから新たに信用できる資料が発見されたならば、書き換えられる。

 岩川航空基地に関して、「米軍にみつからないまま終戦を迎え、幻の飛行場と呼ばれる」といった言説を目にする。米軍資料に目を通していると、昭和20年5月15日時点で同飛行場を認識していたようである。

■関連記事
 「岩川航空基地 米軍資料から
 http://burakago.seesaa.net/article/517689689.html

参考文献
「戦跡は文化財 保存活用を」2025年8月15日付南日本新聞

ラベル:岩川航空基地
posted by 山川かんきつ at 23:09| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月20日

オリンピック作戦の報道に接して

 今夏の新聞記事に目を通していると、米軍の九州上陸作戦にかんする話題が多かった。
例えば、南日本新聞の「主戦場は大隅想定」(8月24日付)や同紙「本土決戦の主戦場は志布志湾」(8月26日付)、同紙「語り継ぐ戦争」(7月30日付)など。

 記事を読み進めると、11月1日の上陸予定日に吹上浜と志布志は激戦が繰り広げられたといった印象を受ける。疑問がわく。日本軍の装備と人員で、米軍の攻撃にどれくらいの期間持ちこたえたろうかと。疑問に感じたため、手持ちの資料で調べてみた。

昭和天皇独白録
 『昭和天皇独白録』に、次のような記述がある。

昭和天皇独白録 (文春文庫) - 寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー
昭和天皇独白録 (文春文庫) - 寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー

 終戦后元侍従武官の坪島[文雄]から聞いたことだが一番防備の出来ている筈の鹿児島半島の部隊でさへ、対戦車砲がない有様で、兵は毎日塹壕掘りに使役され、満足な訓練は出来て居らぬ有様だった相だ。

 鹿児島県内に、数十万人もの兵員が集められたと聞いている。正規の訓練を受けた兵隊は、どれくらい居ただろうか。
作家の山本七平氏が著書に、「員数と実数」という言葉を使っている。

 員数は、数だけ所定のものに要領よく合わせること。
 実数は、実際に計算(算出)された数量。
 昭和天皇に報告した侍従武官の言は、的確だったと思われる。鹿児島県内に動員された兵員数は、員数と呼んでよいかもしれない。

アメリカ軍文書
 1945年5月15日の日付が記された米軍文書を、参照してみる。

kyushu AF&AA.jpg

「AIRFIELDS AND DEFFENSES KYUSHU, JAPAN」と題された、図がある。
九州各地の飛行場や水上基地が記されている。また、対空火器やサーチライト、レーダーなどの種類や数まである。

 もう一枚の地図を見る。1945年8月28日の日付が記される。

19450828 kyushuAF&DF.jpg

5月15日の地図より更に、対空火器やサーチライト、レーダーなどの関する情報がぎっしりと記されている。薩摩半島と大隅半島に目をやると、飛行場2カ所と陸上施設に関する記述が加えられている。

 「KUSHIKINO」と「MINATO」との間に、「Costal Defense (possible)」とある。
直訳すれば、「湾岸防御(可能性)」。米軍は砲台か要塞に気付いたのだろうか。
日本側の資料で調べる必要がある。

飛行場2カ所追加
 1945年8月28日の日付が記入された地図である。大隅半島に飛行場が2カ所追加されている。ひとつは、「MAKINOHARA A/F (u/c)」。牧之原飛行場(建設中)。
昭和20年8月31日の日付が記された海軍の資料に、「牧ノ原航空基地」がある。
終戦時、小銃と軽機関銃、小銃弾が残されたらしい。同航空基地は、完成しなかったと思われる。

 2カ所目は、「USHINE ASS」である。これは、「桜島航空基地」のこと。
現在の垂水市牛根麓は、道の駅たるみずに同航空基地があった。米軍は補助水上基地と評しているから、小規模な施設であったと思われる。

日本海軍の資料に、同基地に関する資料がある。終戦時、零式水上偵察機1機が残されていたらしい。金星発動機やシリンダー、燃料タンクなどと共に。
同基地の兵器施設配図に目をやると、滑走台は4本。機銃25ミリ12門、防御陣地に25ミリ6門、7.9ミリ機銃28門など防御施設は備えていたようである。

 2枚の図を見くらべる。8月28日付の図は、5月15日のものより情報が格段に増えている。偵察や捕虜の証言などをもとに、informationをintelligenceに高めたのだろう。
米軍の情報分析力と情報の生かし方に脱帽である。それは文書からうかがえる。

オリンピック作戦の報道に接していて思う。もし、8月15日に終戦を迎えていなければ、鹿児島と宮崎は、8月から10月にかけて激しい空爆にさらされたと思われる。
大隅半島と薩摩半島に陣取った日本軍は、昭和20年11月1日のD-DAYにどれくらい持ちこたえだろうかと。

 オリンピック作戦に関する報道に接して思う。
記者さんたちは、日本軍を評価し過ぎているのでは・・・と。
 
参考文献
「主戦場は大隅想定」2025年8月24日付・南日本新聞
「本土決戦の主戦場は志布志湾」2025年月26日付・南日本新聞
「証言語り継ぐ戦争」2025年7月30日付・南日本新聞
「無差別爆撃 沖縄から九州へ」2025年2月11日付・毎日新聞
『昭和天皇独白録』(寺崎英成・文春文庫・2010年)
posted by 山川かんきつ at 17:23| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月17日

鹿児島県教育会館 解体される前に・・・

 鹿児島市は、中央公園の一角に鹿児島県教育会館が建つ。今月にも解体が始まるらしい。
昭和の遺物がまた消える。建物が島津氏や明治維新と関連すると、官もメディアも上へ下への大騒ぎをする。近代史的なものになると、ほとんど関心を示さない。
建物の解体にたいして、あっさりした対応である。

 筆者の手元に、『鹿児島県教育会館落成記念号』と題する1冊がある。同書に沿って、教育会館について触れてみる。

御大典記念として建築を決定
 同書の「御大典記念 鹿児島縣教育會館設立趣意書」は、こう記す。
 
伏して帷(おもい)みるに今上陛下には允文允部(いんぶんいんぶ)大統(たいとう)を承けて神州に君臨し給ひ 昭和三年秋涼の候 御即位御大典を擧げさせらるる事となりました。

 大正十五年は専ら準備調査を進めしに其時先帝の御崩御に逢ひ、昭和二年の新春を迎へて、愈々(いよいよ)昭和三年擧けさせらるる御大典記念として建築する事に腹を定め 昭和二年十月二十二日の代議員會に於て會館建築の議を決定せり

 七千萬の臣子斉(ひと)しく 皇祚(こうそ)の無窮(むきゅう) 國家の隆昌を祝福してやまない次第であります。此の御盛事を永久に記念する為(た)め一大教育会館を建設し以て本縣教育振興の中心としたいのであります。
 今や國家の現状と社會の實状とは吾々教育者に向つて一大奮起を促して居るのであります。


 教育会館は、昭和天皇の即位を祝いつつ、永久に記念するために建てられた。
それから100年近くも経つと、設立の趣旨を忘れ、あっさりと解体が決まったようである。

 建築費用は約13万円。資金をどうしたのか? 同書は述べる。

此の教育會館は教育者が主となって建設致し度(た)い豫定でありますが、公私団体若しくは教育に理解と同情を有せらるる人々の御援助は喜んで受け度(た)いと存じます。
小学校補習学校在校職者の会員は毎月俸給額の百分の一宛二ヶ年


 2年間、給料の1%を差し引かれたらしい。天引きだったかもしれない。
建物は本館のほかに、3棟の木造建築も完成している。
本館 ― 鉄筋コンクリート3階建て 建築面積205坪
別館(宿泊所)― 木造2階建て 約98坪
印刷部―木造一部2階建 建築面積135坪25
宿直使丁室―木造平屋12坪5

『鹿児島県教育会館落成記念号』は、建物完成を興奮しつつ記す。

本縣教育に燐として輝く
教育の大殿堂竣工
 館の馬場に巍然(ぎぜん)たる雄姿 「我等が教育会館」の落成式


 地は翠緑(すいりょく)の城山々下に位し秀麗其のものの島芙蓉を一眸(いちぼう)の裡に眺むる自然に恵まれしかも位置や旧藩時代、聖堂等を置かれし薩藩文化の中心であった由緒深き處誠に本縣教育振興の根元地として相應(ふさ)はしく光輝ある歴史に富める處である。

 藩政時代に思いを寄せるところは、現代もなんら変わりはない。同書はつづける。

 會館はセセッション式の宏壮な三階鐵筋コンクリートで構造は近代建築の粋を蒐め、総てが合理的でしかも堅牢に出来上がってゐる。外塗りはフヂムラサキで自ら人の心を柔げる近代色を選んで、かくして「我等の教育會館」は輝かしい自然と歴史とに恵まれ更に人工の美を尽せる建築とを以て館の馬場に巍然たる雄姿を現はすに至った。乃ち本縣教育會は此の希望を籠めた殿堂によって今後一層の勇を振ひ縣教育の振興を目標に邁進せんとするのである。

 教育会館の外壁は、「フヂムラサキ」色をしていたようだ。外壁は、薄いピンク色か薄い紫色だったろうと想像していた。じつは、「フヂムラキ」だった。筆者は建築物に関してあまり関心がない。詳しく知りたい方は、鹿児島県内の建築を扱った図書をご覧あれ。

教育会館と空襲
 2025年8月15日付南日本新聞「語り継ぐ爪痕鹿児島空襲」で、教育会館を取り上げ、「45年6月17日の大空襲で内部が焼失」と、報じた。
この事実は、教育会館で何らかの記録を持っていたのであろうか。どういった資料をもとにしているのか、それを報じてほしいところである。

 戦争体験談に、昭和20年4月8日の空襲と教育会館について書き残している方がある。
『鹿児島県の空襲戦災の記録第一集 鹿児島の部』に、「つらい体験の記憶」と題する一文である。
書き手は当時、照国神社近く城山の麓にお住まいだったらしい。

 近くに教育会館があり、その地下が救護所になっていました。そこには呻くもの、呻く力もなく生きる屍となった人たちがいっぱいで、地獄がこの世にあるとしたらこのような状態を云うのではないでしょうか。

 昭和20年4月8日の空襲体験談に目を通していると、悲惨な状況を想像できる。この日の空襲について、鹿児島市が記録を残していないようである。警防団が記録を取っていたと思うのだが、見当たらない。おかげで、被害の実相に迫れない。
メディアは、6月17日鹿児島大空襲ばかり報じる。4月8日は、ほとんど報じられない。
鹿児島市民が初めて受けた空襲にも関わらず・・・。

 米軍の資料に、昭和20年4月21日の鹿児島市空襲をとらえた写真が残る。
写真を拡大すると、鹿児島県立病院の傍に爆炎が4つほどあがっている。これは、体験談や病院史の記述と合う。
この日の空襲は、西本願寺の傍にあった鹿児島貯金支局の建物が被災している。

19450421 kagosimahi city.jpg

 県立病院から西本願寺まで直線で結ぶと、教育会館の傍を通る。爆撃にあっていないようだから、運が良かったとしか言いようがない。
今月、同館は解体される。同時に、戦争にまつわる記憶も無くなるかもしれない。

ことばの意味
 「允文允部」の読みは、「いんぶんいんぶ」。意味は学問と武芸ともに優れていること。

参考文献
「鹿児島県教育会館落成記念号」鹿児島教育抜刷 昭和4年〜昭和7年
「語り継ぐ爪痕鹿児島空襲」2025年8月15日付南日本新聞
『鹿児島県の空襲戦災の記録第一集 鹿児島の部』鹿児島県の空襲を記録する会1985年
posted by 山川かんきつ at 19:43| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月11日

記録の焼却 米国戦略爆撃調査団文書から

 アメリカ戦略爆撃調査団の文書「Summary Report」に、目を通している。

ussbs summary report1.jpg
 国会図書館デジタルコレクション

 日本語訳されているのだが、意味をつかめない文章もある。元軍人さんが訳出したらしく、表現が堅い。大きな要因は、筆者の読解力の無さである。
原文が手に入ったため、筆者が理解できるような文章で訳出してみた。

 「Summary Report」に目を通していると、訳出していない一文がある。
The Survey secured the principal surviving Japanese records and interrogated top Army and Navy officers, Government officials, industrialists, political leaders, and many hundreds of their subordinates throughout Japan.

 直訳してみる。
調査団は、現存する主要な日本側の記録を確保し、陸海軍高官、政府高官、実業家、政治指導者、およびその部下数百名を尋問した。

国立国会図書館のホームページに、同文書に関する記述がある。

陸軍省軍務局員の燃料担当者として、USSBS(米国戦略爆撃調査団)の調査に対応した高橋健夫は、その回想記で、敗戦時の資料焼却のため、記録が残っておらず、USBBSからの資料要求に対し、「多くの人たちから記憶による数字を出してもらい、いちおうの体裁を整えたがのが実情であった。そういうわけで、戦後に記録として残っている統計の多くは、この種類の作った資料なのだ」。

 資料の焼却は大きな罪であろう。米国戦略爆撃調査団文書を翻訳した『日本戦争経済の崩壊』でも、資料焼却を嘆いている。
また、統計の多くが体裁を整えたものとする点に及んでは、信頼に疑問符がつく。
また、歴史の隙間が生じる原因のひとつになる。
公式文書や行政文書などの管理と運用は、現代にも繋がる問題に映る。

 文書が無いこと、統計は体裁を整えたものに過ぎないこと。
これらの点は、従来の歴史観を変えようとする人たちにとって格好の的になりそうだ。

 USSBSは1945年9月から12月にかけて、日本各地を実地で調査している。鹿児島でも調査し、門鉄鹿児島管理部から書類を提出されている。同調査団が鹿児島市に来訪した記事が、鹿児島日報に小さく報じられている。
 米国調査団は、終戦後の早い段階で調査を行っている。同文書は、第一級の一次資料である。統計に問題があるとしても。

NHKドキュメント太平洋戦争
 米国戦略爆撃調査団の職員名に目を通していると、二人の名前に目がとまった。
 Paul H. Nitze(ポール・H・ニッチェ)。
『太平洋戦争日本の敗因 日米開戦勝算なし』に、ニッチェさんが登場する。

NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争
NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争

太平洋戦争 日本の敗因1 日米開戦 勝算なし (角川文庫 ん 3-12) - NHK取材班
太平洋戦争 日本の敗因1 日米開戦 勝算なし (角川文庫 ん 3-12) - NHK取材班

同書はNHKスペシャルを書籍化しているのだが、番組でニッチェ氏はインタビューに応えている。
ニッチェ氏は経済の専門家として、同調査団で分析に当たっている。今では、貴重なインタビュー記事である。

 もうひとり、注目した人物の名が記されている。J. Keneth Galbraith. (J・ケニス・ガルブレイス)である。やはり、経済学者。
どれくらい前になるだろうか。『不確実性の時代』がベストセラーだったと思う。
いちおう目を通している。はるかな昔のことだから、理解したか否かは分からない。
名前だけは記憶にあった。

 同調査団の「Summary Report」は、戦時期日本の流れを大雑把につかめる内容である。
また、同文書は客観性を重視し、主観を排した内容になっている。そのため、信用できる内容の文書と思う。
同文書は、最後にこう綴る。ただし、直訳である。

 民間人として、調査で収集した事実資料の分析と将来に関する一般的な評価を示すに過ぎない。

参考文献
『太平洋戦争日本の敗因 日米開戦勝算なし』(NHK取材班・角川文庫・平成11年)
posted by 山川かんきつ at 11:26| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月09日

昭和20年4月8日 空襲の証言

今年8月30日付南日本新聞「証言語り継ぐ戦争」に、昭和20年4月8日の空襲体験談が掲載された。貴重な証言である。
話者は93の女性。80年前、彼女は鹿児島市加治屋町に住む女学校1年生。

 自宅は鹿児島県立第一高等女学校(一高女)の近くにあったらしい。具体的な場所はわからない。当時の住所を覚えていないだろうか。それが分かれば、場所を推定できるのだが…。当時、「加治屋町〇〇区〇〇班 氏名」といった呼び方をしていた。「〇〇区」だけでも、住所を推定できる。当時の加治屋町は、12区に分かれていた。

 彼女は、昭和20年4月8日(日曜日)の体験を語り始める。

友人と甲突川沿いを散歩中、空から轟音が響き、見上げると敵機の機銃掃射だった。民家に飛び込み無事だったが、外は爆撃であちこちから火の手が上がった。わが家は焼け、長兄にもらった宝物の下駄も灰になってしまった。
 家を失った私たちは、空襲前に敷地に掘った深さ2メートル、広さ6畳ほどの防空壕で暮らした。


 この日、鹿児島市に爆弾を落とした米軍機はB29爆撃機。「500 pound GP」と、米軍の「Tactical Mission Report no. 60 & 61」にある。
日本側呼称は、250`爆弾。
レーダーを使用した爆撃だった。

 この日の空襲で、機銃掃射を受けた体験談をよく目にする。米軍の作戦任務報告書に目を通すが、機銃掃射をおこなった記述はない。「Test Fire(試射)」はある。
250`爆弾が炸裂した際、破片がそこら中に飛び散る。それを述べているかもしれない。

 彼女の証言は貴重である。
自宅が火災によって焼失している。当時の新聞、鹿児島日報も火災について触れているが、場所を比定できない。西千石町でも甲突川と市電に囲まれた一帯は、爆撃後に更地となっている。米軍の偵察写真がとらえている。

kagosima damage3.jpg

 体験談を読んでいると、「柿本寺電停」周辺は悲惨な状況だったらしい。地面にクレーターができ、負傷者も随分とあった。そのうえ、火災である。
彼女は、こうした光景を目にしたのではないか。被災後の後片付けにも刈りだされたかもしれない。
 また、彼女は鹿児島市立高等女学校の学生だった。
この日、当校は爆撃によって女学生8人の死傷者を出している。現在の天保山中学校にあった。8人の女学生たちは、豚の世話の当番で登校していた。体験を語る彼女は、これを知っていることと思う。学校のあった下荒田町周辺の被災状況も、記憶にあるかもしれない。

 彼女は昭和20年6月17日の空襲についても触れている。
米軍資料「Tactical Mission Report no.206」によると、この日の爆撃は県立一高女が重要になる。同校の近くに住んでいた体験者は、激しい空爆にさらされたと思う。
それでも、生き延びたのだから運がよかったとしか言いようがない。

 彼女の家族は、市外に疎開せずに加治屋町にとどまっている。多くの市民が鹿児島市を去るなかでの証言は、かなり貴重である。
空襲体験だけでなく、終戦後の様子(昭和20年代)も尋ねて良いのではないか。
もっと掘り下げる必要があるのでは、と記事を読みつつ思った。

参考文献
「証言語り継ぐ戦争450 遺言守り戦火くぐる」2025年8月30日付南日本新聞
posted by 山川かんきつ at 05:53| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年09月04日

九州の主要港と工業地帯 1945年8月28日付文書から

「九州の主要港と工業地帯」で、1945年5月15日の日付が記された米軍文書を紹介した。「PRINCIPAL PORTS AND INDUSTRIAL AREAS KYUSHU, JAPAN」である。

 およそ3カ月後に作られた同じタイトルの文書があった。日付は1945年8月28日。
工業地帯の説明が、6カ所追加されている。

principal port and industrial area 19450826.jpg
 国立国会図書館デジタルコレクション


1.KARATSU(唐津)
  Among 6 Largest Machine Tool Plants in Japan.
  六大工作機械工場の一つ。

2.OMUTA(大牟田)
 @Largest high grade Zinc Plant in Japan.
  日本最大の高品位亜鉛工場

 A3rd Largest Alumina Producer in Japan; A Primary Producer of Dyestuffs.
  日本第3位のアルミナ生産。染料の一次生産者。

3.KOKURA(小倉)
  Rank 1st in Japan in Artillery Vehicles, Small Arms, Optical Instruments.
  砲兵車輛、小火器、光学機械で日本第一。

4.SAGANOSEKI(佐賀関・大分県)
  One of the Largest Copper and Lead Refineries in Japan.
  日本の銅と亜鉛の精錬所のひとつ。

5.NOBEOKA(延岡)
  Important Concentration of Explosives.
  爆薬の重要な集中地

6.MINAMATA(水俣)
  Largest Peacetime Producer of Nitric and Acetic Acid in Japan.
  平時日本で、窒素と酢酸最大の生産者

 米軍は、九州の工業地帯に関する知識を増やしている。公開情報や偵察、捕虜などの情報を元に、検証を重ねたのだろう。

 米軍は、九州各県の産業の集中度について、次のような評価をしている。

FUKUOKA PREFECTURE(High industrial concentration)
Pig iron and steel, coal and coke, petroleum, non-ferrous metals, chemicals, machinery, ordnance and ammunition, rubber products, cement, glass.
 福岡県(高度な産業集中地)
 銑鉄、鋼鉄、石炭、コークス、石油、非鉄金属、化学、機械、兵器及び弾薬、ゴム生産、セメント、ガラス

SAGA PREFECTURE(Low industrial concentration)
Coal, coke.
佐賀県(低い産業集中地)
石炭、コークス

NAGASAKI PREFECTURE (Moderately high industrial concentration)
Coal, coke, shipbuilding, railroad equipment, ordnance and ammunition.
長崎県(中程度の産業集中地)
 石炭、コークス、造船、鉄道車両、兵器及び弾薬。

KUMAMOTO PREFECTURE (Low industrial concentration)
Silk
熊本県(低い産業集中地)
 絹織物

OITA PREFECTURE (Low industrial concentration)
Non-ferrous metals, cement, glass.
大分県(低い産業集中地)
 非鉄金属、セメント、ガラス。

MIYAZAKI PREFECTURE (Low industrial concentration)
Chemicals
宮崎県(低い産業集中地)
 化学

KAGOSHIMA PREFECTURE (Low industrial concentration)
鹿児島県(低い産業集中地)

 重要な工業は、福岡県に集中していたらしい。同県と長崎県に思いを馳せると、軍の需要が地域経済を担っていたとする見方もできる。
大分県や宮崎県、佐賀県、鹿児島県は低い産業集中地と、米軍は評している。
鹿児島県以外は、非鉄金属や絹織物、化学などの産業名が記されている。

だが、鹿児島県は記述がない。
このことは、現代も変わらないと考えてもよさそうだ。
ただし、当時の米軍の評価である。
posted by 山川かんきつ at 08:54| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする