2025年07月08日

戦争体験談は 読む時代へ

 毎日新聞に目を通していて、納得する見出しに目がとまった。
「戦争体験 読む時代へ 福岡の団体記録をもとに意見交換」である。

 福岡市の市民団体「福岡・戦争を記録する会」が、戦時中に福岡県内で起きた出来事や証言を冊子にして、学ぶ会を始めたそうだ。
代表者によると、「福岡での戦争の記録がまとまった形で残っていない」という問題意識があったらしい。

これは意外だった。
大牟田市や北九州市などの空襲に関する書籍が出ているため、福岡県は研究が進んでいるものと思っていた。
米軍資料に「ISLAND OF KYUSHU」と記された文書がある。同軍は九州をひとつの島と見立てて、地勢や飛行場、発電所、産業などを調査している。公開資料や捕虜などの証言などから、情報を積み上げているようだ。
米軍の動きを知るために、九州島として考察したほうがいいかもしれない。

kyushu AF&AA.jpg

 地図に、九州各地の飛行場施設と防御施設が記されている。

 福岡戦争の記録を読む会と似た活動を行っている人たちが、鹿児島市にもある。
戦争体験談について語り合っているそうだ。良い活動を行っている。
これまで集められた戦争体験談を、どのように活用するか?

 毎日新聞の「黒い雨 定説覆した100歳 気象学者増田善信」が、参考になる。
増田さんは、原爆投下後の広島市に降った「黒い雨」の範囲を見直す調査をひとりでおこなった。36年にも及ぶ調査は、健康被害に苦しむ人々を救う助けになったそうだ。

 調査のきっかけは、「雨域がおかしい」。ひとつの疑問から始まった。36年間、ひとり黙々と調べる。
その際、増田さんは証言集を読み込み、資料と照合する作業を行ったそうだ。
証言の裏づけをとり、客観的に雨域を特定されたのだろう。
同氏の姿勢は、各地の空襲を調べる際にも有効である。

 鹿児島市を例にあげる。
『鹿児島市史』と『鹿児島市戦災復興誌』によると、同市が受けた空襲の回数は8回。
それぞれの空襲に関する、当時の記録が見当たらない。
鹿児島市史に記された参考文献に目を通すと、戦後10年以上経って出版された個人の回想録や建設省の書籍をもとにしている。
これらの書籍が、裏づけ資料といえるだろうか。はなはだ疑問である。
それでも、今年の戦争報道は従来通りだった。鹿児島市の空襲は8回。

 現在は情報公開が進み、日米両軍の資料をネット上で閲覧できるようになった。
両軍の資料をもとにしつつ、戦争体験談をすり合わせる必要がある。
体験談は、終戦から数十年経って活字化されている。時間の経過は、案外長い。
記憶にまつわる認知バイアスを考慮する必要があるだろう。

 虚記憶や事後情報効果、圧縮効果、バラ色の回顧、後知恵バイアス、ピーク・エンドの法則など。人の記憶に、こうしたリスクがあることも頭にいれておく必要がある。

 鹿児島市の空襲を調べる際、もうひとつ厄介なことがある。それは、『鹿児島市史第2巻』にしるされた空襲の記述が常識化していることである。
同書は昭和45(1970)年に出版されている。これ以後に集められた空襲体験談は、同書の記述に沿う形で記されたものが多い。

 メディアは同書に基づいて報道してきた。
毎年6月になると、鹿児島大空襲が報道される。その際、「鹿児島市の空襲は8回」と繰り返し報道されれば、刷り込まれる。
最近、米軍資料の公開もあってこれまで知られなかった空襲が明らかになった。
昭和20年3月29日、4月16日、7月17日など。

知られていなかった空襲と表現よりも、「黙殺されてきた空襲」と呼んだ方がいいかもしれない。
戦後80年とメディアは報道してきたが、これまでのところ従来とほとんど変わらない。
期待しすぎた自分が悪いのだろう。

参考文献
「戦争体験読む時代へ 福岡の団体記録もとに意見交換」2025年5月11日付毎日新聞
「黒い雨 定説覆した100歳 気象学者増田善信」2023年10月1日付毎日新聞
posted by 山川かんきつ at 08:37| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年07月01日

沖縄戦に関する新聞記事

 沖縄戦に関する新聞記事は、各紙ともに充実していた気がする。
とくに、讀賣新聞「戦後80年昭和百年 沖縄」は、充実していた。沖縄戦の84日間を短い文章でつづっている。
また、白旗をつけた細長い枝をもって、カメラに向かって手を振る少女の紹介もあった。
当時7歳。まだお元気で、体験をつづっている。

