2015年03月12日

竪馬場通

南洲墓地を後にして、参道の階段をおりて南洲門前通りの方へ向かってみます。
その前に、南洲墓地階段について少し。

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■ 浄光明寺燈道
南洲墓地の階段、大正5年刊行の『鹿児島市史』によると、“浄光明寺燈道”と呼ばれていたようです。
この階段は天保年間城下絵図にも描かれており、明治後半頃になると相当傷んでいたようです。
鹿児島市では明治42年11月9日、階段の補修工事を行っています。

「浄光明寺燈道改築工事成ル、燈道ハ第一、第二ノ階段ヨリ成ルモノヲ総称ス。第一ハ三十六階段ヲ設ケ、第二ハ四十五階段造ニシテ里道ニ属ス。此延長二十九間五尺之ニ沿タル土堤ニ花卉ヲ移植シテ更ニ風致ヲ加フ、近来階段踏面凹禿縁石敗壊シテ漸ク荒頽ニ傾ク故ニ市ハ工費ヲ市会に要求シテ十月一日此工ヲ起ス、時偶マ晴天累日作業大ニ進捗シ速成ノ想アル亦宜ナリ此工事費金千五百三十二円ヲ要シタリ」

階段をおりて南洲門前通りの方へ行くと、左右に大きな通り、竪馬場通がでてきます。

■ 竪馬場通
竪馬場通は車の往来が多く、通りの両側には商店が並んでいます。
明治時代の竪馬場通の様子を伝える本に、「改正鹿児島県地誌」というものがあります。
明治24年に出版されたもので、挿絵や地図がふんだんに掲載されており、面白い本になっています。

「改正鹿児島県地誌」は『明治の鹿児島―景観と地理』に掲載されており、明治時代の地図が鹿児島市だけでなく、谷山・喜入・指宿・枕崎・市来・串木野・川内・出水・姶良・国分隼人・鹿屋・垂水・志布志・名瀬・古仁屋・伊仙などの地域も掲載されています。
古い地図を探されている方には、参考になるかもしれません。

さて「改正鹿児島県地誌」では、竪馬場通のことを次のように記しています。
“竪馬場通ハ、易居町ノ正北ニアリ。上方(かみほう)ニ於テ、繁盛ナル街市ニシテ、商家相並ビ往来甚多シ”
明治時代中ごろには、すでに竪馬場通には商家が立ち並び、賑やかな通りであったようです。

時代はくだって、太平洋戦争終了後、竪馬場には吉野方面から野菜など並べたヤミ市が立ったようです。
『鹿児島市戦災復興誌』によると、昭和21年1月、米軍政部・県・市・警察などが協議の結果、鹿児島市の5ヶ所にフリー・マーケットを設置することになったそうです。
上町地区は竪馬場、中央地区は納屋馬場、草牟田地区は新上橋、武地区は宮田通り、荒田地区は騎射場。
竪馬場通は、人の集まる重要な通りでした。
これは明治以後に始まったことではなく、江戸時代には既に見られたようです。

■ 江戸時代の竪馬場通
『城下町鹿児島』(著者;山田尚二)によると、「館馬場に直角に交差するのが竪馬場であった。一般人は館馬場は通れなかったので、迂回して新橋から竪馬場を通る人が多く、竪馬場は上の中心的大通りであった。」とあります。

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竪馬場通の名前の由来やいつ頃整備されたかは分かりませんが、おそらく現大龍小学校の地にあった内城の築城と深い関係があったと思われます。
竪馬場を坂元方面に向かった所に“内の丸”という地名があったことや、旧日向路の通り道になっていたことから考えれば、とても重要な通りであったようです。
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2015年03月04日

南洲墓地周辺

南洲墓地の周辺は、むかし「龍尾山」と呼ばれていたようです。
大正4年刊行の『鹿児島自慢』によると、「丁丑役に於ける薩軍唯一の墳墓たり、上龍尾町付近、龍尾山と称する丘陵の一面を占断す」
また、同書によると、境内のお店では「南洲餅」「征韓飴」なるものも販売していたようです。

『薩隅日地理纂考』によると、この辺りには竜ヶ尾神社という島津忠久公を祭るお社があったそうです。
その後、神社がどうなったかは不明。

明治時代に書かれた『かごしま案内』にも、”龍ヶ尾丘”という地名が記載されています。

また勝目清さんの『かごしま市史こばなし』によると、上・下竜尾町の地名由来は、南洲墓地付近を”竜ヶ岡”と呼んだことがあったことに起因しているのではないかと記述しています。
今回は、南洲神社と墓地にまつわる話になります。

南洲神社と南洲墓地
南洲墓地は、明治10年の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめとして、薩軍将兵を合葬した墓地。
明治10年9月24日城山が陥落したあと、西郷さんその他40人の検死がおこなわれました。
検死が終わると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て遺体を引き取り、その日のうちに浄光明寺境内(現在の鳥居付近)に仮埋葬したそうです。

1879年、有志が城山や鹿児島市内外に仮埋葬されていた220余人の遺骨を収容して、現在地に改葬しました。
そのとき、参拝所も建てたそうです。
1883年には、九州各地に葬られていた遺骨を収集。現在では墓碑749基、2023人が眠っているそうです。

大正2年(1913)10月、木曽御料林の桧材で建てられた銅板葺きの社殿が完成されました。
当時、この社殿を「南洲祠堂」と呼んでいたそうです。
大正11年(1922)6月になると、南洲神社という社号が許されたのでした。

また神社近くには、鹿児島市立教育参考館という資料館や西郷さんの木像もあったそうです。

鹿児島市立教育参考館
昭和4年刊行の『鹿児島史蹟』によると、教育参考館について次のように記しています。

「南洲神社に参拝し、左に廻れば教育参考館がある。この建物は、昭憲皇太后に五十余年間奉仕された高倉典侍が、明治天皇の御下賜金と、多少の節約とによって得られた金とで、明治43年東京麹町区平川町に建てられたのを、大正5年、神戸の川崎芳太郎氏が譲り受け、其れを此所に移して市へ寄付されたもので、市は之を教育参考館と名づけ、薩藩文化の一班と本県出身名士の遺物文書等を陳列し、公衆の観覧に供して居る。

同書には、参考館に陳列品の目録が掲載されており、文書記録、書画絵図、写真、衣服類、刀・甲冑・銃器、雑品、標本類に分類されています。
目録には、「濱崎太平次の居宅図」「大阪夏陣戦闘図」というものもあったそうです。
残っていれば、ぜひ見てみたいものです。

西郷さんの木像
南洲神社参道の階段をのぼっていくと、左手にお土産屋さんが出てきます。

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そこには昭和20年まで、西郷隆盛の木像が立っていたそうです。
その木像は、東京の上野公園に立つ西郷さんの銅像の原型で、彫刻家高村光雲によって作られたものでした。
『智恵子抄』の作者である高村光太郎は、光雲の息子になるそうです。

西郷さんの木像の写真は、『南洲神社・墓地由緒 (かごしま文庫 (79))』 『写真集明治・大正・昭和 鹿児島』に掲載されています。

南洲墓地に建っていた西郷さんの木像は、明治32年2月の春の大祭で除幕されました。
『かごしま文庫79 南洲神社・墓地由緒』の作者によると、現存していれば重要文化財級の木像で、鹿児島の市街地を見守るように立っていたそうです。

昭和20年7月31日の空襲
7月26日、鹿児島市の海岸通にアメリカ軍機からビラが投下されました。
ビラには次の攻撃目標が詳細に記され、鹿児島駅や吉見鉄工所、専売公社などが爆撃目標となっていました。
そうして、翌日の27日午前11時50分、空襲警報発令後まもなく、米軍爆撃機の編隊(B24)が出現。
鹿児島駅を目標にして、爆撃が始まったのでした。

この爆撃については、昨年8月の南日本新聞に画像とともに報道されていました。
確か8月15日前後の記事だったと思いますので、ごらんになってみてください。
この日の爆撃では、鹿児島駅を中心に車町・恵美須町・和泉屋町・柳町などが被災。
教育参考館にも1トン級の爆弾が落とされ、建物は全壊してしまいました。
このときの爆風で、南洲墓地の墓碑20基が倒壊したそうです。


4日後の7月31日、上町は再び空襲に見舞われることになりました。
7月31日午前11時半ごろ、ロッキードの編隊数十機が襲来。
空襲によって清水小や大竜小など多数の民家が焼かれてしまいました。

このときの様子を『かごしま文庫79 南洲神社・墓地由緒』では、次のように記しています。
「午前11時ごろから1時間余り、度々の空襲になれてはいるものの、至近距離からの耳を聾する爆発音に生きた心地もせず、壕の中で家族数名かばい合いながらおびえていた。
近づいては遠のき、遠のいては近づく轟音に、いつやられるかと観念の目をとじていた。

やがて静けさが戻った。壕から出てみると上町方面の数ヶ所から火の手があがり、どうしたことか、自然の風はないのに、にわかに嵐のようなものが吹き巻きはじめた。
火が嵐を呼ぶのか、風が火を呼ぶのか、あっというまに南洲神社の高台にまで火の粉が降ってきた。
市街地がまだ焼けきらないうちに飛び火となって攻め立ててくる。

まず社殿が焼けた。大正2年に木曽ご料林のヒノキ材で造られ、美を誇る社殿は、音を立てて崩れ落ちた。次に社務所に延焼した。
神社のある高台の、建物という建物はことごとく炎上し、石造の鳥居と、南洲墓地の墓群のみが、しーんと静まり返っていた」

戦災と復興
昭和20年7月31日の空襲で、本社・摂社・社務所などことごとく炎上してしまいました。
しかし、昭和25年9月には仮殿と社務所を復興。
昭和32年9月には、鉄筋コンクリート造りの本殿が完成しました。

昭和44年には四方学舎の事業を譲り受け、寄付によって鉄筋二階建ての社務所が完成。
昭和45年には拝殿も完成され、復興事業はほぼ完了したそうです。

また昭和53年、西郷南洲記念顕彰会が募金によって資料館を建設し、鹿児島市に寄付をしました。
それが、鹿児島市立西郷南洲顕彰館です。
この資料館では、西南戦争に関する資料が展示されていますので、いちど足を運んでみてください。
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2015年02月27日

幕末と明治初期ごろの浄光明寺

西郷さんや桐野利秋、篠原国幹など西南戦争で散った猛者たちが眠る南洲墓地。
藩政時代、ここには浄光明寺という薩摩でも屈指の大きなお寺がありました。
薩摩で唯一の時宗の名刹で、代々殿様の帰依と保護を受けてきたそうです。
このお寺、たびたび火災に遭い、その都度建て直されていたようです。
文久3年、最大の被害を受けることになりました。

まえんはまいっさ(薩英戦争)
文久3年(1863)7月2日、天保山の砂揚げ場台場からの砲撃によってイギリス艦との砲撃戦がはじまりました。
鹿児島には台風が近づきつつあり、7月2日のこの日は烈風が吹き荒れていたそうです。
薩英戦争を描いた絵図でも、風が吹きすさぶ様子が描かれています。

イギリス艦には新兵器、アームストロング砲が備え付けられていました。
はじめ各台場の砲台を狙い打ちし、ひとつひとつ潰していったそうです。
浄光明寺は攻撃目標となり、周辺の建物や民家などともに兵火に焼かれてしまいました。
上町の硫黄商人の倉庫に、パーシュース号のロケット弾が命中したことが火災を大きくしてしまいました。
士族の家だけでも300戸が焼失したそうです。
鹿児島県の歴史 (県史)
に、薩英戦争の戦闘経過を表した図が掲載されています。
それによると、上町で焼失した地域は小坂通りから滑川にかけてのエリアであったようです。
詳しくは、鹿児島県の歴史を参照してください。

上町は大きな被害を受けましたが、商家の多かった下町は無傷であったそうです。
斉彬公が新波止砲台を築いたとき、市街の中央前面に当たる海岸線に土塁を構築させたそうです。
また、二階造りの民家を建てることも禁じたことから、海からは市街が見えない仕組みになっていたそうです。
下町方面は、砲弾も土塁に当たるだけで被害を受けなかったようです。
土塁は、明治4年の廃藩置県の際、取り除かれたそうです。
この戦争をきっかけにして、薩摩藩は幕末史の中心に躍り出ることになりました。


その後の浄光明寺
戦火に遭った浄光明寺、いくらか再建されたようです。
三国名称図会に掲載されたような古刹であったかどうかは分かりません。
明治2年になると、廃仏毀釈によって廃寺となってしまいました。

同じ年の暮れ、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスが鹿児島にやってきました。
新政府が医学の範をドイツ式にすることとなったため、ウィリスはクビになりかけていました。
ウィリスを救って鹿児島に招いたのが、西郷隆盛であったそうです。
来鹿したウィリスは、鹿児島医学院院長となりました。
医学校は浄光明寺跡に建ち、ウィリスはここに仮住まいしていたそうです。

病院は赤レンガを使った、洋館づくりであったことから「赤倉病院」の名で親しまれていたそうです。

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正式な名前は「鹿児島医学校病院」でありました。
病院の組織は外科、内科、産科、眼科の4つ。
最新の設備と機構を備えており、ウィリスを慕って福島や静岡などから留学生が続々と乗り込んできたそうです。
また、仮救寮所を設けて貧困者の無料検診をおこなうなど、厚生面での業績は大きかったようです。
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