 今年は西田参議院議員の「ひめゆりの塔」発言も影響していたのだろう。
各紙が伝える沖縄戦は、詳細をきわめていた。これまでの積み重ねた取材の賜物だろう。
沖縄戦が事細かに描かれる要因は、県をはじめ民間でも戦時資
いるそうだ。

こうした積み重ねが、沖縄と戦争を詳述できているのだろう。
料や体験談を収集したことにあると思われる。
沖縄県の近現代史を研究者だけでなく、一般の人たちもアプローチして
 保阪正康さんが、西田議員の発言に対して歴史修正主義と評していた。
その発言に対して、反論できる史実を沖縄県は有している。

 沖縄戦に関する記事に目を通していて、鹿児島と空襲に思いを馳せた。
今年6月17日、各メディアはどのように報じるだろうと、静観していた。
地元放送局は「昭和20年6月17日鹿児島大空襲 鹿児島市の空襲は8回」と、従来通りだった。

 空襲報道を「鹿児島市」と「昭和20年6月17日」に限っている。それは、なぜか。
常々、疑問を抱いている。
南日本新聞だけが、鹿児島市の空襲は12回と報じた。同社は勇気があったと思う。
記事に目を通していくと、粗削りのところが多い。記者さんたちも半信半疑かもしれない。
米軍資料と研究者の論文などに目を通すと、20回近くになりそうだ。
鹿児島市だけでなく、各航空基地をも対象にしているため、時間がかかっている。

 同紙の記事を読んでいて気になる点がある。
6月17から18日にかけての空襲は、オリンピック(九州上陸)作戦と関連しているらしい。
それはどうだろうか。
この日の攻撃を記録した米軍の作戦任務報告書に、そうした記述は見当たらない。

 「戦略爆撃」や「戦術爆撃」、「戦争経済」といった視点に立った方が良いかもしれない。
同社の空襲に関する報道は、これまでと少しずつ変わっていくかもしれない。

 鹿児島市の空襲を例にあげると、昭和20年3月18日から始まる。
『鹿児島市史』と『鹿児島市戦災復興誌』に、当日の記述がある。これもそっくり書き直す必要がある。また、同年3月29日を加えなければならない。
大幅に書き直したり、新たに付け加えたりといった作業が必要な段階に鹿児島市の空襲はあると思う。
posted by 山川かんきつ at 23:39| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月25日

鹿児島市の戦災と復興資料・写真展

 先日、鹿児島市荒田町にあるサンエール鹿児島に訪れた。
「鹿児島市の戦災と復興資料・写真展」を見るためである。

 鹿児島市が受けた空襲の説明文に目をとおす。『鹿児島市戦災復興誌』の記述そのまま。
空襲の回数は8回。空襲それぞれの説明文は従来どおり。

 一方、今月16日付で南日本新聞は、空襲の回数を12回と報じた。「鹿児島大空襲あす80年 南九州の拠点、計12回」である。
筆者は、同紙の記事を支持する。見出しは12回と断定しているが、「少なくとも」とした方がよかったと思う。増える可能性が大いにある。

 同紙に掲載された「全国主要都市戦災概況図」と12回の空襲の一覧表は、再考の必要がある。
一例をあげる。
地図である。鹿児島飛行場建設前の姿を描いている。そのため、鹿児島航空基地が海中に没している。
また、「鹿児島飛行場」と記しているが、そこは修理施設があった所である。
真砂本町で不発弾が見つかった地点に近い。

昭和20年3月18日時点で、新川両岸にどのような施設があったか。
そのことが頭にあれば、紙上に掲載された地図のおかしさが分かると思うのだが・・・。


19450318 kagoshimaAF 1.jpg


 地図に示された3月18日の被災地域は、米軍の偵察写真と異なる。この日、鹿児島海軍航空隊と鹿児島航空基地の施設が被災した。攻撃目標が、両施設だったからである。
同紙の地図を見ていると、南鹿児島駅を含む周辺が、被災している。
そうなると、この日の指宿線は不通だったろう。
空襲体験談に目を通すが、それを裏づける話をまだ目にしたことはない。

 こう記された原因のひとつに、4月8日の空襲被害が関係していると思われる。
この日、二軒茶屋踏切より南鹿児島駅側で土砂崩れが発生している。
これは、アメリカ戦略爆撃調査団の作成用資料の文書に記録されている。

 また、3月18日の空襲説明で、午前7時50分と記している。おそらく、『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』の記述をもとに記したのだろう。
アメリカ海軍の艦載機戦闘報告書と日本海軍の資料が記す、時刻と異なる。
この日の第一波は、午前6時45分から午前7時の間である可能性が高い。
ちなみに、第1波の戦闘機集団はコルセアである。グラマンではない。
この日、鹿児島航空基地は午前と午後に分かれて攻撃を受けている。
午前7時50分と記すと、史実と合わなくなる。

 鹿児島市が受けた空襲の回数に疑義を立てのだから、12回それぞれの空襲に関して詳しく論じるべきではないか。筆者はそう考える。
記事冒頭にある通り、黎明館所蔵記録や米国側文書などを基に考察されたようだから・・・。

 サンエールで展示された写真を眺めていたら、1枚の写真に目がとまった。
「山下国民学校(小学校)敷地整理」である。
写真右上に、焼け残った校舎をとらえている。遠景にザビエル教会堂と照国神社の鳥居も確認できる。

 昭和22年8月9日撮影とある。初めて目にする写真である
終戦から2年目を迎えても、戦災を受けた建物がそのまま残っている。
こうした風景はいつごろまで続いただろうか。
終戦後の復興は早かったという印象をもっていたが、市民生活の復興は歩みの遅いものであったかもしれない。

 その写真は、あらためて考えさせる1枚だった。


参考文献
 南日本新聞2025年6月16日付
「鹿児島大空襲あす80年 地方都市へ初の大規模攻撃」
posted by 山川かんきつ at 07:07| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月21日

鹿屋 軍事上の重要性

 朝日新聞の「戦後80年大隅の戦跡D 特攻といえば鹿屋発信を」読みつつ、考えた。同紙2025年6月16日付。鹿屋市で戦跡を案内する女性の話である。

 鹿屋と串良の両基地から1271人が特攻作戦で命を落とされた。知覧基地からは439人。
知名度は知覧が高い。女性は歯がゆさを感じているらしい。
「原爆被害の広島、長崎、地上戦被害の沖縄、特攻といえば鹿屋。そう位置づけられるのでは」と、女性は提言する。
「特攻=鹿屋」として発信したいらしい。

 1945年5月15日の日付が記された米軍資料がある。鹿屋基地に関する記述がある。

The KANOYA Airfield, target of recent carrier and B-29 raids, is the most important field in southern KYUSHU.

「鹿屋飛行場は、南九州でもっとも重要な飛行場」と、米軍は評している。
米軍のいう南九州は、薩摩半島と大隅半島、宮崎県も含まれる。同県の北緯32度27分から南側のエリアになる。
同文書はつづける。

Situated at the airfield is the 22nd Naval Air Depot which provides extensive aircraft maintenance, repair, and possibly production facilities.

 ざっとした訳をとる。航空機の整備や修理、生産など広範囲に提供する第22海軍航空廠が鹿屋飛行場にある。

 同航空廠は、出水や鹿児島、人吉、宮崎にも工場を有していた。
第22海軍航空廠の歴史に関する文書や文献は、なかなか見いだせない。わずかに残る資料から、想像するほかない。

 朝日の記事を読んでいて、特攻作戦に限定した歴史観に陥りそうだ。
米軍の文書に、「KANOYA」と題された地図がある。やはり、1945年5月15日の日付が記されている。

kanoya map1.jpg

 同地図は3つの飛行場が記される。鹿屋、笠之原、串良。
また、高角砲や機銃などの位置も記されている。これらは米軍の見立て。日本海軍の資料と見くらべながら、調査する必要がある。
幸いにも、慶応大学の安藤先生が鹿屋基地と第22海軍航空廠との地図を再現くださった。
筆者は、多いに参考にさせてもらっている。
笠之原と串良の両基地は、これから詳らかになるかもしれない。

 第22海軍航空廠は、機材や材料などを鹿屋市周辺に分散させていたようである。同市だけでなく、高山や垂水、吾平などである。それらも調べる必要がある。
また、同航空廠や航空基地が鹿屋市に与えた経済効果も調べてみたい。
航空廠や航空基地と取引する企業が、周辺に点在していたのではないか。それに伴い、雇用も生み出されたのではないか。
他の自治体関係者が見れば、鹿屋市は成功した町と映ったかもしれない。

 『人を動かすナラティブ』と題する書に、おもしろい記述がある。

 歴史も教科書も、個々の出来事はどれも断片的で、そのままではなかなか頭に入らない。だが、それらをつないでひとつの「お話」としてのナラティブの形式にしていくと、受け取る者の脳にも収まりやすくなる。

 鹿児島県の十五年戦争に関する報道に接していて思う。
空襲や特攻、引き揚げ、シベリア抑留など。断片的に伝えられる。理解が追いつかないところがある。要因のひとつとして、十五年戦争がひと続きの物語になっていないことにあるかもしれない。

 今月21日付朝日新聞に、工藤洋三先生のインタビュー記事が掲載されていた。
同先生は、空襲史の第一人者。
インタビュー記事は、昭和19年6月16日小倉空襲を始まり、大村空襲、機雷作戦、原爆まで触れていた。同先生は、それらの空襲がひと続きにして語っている。
鹿児島県の空襲史も、鹿児島大空襲のみを報じるのではなく、ひとつづきの物語になればと思う。

 「鹿屋=特攻」として、情報発信したい気持ちは分かる。
第五航空艦隊と第22海軍航空廠という重要な施設を有していた史実を、鹿屋市は持っている。
軍事上の重要施設を抱えていた鹿屋市として、調査などを行ってはどうだろうか。


■参考文献
「戦後80年大隅の戦跡D」2025年6月16日付朝日新聞
『人を動かすナラティブ』(大治朋子・毎日新聞出版・2023年)
posted by 山川かんきつ at 07:36| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月18日

鹿屋市花岡と戦争

 せんだって、朝日新聞で連載中の「戦後80年大隅の戦跡」に目を通した。
鹿屋市花岡の空襲に関する記事に、目がとまった。2025年6月14日付「戦後80年大隅の戦跡C 市街地の外でも襲った戦火 鹿屋・花岡空襲と再建伝える遺産」。

 1945年8月5日、鹿屋市花岡は空襲に遭い33世帯の家屋と倉庫などが焼失したらしい。
工藤洋三先生の論文によると、この日、垂水町(現垂水市)が大規模な空襲を受けている。第7、第5の2個航空軍による攻撃である。

 20年近く前、鹿児島市小松原で戦争体験者から話をうかがったことがある。垂水が攻撃を受けている様子を、小松原の海岸から眺めたそうだ。現在の小松原1丁目の辺りになる。
翌日の8月6日、この方も空襲を体験する。谷山空襲である。細いつながりを感じながら、新聞記事を読み進める。

 記事は、花岡について述べる。

 花岡空襲のことは市内でもあまり知られていない。鹿屋基地をはじめ基地の近くは何度も空襲があったが、花岡は市街地から8`ほど離れた垂水市境の鹿児島湾近くにある。大きな軍の施設があったわけでもない。それなのに、どうして狙われたのか。

 そうして、記事は空襲や戦跡を調査している小手川さんの解説を記す。

 当時、米軍は垂水にジェット機の生産場所があったと誤認していたことがわかっている。小手川さんは爆撃機の飛行コース、機種、時間帯から「垂水を狙った一部が何らかの理由で花岡も襲ったとみていい」と話す。

 同氏の調査で今後、空襲の実態がわかってくるかもしれない。
記事をよみつつ考えた。花岡を狙った可能性はある。B29の作戦任務報告書に目を通すと、主目標と臨機目標の言葉がでてくる。

 昭和20年6月17−18にかけて行われた鹿児島市空襲もそうである。このひ、B29 が120機出撃。そのうち、117機が鹿児島市上空で投弾。2機が山川と岩川の上空で投弾と記録されている。主目標は鹿児島市、臨機目標は山川と岩川。

 また、作戦任務報告書に「JETTISONED(遺棄)」とある。花岡上空で、あえて投下した可能性もある。ただし、第21爆撃集団の作戦任務報告書を参照したまでである。花岡を攻撃した第7と第5航空軍の報告書に目を通す必要がある。どのように記されているかだろう。残念ながら、筆者は両軍の報告書をもたない。

 第22海軍航空廠の資料に、次のような記述がある。

 兵器分散一覧
46.海道松集会所(市内花岡海道松) 一式陸攻撃機補用品
47.古里集会所(市内花岡古里) 九六陸攻機体補用品
  花岡青年学校 タイヤ8コ、脚、燃料槽、部品
  旧花岡町役場 旋盤
  花岡青年学校 燃料槽、排気管プロペラ、スピナー

 海軍の資料に記録されている。これらのことも念頭に入れると良いかもしれない。
米軍は、鹿屋市をどのように分析していただろうか。

kanoya map1.jpg

これから、色々な事実が分かってくるかもしれない。

■参考文献
「戦後80年大隅の戦跡C 市街地の外でも襲った戦火 鹿屋・花岡空襲と再建伝える遺産」
朝日新聞2025年6月14日付
posted by 山川かんきつ at 06:51| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月13日

垂水海軍航空隊に関する米軍文書

朝日新聞で、「戦後80年大隅の戦跡」と題する連載が始まった。
第1回目は、垂水市にある海軍の地下壕に関する記事である。昨年だったろうか、この地下壕に関する記事が、地元紙でも報じていた。
朝日新聞の記事を読んでいて、気になった点がある。垂水史談会の方のコメントである。

 地下壕は市史には記されていたが、「よく残っていたなと思った。航空隊があった証拠になる」。

 垂水海軍航空隊の全容は、まだ分かっていないと理解してよいのだろうかと。
ネット上で、同航空隊の記事を見渡す。記念碑に関する画像は出てくる。航空隊の生い立ちも詳しく報じているサイトもある。
だが、航空隊の敷地や施設などに関する記事は見当たらない。

 アメリカ軍の資料に、垂水海軍航空隊と思われる記事がある。1945年5月15日の日付が入った文書である。同文書に1枚の写真が掲載され、こう記されている。

19450325tarumizukoukutai2.jpg

KAGOSHIMA WAN-Unidentified storage area
Sortie 3PR/5M100/2/XXIBC, 25 Mar. 1945


 工藤洋三先生の著書『米軍の写真偵察と日本空襲 写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害』で、1945年3月25日偵察飛行があったことが分かる。同書に写真が掲載され、「垂水海軍航空隊」とある。

 鹿児島湾未確認貯蔵地区。工藤先生の著書によると、「未確認目標XXI−6112と分類された」と、説明されている。
米軍の文書はつづける。

Location: On a point eleven miles southeast of KAGOSHIMA Airfield on the east coast of KAGOSHIMA Wan: two miles South of TARUMIZU.

 直訳する。位置:鹿児島湾東岸、鹿児島飛行場から南東11マイル、垂水の南2マイルの地点。

 また、垂水海軍航空隊の様子を米軍文書は、こう記す。

 Six horse shoe revetments are north of the main warehouse area.
 The revetted buildings have painted camouflage.


 直訳する。
 6つの馬蹄状護岸が、主要倉庫地区の北側にある。
 建物の外壁は迷彩塗装が施されている。

 Total Facilities
36 Warehouse- type buildings (倉庫型建物36棟)
 2 barracks buildings      (兵舎2棟)
6 miscellaneous buildings   (その他建物6棟)
 2 small boat revetments    (小型船用埠頭2)
 6 horse shoe revetments   (馬蹄状護岸6)

 Total area covers approximately 3,430,000 square feet.
(総面積およそ343万平方フィート)

平方フィートを尺貫で表すと、およそ34町を超える広さと、米軍は見立てた。

 米軍文書に掲載された写真に、「KUNUGIBARU」とある。「柊原」であろう。
また、「北緯31度28分 東経130度42分」とあり、グーグルアースであたってみた。
やはり、柊原よりやや北側になる。
工藤先生の著書や緯度経度などを参照すると、米軍文書に掲載された写真は「垂水海軍航空隊」の施設をとらえている。

追記(2025年6月15日記)
 日本海軍の資料に、垂水海軍航空隊のこととして、次のような記述がある。

発電機 1基 隧道式防空壕内(発電機室)
空気圧縮ポンプ 2基 練習生魚雷調整場及び魚雷調整場

 発電機の置かれた場所が、新聞記事の言う「地下壕」と関係があるのか否か、今の筆者はわからない。記録された文書があるといいのだが・・・。



参考文献
「戦後80年大隅の戦跡@」2025年6月10日付朝日新聞
『米軍の写真偵察と日本空襲 写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害』・工藤洋三・2016年
posted by 山川かんきつ at 21:19| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月11日

空襲に関する報道

 南日本放送のホームページを見ていたら、鹿児島の空襲に関する報道があった。
体験者は、南九州にお住まいで95歳の女性。当時、鹿児島高等女学校3年生。
以前、他局で「鹿児島女子高校」とあったため、てっきり「鹿児島女子興業学校」と理解していた。勘ちがいしていた。

 MBCの報道を読み、映像を見ながら考えた。
「昭和20年6月17日鹿児島大空襲」といった観点から、報道している。
地元メディアの特徴である。この日の空襲のみ取り上げる。
鹿児島市の公式資料は、「鹿児島市が受けた空襲は8回」とあるにもかかわらず。

 同局の報道で、「動員学徒碑」を紹介していた。そこに、35名の名前が刻まれている。
そのうち33名は女教師と女学生たちである。彼女たちは、昭和20年4月8日の空襲で、2ヶ所の工場で命を落としている。工場は、上荒田町と郡元町にあった。
鹿児島高校が編纂した『動員学徒殉職50年追悼式典記念文集』が、伝える。

取材をされた記者は、碑の説明を学校関係者から説明を受けただろう。
昭和20年4月8日の空襲に触れたのではないか。記者さんは、どう感じただろうか。
この日の空襲は、鹿児島市街地が被災している。
鹿児島市のホームページによると、死者587人、負傷者424人を出したそうだ。
大きな被害である。

 この日、鹿児島市を襲った米軍機はB29である。米軍資料に記録されている。
B29は、鹿児島市だけでなく鹿屋市にも爆弾を投下している。両市の空襲も考えなければならない。

 報道で証言をなさった女性は、4月8日の記憶をお持ちではなかっただろうか。
空爆後、学生たちは負傷者の救助やガレキの整理、線路の補修にあたっている。
米軍の偵察写真をみると、鹿児島市西千石町は更地になっている。

kagosima damage3.jpg

また、この日を境にして地方へ疎開する市民が多くなった。流言飛語も数多く飛ぶようになったようだ。それは、鹿児島日報に記されている。

 先述のMBCの記事を読んでいて、ひとつの疑問がわいた。

アメリカ軍のB29、117機は午後11時すぎに鹿児島市上空に到達。13万個もの焼夷弾を降らせました。

 文中にある「B29、117機」は、米軍の作戦任務報告書を読まなければ分からない数字である。どういった資料から見いだしたろうか?
もし、米軍資料を見たとしたら「午後11時すぎ」という表現はない。午後11時6分が初弾投弾時刻である。
また、「13万個の焼夷弾を降らせました」とあるが、これも具体的な数字と爆弾名がでてくるはずである。

 このことは、MBCの報道だけでなく他社にもいえる。
その記述は、どういった記録を参考にしましたか? 問いただしたくなる報道を見ることがある。
原因のひとつに、鹿児島の空襲に関するテキストが無いことが挙げられるようか。
筆者のように、米軍や日本海軍の資料を使って、従来の言説を否定する者がいる。

 記事を読んでいて、地元メディアは、役所の公式発表を信じて疑わないようだ。
そこに、「権威バイアス」や「確証バイアス」を見いだせるかもしれない。

関連記事
 「やはり失うにはもったいない記憶
http://burakago.seesaa.net/article/514799781.html

■参考文献
『動員学徒殉職50年追悼式典記念文集」(鹿児島高等学校・平成7年)

 戦後80年 鹿児島大空襲「戦争の記憶を次の世代に」【昭和からのメッセージ(22)】
 MBC 2025年6月4日配信

posted by 山川かんきつ at 06:37| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月08日

戦争体験者との面談

 先だって、戦争体験者と話をうかがう機会があった。御年98歳の女性。
彼女が体験した、鹿児島市の空襲について語っていただいた。
改まった席で空襲体験を聞く。筆者にとって、初めての体験である。
これまで、日常会話のなかで高齢者から話を聞いていた。

 事前に、彼女に関する情報を集めた。良家のご令嬢。
実際に話をうかがっていると、実家に家政婦さんがいるほどのご令嬢だった。
話しぶりや佇まいなどからも、それとなく分かる。
筆者がこれまで話をうかがった人たちは、尋常小学校を卒業後に就職していた。
また、近代史をあつかった図書で、当時の生活レベルや所得格差などの智識はあった。
今回の面談で、庶民と良家の間に大きな隔たりがあったのを感じた。

 彼女は空襲の話を始めた。昭和20年6月17日から18日にかけて行われた、いわゆる「鹿児島大空襲」である。
その際、昭和6年作成の地図とB29が撮影した写真とを手渡した。
地図に、彼女の自宅が記されている。

 空襲が始まると、港湾の方へ避難したらしい。地図をみながら指さす。自宅から港まで数百メートルの距離。風が海側から吹き始め、難を逃れたと言われた。

air raid kagoshima 19450617.jpg

米軍の写真は、海側から風が吹いていたのを捉えている。
また、照明弾についても話された。

 この日、B29が落とした照明弾は「撮影用照明弾(M46 Photoflash)」54個。
筆者の推測になる。彼女の見た照明弾は収束焼夷弾のリボンに着火した炎だったのではないか。照明弾について、多くの体験談が残されている。おそらく、収束焼夷弾だろう。

 次に、昭和20年11月頃に撮影された写真を見ていただいた。朝日通から鹿児島市役所方面をとらえた写真である。筆者が調べても分からない建物があったため、尋ねたのだ。
終戦直後に撮影された写真のため、コンクリート造の建物は崩れ、ガレキが散乱している。
はるか80年も前の記憶は、簡単に思い出せないでいるようだった。

 その他、町内会事務所の場所を尋ねた。事務所自体を存じ上げなかった。
町内事務所は、行政の末端組織。配給を始めとした行政手続きは、当事務所で行っていた。
存在を知らないと言うよりも、忘れてしまったのかもしれない。80年も前のことだから。

 鹿児島市が受けた空襲で、昭和20年4月8日について尋ねた。具体的な日付を示さずに、尋ね方を変えてみた。当時、彼女は谷山町にあった田辺航空工業に挺身隊として勤務していた。
tanabe1.jpg


「田辺から自宅まで、歩いて帰ったことがありませんか? 宇宿町から先は、どの道を通りましたか?」

 彼女は即答した。
 その日、仕事が終わると走って自宅まで鹿児島海軍航空隊を横目にして帰ったそうだ。
この日の空襲で、西千石町や平之町、加治屋町の一部、新照院町の一部、田上町、下荒田町、上荒田町、郡元町が被災している。

 指宿線は土砂崩れのため不通。鹿児島市電も二軒茶屋の辺りが被弾して不通だった。
彼女曰く。「家族を心配するあまり、周りの景色は目に入らなかった」。
当時、18歳。必死になって自宅を目指したのかもしれない。

 彼女の話は、戦中と戦後の食糧事情に関する話が主だった。着物と米を交換するのに、相当な苦労だったらしい。
また、終戦直後の預金封鎖や新円切り上げ、インフレなど経済に関する話は実感がこもっている。

作家・向田邦子もエッセーで触れている。戦中から戦後にかけての食料と経済事情は、当時を生きる人々にとって深刻な問題だったようだ。
終戦直後から始まったインフラ整備ばかりに注目されがちだが、彼女たちが伝える「暮らし向き」にも目を向ける必要がある。

 書店に足を運んだ折に、『台所に敗戦はなかった』と題する1冊を目にした。
彼女たちの話を思い出しながら、手にとった。


参考文献
『台所に敗戦はなかった』(魚柄仁之助・筑摩書房・2024年)
posted by 山川かんきつ at 11:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月03日

学術研究会議 清沢洌の論考から

 清沢洌に、「学術研究会議に望む」と題する論考がある。昭和18年12月に、東洋経済新報の社論に掲載されている。
読み進めると、今の国会で議論されている日本学術会議の問題と重なってくる。
清沢は述べる。

 学術研究会議改組の目標は、これを以て各方面に跨る研究団体や組織の中枢神経となし、兎角に散漫になりがちな科学同院に総合的統一を与へるためである。元来同会は大正九年に創立をみた政府唯一の学術研究連絡機関であるが、従来は他の同じやうな機関が然る如く単に社交機関視されて、具体的な功績を遺すに至らなかった。それを今回改組して科学研究動員の参謀本部たらしめんとするに至ったのだといはれる。

 日本学術会議の前身は、大正時代にあったらしい。論考は昭和18年に書かれている。ミッドウェー海戦以後、米軍に押され続けていた頃である。
政府としては、自然科学系の学者を動員する意図があったと思われる。
清沢は同研究会の改組に賛意を示しつつ、危惧する点も述べる。

 斯くて記者は文部省の今回の処置には原則的に賛成であるが、ここに二三の注文がある。
第一には政府が余りに統一の整理のと学問と研究に干渉せざらんことだ。(途中省略)
政府の役目は、ただ学問の研究に便宜と聯絡を与へる程度であっていいと考える。


第二に今回の学術研究会議が単に形式的な陣立に終わってはならぬことだ。同会議の中には研究動員運営の期間として、会員及び各関係官庁代表者約五十名を以て科学研究動員委員会を設けることにしこれを各大学、専門学校の教授陣と連結せしめてゐる。

 第三に懸念されるのは、この会議が官僚一色に塗りつぶされて居りはしないかの点だ。過去においても動員とか、統合とかといふと官僚を中心にする傾向があった。産業界においては流石にそれでは実効があがらないことを現実に発見して、普ねく産業人を動員するやうになったが、他の部門、殊に学界の方面では依然官学中心の傾向にあるのは大学院の問題にも見られたところだ。各省の役人と官学の教授連の連結では、それが形式化する可能性は可なり多い。人材を普ねく朝野に発見することは絶対に必要である。

 現在、審議中の日本学術会議に関する報道に接していると、清澤が危惧する点と重なる。
とくに、第一で述べる「政府が余りに統一の整理のと学問と研究に干渉せざらんことだ」の一文である。
昭和18年の改組でも、懸念を示すジャーナリストがいた。80数年を経た現在、またもや懸念される状態にある。

 清澤は論文を、次のようにしめくくる。

 記者は学術研究会議の改正に賛意を表するが故に、願はくはこの会議が単に目前の問題のみに終始することなく、学問の本質に顧みて遠く慮かり、かつ人文科学の方面においても活動の動力とならんことを希望するのである。

 報道に接するかぎり、日本学術会議を法人化するメリットがわからない。NHKのニュースサイトによると、会長経験者6人が声明を出している。

法案には学術会議をよりよいものにしようという理念は感じられず、この機会に監視を強めて政府がコントロールしようとしているように感じる。

 清澤の論考に、日本の教育は国家に有益な者を育てるためだというのがある。
コントロールは、「統制」である。
清沢洌の論考や日記に目を通していると、現代と繋がったり、似かよったりするのを感じる。気のせいと思いたいのだが、哲学者鶴見俊輔の著作に次のような一文がある。

 今の日本を理解するために、その背景として1931年から45年までの、長い戦中の年月の日本を背景としておくことが大切であるように思います。

 学術会議の問題以外にも、公文書管理やお役所の体質など戦前・戦中と変わらぬのを感じる。ジャーナリストは発表報道ばかり伝えるのではなく、政府やお役所に説明責任を果たさせなければ…。


■参考文献
『暗黒日記』(清沢洌・評論社・1995年)

 暗黒日記: 戦争日記1942年12月~1945年5月 - 清沢 洌, 橋川 文三
暗黒日記: 戦争日記1942年12月~1945年5月 - 清沢 洌, 橋川 文三

『戦時期日本の精神史』(鶴見俊輔・岩波現代文庫・2015年)

戦時期日本の精神史 1931〜1945年 鶴見俊輔 岩波書店
戦時期日本の精神史 1931〜1945年 鶴見俊輔 岩波書店


posted by 山川かんきつ at 22:38| Comment(0) | 清沢洌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年05月31日

戦後80年

 毎日新聞で、「戦後80年の敗戦後記」と題するコラムを目にした。今月25日付である。
冒頭から辛辣である。

 戦後80年のジャーナリズムは、あきれるほどたわいもない。「戦後の平和がずっと続いてほしい」と祈る教条的護憲派がいる。戦後的思考のゆがみをしれっと素通りする無頓着さがいとわしい。自らの良心と正しさに満足している分、罪は一層深い。

 先だって、鹿児島県の空襲を調べているK氏と話した。
「戦後80年の節目にもかかわらず、先の戦争に関する報道が低調だ。先の大戦の記憶は、無くなるだろう」と、嘆いておられた。
生真面目にして、正義感にあふれるご仁ゆえ、そう思われているのだろう。

 鹿児島県が受けた空襲を一覧すると、昭和19(1944)年10月10日に始まる。翌年8月15日まで、「いつ、どこで、どのような」空襲があったかハッキリしない。
分かりにくい。報道は各市町村の郷土誌を基にして、ストーリーを組み立てる。
郷土誌を見ていくと、客観性のない記述を目にする。読むたびに、「?」と頭をかしげることがある。

 例えば、航空基地に関する記述である。鹿児島と岩川に関する記述は、首をかしげるばかりである。その言説は、どのような資料を基にしているだろうか。
報道や行政誌は答えてくれない。そのため、自分で調べるより他ない。
両航空基地について、後々触れる予定である。

 先述の毎日新聞のコラムは、こうつづく。

 戦争体験者の証言をどう継承するか。それを何より正しい実践と信じる平和愛好家がいる。体験談をとことん聞き取った経験のある人なら、当事者は必ず「うそ」をつくと知っている。記憶と忘却、正戦と平和、価値の実践とは。自問なき戦後は、さらに罪深い。

 かなり辛辣な内容である。記者の気持ちは、理解できる。
これまでの戦争体験談に目を通していると、「悲劇と受難」のナラティブとして表現されている。コラムにある通り、体験談を正としてそのまま報道される。
やはり、体験談に客観性を持たせるため、裏付けを取る必要があると思う。

 今月、地元紙に「昭和19年元旦の記憶」と題するスケッチが掲載されていた。
1機のB29が空を飛び、高射砲か高角砲が応戦している。背景に霧島連山か桜島と思しき山が描かれている。
88歳の方が描いたらしい。7歳時の記憶である。

 昭和19年1月1日に、B29が日本に飛来していない。翌年の元旦の様子と思われる。
残念なことに、スケッチに関する記事がない。どういったシチュエーションを描いたのか、説明がない。先述のK氏は、これについても憂えていた。

 メディアのスタッフも筆者と同様、戦争を知らない世代。
このような情報を得て、どのように扱えば良いのか分からないのではと推測する。
戦争体験者が描いたスケッチをそのまま掲載したのだろう。貴重な記憶として。

 体験者から直接話を伺う機会は、ほとんどないと思う。聞く側が戦争や戦災に関する智識を持たなければ、話を聞いても理解が追いつかないと想像する。
これまで記録された体験談を、一次資料と照らし合わせながら精査していく段階にあるようだ。


清沢洌評論集 (岩波文庫 青 178-2) - 清沢 洌, 山本 義彦
清沢洌評論集 (岩波文庫 青 178-2) - 清沢 洌, 山本 義彦

 外交評論家にしてジャーナリストの清沢洌が、「現代ジャーナリズムの批判」で、こんな言葉を残している。昭和9(1934)年の講演から。

 慣れないジャーナリストというものは、とにかく人情味を持つのであります。
 ジャーナリズムには氷のような冷ややかさがなくてはならぬ。


 戦争体験談も、冷ややかな分析が必要だと思う。

■参考文献
 2025年5月17日付毎日新聞・土記「戦後80年の敗戦後記」
2025年5月14日付南日本新聞・ひろば
「現代ジャーナリズムの批判」(清沢洌・『清沢洌評論集』所収・岩波文庫・2013年)
posted by 山川かんきつ at 09:17| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする